シュヴァイツァー5 信仰義認論への挑戦(5)
「医学研究1905~1912年」
シュヴァイツァーは、奉仕活動をするために医者となる決心をし、1905年10月、自分の教えていた大学の医学部の一学生として解剖学、生理学、化学、動物学などを学びはじめた。また他方では、神学部の講師と説教者としての役目を果たしつづけた。そしてその間に、1906年、長年の課題であった『イエス伝研究史』が完成した。
その研究結果について次のように述べている。
「私は『イエス伝研究史』の中で、イエスは、後期ユダヤ教の世界終末期待およびその後現わるべき超自然のメシヤ王国の期待という観念界の中に生きていた、ことを証明した。この観念は、今日の我々から見れば妄想的な感がある。」(著作集2、『わが生活と思想』、136頁)と。
「妄想的な感がある」というのは、実際には、超自然のメシヤ王国は実現せず、終末は延長されて来たからであろう。
『イエス伝』の研究が終わったのでシュヴァイツァーは、自然科学の勉強に没頭した。従って、科学的思考法が彼の神学に反映していることは言うまでもないことである。
*無形なる神を実証するために、文鮮明師は電子工学を学ばれ、宇宙を創造した「神様は科学者である」と言われ、「ペア・システムを中心とした万物は、理想的な愛を訪ねていくことができる人間の教材です。」「宇宙の根本は愛である」「神様の宇宙創造の動機は愛」(『天聖経』宇宙の根本)であると言われた。
バルトは一切の人間学的要素を排除したが、ティリッヒは「科学と心理学と歴史学は神学の味方である」と言った。
「アフリカで医療活動」
シュヴァイツアーは、6年間の勉強の後、新婚の妻とともに1913年当時フランス領であったアフリカのランバレネで黒人達の医療にあたり、第一次世界大戦、フランスの植民地に住むドイツ人として捕虜、帰郷、第2次アフリカ事業(1924~1927年)、帰国、1929年12月第3次アフリカ事業、第二次世界大戦、とこの激動の時代を生き抜き、90才で世を去るまでこの困難をきわめた医療活動を放棄することはなかった。また同時に時間のあるときは「文化と倫理」を省察した。
(二)「初期キリスト教の発展史」(科学的な歴史研究)
「シュヴァイツァーの神学姿勢」
シュヴァイツァーは『イエス伝研究史』を完了して後、「パウロの教義」の研究に移った。その時の心境について次のように語っている。
「パウロの教義を研究するにあたっても、聖餐およびイエス伝の研究の場合と同じ方法をとったのであった。つねに私は、単に得た解決を叙述する、に満足しなかった。さらにそれ以上に、問題の歴史を書く、という仕事をみずからに課したのであった。」(著作集2、『わが生活と思想』、147頁)
このように、シュヴァイツアーは既存の学説を徹底的に歴史的に研究して既存神学の教義に追従しない気骨ある心情を吐露している。
「イエスとパウロの研究は対」
また第一次世界大戦の勃発が契機となって「文化哲学」を考究するようになるが、『イエス伝研究史』と対である「使徒パウロの神秘主義」の研究があるが、それについて次のように述べている。
「医学研究も終わりにちかづいて、神学研究に当てる暇ができたときには、パウロの思想圏にかんする科学的研究の歴史を、『イエス伝研究史』と対になるものとして、また、《パウロの教義》解の緒論としても、つくる必要にせまられていた。そしてわたしは、イエスおよびパウロの教えをあらたに解釈した立場から、聖餐と洗礼との発生史、および、その初期キリスト教時代における発展史に最後的な形をあたえるのには、1年ないし2年と予定されていたアフリカでの活動が終わったあとの、休息の期間をあてようと考えた。しかし、この計画は第一次大戦のため、だいなしにされた。わたしが要約のことでヨーロッパに帰ったのは、2年どころか4年半のちのことであり、その上、わたしは病気で、生活の手段さえ奪われていたのであった。しかもそのあいだに―またもやあらたに間奏曲! ―わたしは文化哲学にかんする仕事にはいりこんでいた! こうして、『初期キリスト教時代における聖餐および洗礼の歴史』は講義用の草案のままで終わったのであった。・・・・これの根本思想は、『パウロの神秘主義』についての著作のなかで述べておいた。」(選集2、『わが生活と思想』、40頁)
*文鮮明師も「歴史は科学の時代に来ています。」(『天聖経』分冊『真の神様』92頁)と言われている。
カテゴリー: シュヴァイツァー「生命への畏敬」