バルト7 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(7)

バルトの「与型論的解釈」

バルトは、十字架による和解から時間的に過去に遡り、「『キリストとアダム』という表題で救済秩序が創造秩序に先行するキリスト中心主義」(『カール・バルトの生涯』E・ブッシュ、553頁)を主張する。

E・ブッシュはそのことに関して次のように述べている。

「創世記第一章、第二章は二つの異なった歴史物語を提示している。そこで語られていることをバルトは二つの命題にまとめている。第一章は『創造は契約の外的な……根拠である』(『創造論』I/1、177頁)。そして第二章は『契約は創造の内的な根拠である』(422頁)」(『バルト神学入門』、107頁)。

また、「逆に創造が神の契約に関係づけられているのである。・・・・創造は契約に一致する。しかしそれはそれ自身によってではない。創造が契約に一致するのは、契約の神が創造をご自身の契約への一致へと呼びかけ、一致へともたらすことによってである。それがバルトが『存在ノ類比』(analogia entis)に反対し『啓示ノ類比』(analogia revelationis)に味方する意味にほかならない(『創造論』Ⅲ/1、98頁)」(『バルト神学入門』E・ブッシュ、110頁)。

また次のようにも述べている。「われわれは創造において契約の神とは別の神――契約の歴史を無視し、われわれをもそれを無視するように招く神――を相手にしているのではないということである」(同上、110頁)。

このように創造が契約に関係づけられている。しかしブルトマンは、これは転倒していると指摘した。しかしバルトは、和解による神認識に、旧約聖書の信仰認識が収斂されると次のように述べている。

「旧約聖書および新約聖書の中で証しされている信仰認識・・・今やイエス・キリストの教会の使信の認識内容である」(『神論』Ⅰ/1、34頁)。

 

そしてさらにバルトは、旧約聖書とカトリック教会の信仰の基本文章としての古代教会の信条まで包含し、すべての神認識はキリストの和解に収斂させるのである。

 

E・ブッシュはこのキリスト中心主義の根拠について次のように述べている。

「もちろん私自身、長い道程(あるいは回り道)をたどって初めて、ヨハネ福音書1・14の言葉があらゆる神学の中心であり、主題であり、もともと神学の全体の簡潔ナ表現でさえあるということを、ますますはっきり洞察するようになりました」(『カール・バルトの生涯』、E・ブッシュ、539頁)。

 

以上のように、これらの見解は、聖書全体にキリストを介入させてキリスト論的に聖書全体を解釈するバルト神学の方法なのである。しかし彼の旧約聖書に対する与型論的解釈は、旧約聖書の豊かさや多様性を認識しないキリスト論的一元ではないかと批判されている。またわれわれの側からは、彼のキリスト論には再臨の視点が抜けているのではないかと指摘することができる。またシヴァイツァーも『イエス小伝』で述べているように、イエスが来られたその時が終末であり、天国の創建が始まっているのである。それなのに公生涯と無関係な十字架の死が絶対予定とされているが、そうであろうかと問題を提起することができる。

 

E・ブッシュは、バルト神学は状況に対応した事柄に関する力動的な叙述であるというが、「和解論」は静的に自己完結したものである。先に指摘したように、再臨が抜けているのではないか。

またバルトの「信仰ノ類比」「関係ノ類比」はカトリックの新しい路線ではないかと指摘され、「存在の類比」があって「信仰の類比」「関係の類比」があるのではないかと批判されている。

 

「リッチュルの解釈法」

*リッチユルはその著「説教の神学」で、旧約聖書に対するキリスト論的アプローチの問題を取り扱い、聖書全体をキリストを介して解釈し、旧約聖書の中にキリストに対する与型を見出す解釈法とか、三一論的出発と教会論的理解を前提する解釈の方法を論述している。この見解は古くからある聖書解釈法の一つである。例えばイエス・キリストを介して、青銅の蛇を贖罪(ヨハネ福音書3・14)、大魚に呑まれたヨナ(マタイ福音書12・40)を復活の予型と解釈されていた。

 バルトの解釈法もこのような予型を見出す解釈法であると言えよう。またこの解釈法は、統一原理の復帰原理にも見られ、アブラハムの路程、ヤコブ路程、モーセ路程を、メシヤの「人類救済の公式路程」(初臨と再臨のメシヤの公式路程)として、神様があらかじめ示しておられると見るのである。言い換えると、聖書に「父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである」(ヨハネ5・20)とある通り、キリスト中心主義、すなわち、再臨のメシヤの観点から旧約聖書を考察したものなのである。

*周知のように、統一原理の「創造原理」と「メシヤの降臨とその再臨の目的」で説く神は、「契約の歴史を無視するように招く神」を論述しているのではない。「旧約聖書の神認識」(行義)も、「和解による神認識」(信義)も、統一原理の解く神認識(侍義)に収斂されているのである。バルトの三位一体の神は霊的な三位一体の神であり、「イエス様と聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体を造ることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった」(『講論』267頁)。したがって、「神を中心とする実体的な三位一体」をつくるために、再臨しなければならない。「神の本体」である三位一体の神とは、一言でいえば「天の真の父母」である。「神の本体」の実体がアダムとエバ、イエスと聖霊、そして真の父母である。神を「天の真の父母」と捉える。バルトが言うように、「神は人間にご自身を人間が神を親称であなた(Du)と呼びかけることができるほどに理解させたもう」(『バルト神学入門』76頁)ことによる。



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