シュヴァイツァー12 信仰義認論への挑戦(12)
比較宗教の発端はシュヴァイツァーからです。
シュヴァイツァーは『キリスト教と世界宗教』という書物の中で、キリスト教と諸宗教を対立させ、「バラモン教と仏教」そして「シナの宗教思想」を分析し、「インド的宗教心が一元論的悲観主義的であるならば、シナ的宗教心は一元的楽観主義的である」(40頁)と述べている。彼は西洋的世界観の問題を追及してそれ自体を明らかにするために、二つのことを明らかにする。「世界人生否定的悲観主義的であるか、世界人生肯定的楽天主義および倫理的であるか、」と。
そしてシュヴァイツァーは次のように結論を述べている。
「いずれの思惟的宗教も、倫理的宗教であろうとするか或いは世界を説明する宗教であろうとするかを選択しなければならない。われわれキリスト教徒は前者をより価値あるものとして選択する。論理的な、それ自体において完結した宗教心をわれわれは放棄する。『いかにしてわれわれは同時に世界にあり同時に神にあることができるか』という問いに対して、イエスの福音は答える。『汝が世界の中にて生きそして世界とは異なるものとして働く・・・ことによって』と。」(『キリスト教と世界宗教』鈴木俊郎訳 岩波文庫 58頁)
さらにシュヴァイツァーは対立する問題点について次のように整理し理解する。
「東洋の論理的諸宗教と比較すればイエスの福音は非論理的である。それは倫理的人格としていわば世界の外に立っているひとりの神を前提する。この倫理的人格は世界において作用している力といかに関係しているかという問いの答えとしては、それは不明瞭の域を出ない。神は世界において作用している力の総括概念であること、すなわち存在する一切は神において存在するということを、それは堅持しなければならない。究極的にはそれゆえそれもまた一元論的にまた汎神論的に思惟せざるをえない。同時にしかしそれは神はただ世界において作用している力の総括概念たるべしということに甘んじない、なんとなれば一元論と汎神論の神は―世界に関する自然的思惟の神は―非人格的であってなんら倫理的性格をもっていないからである。それゆえキリスト教は二元論のあらゆる困難を自分自身に引き受ける、それは倫理的有神論である。神を世界とは異なる又私自身を強いて世界と異ならしめる意志として把握する。
たえずくりかえしその存在の幾世期のあいだそれは神に関する自然的思惟から生ずる観念と倫理的観念とを一致調和させようとこころみる。けっして成功しない。未解決のままそれは一元論と二元論、論理的宗教と倫理的宗教の分裂を自身のなかに担う。」(同上、59~60頁)。
*「バラモン教的および仏教的思惟が何かを示すことができるのは、ただ世界から隠遁して無行動的な自己完成に生きられる境地にあるものに対してだけである。畑を耕しているものに或は工場で労働しているものにはそれはただこう言うことができるにすぎない、『きみはまだ真の認識には達していない、そうでないならきみは虚偽にして苦悩多き感覚世界にきみを縛りつけているその労働から目を転ずるであろうから』と。唯一の慰藉(いしゃ)としてそれがかれに期待をもたせて差支えないのは、かれが来世に生まれかわってより高い認識に達し、そしてそのときに世界から抜け出る途を探究することができるということである。」(『キリスト教と世界宗教』シュヴァイツェル、37頁 鈴木俊郎訳 岩波書店)
カテゴリー: シュヴァイツァー「生命への畏敬」