バルト8 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(8)

「悪の本質」

ハンガリーの政治情勢がナチズムから共産主義へ移行した中で、バルトは、「キリスト教会は原則として共産主義に反対する必要はないと主張した。これに対して、ブルンナーはバルトがナチズムに反抗した時と同様に共産主義を攻撃しないと、バルトを非難した。」(『カール=バルト』大島末男著、清水書店、59~60頁)。

バルトが共産主義を非難しない理由は、大島氏によると、「共産圏では経済面においては兄弟愛があると信じたのであった。そして西欧社会では政治的には自由と平等が保障されているが、経済的には不平等があると感じたのである」(同上、60頁)という。

しかし、ソ連が崩壊(1991年)し、現代においては、バルトのように、北朝鮮や中国が「経済面において兄弟愛がある」と信じている人は少ないであろう。

また、共産主義思想は事物の発展は対立物の闘争によるといい、同様に人類歴史も階級闘争によって発展するという。この戦闘的唯物論の本質は、愛ではなく「憎悪」にある。共産主義者は、暴力革命を主張し、「支配階級を震撼せしめよ!」(「共産党宣言」)という。

マルクスは学位論文(『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異』)の序文で、「一切の神々を憎悪する」といい、『ヘーゲル法哲学批判序説』で、「宗教は民衆のアヘンである」と言った。

「汝の敵を愛せ」というイエス・キリストの教えと「弁証法的唯物論」は敵対する。まさしく共産主義の憎悪はサタンの思想であって、神と人類の敵であるといえよう。その敵を愛せとキリストは言うのである。

バルトはナチスの本質を見抜いたが、共産主義の本質は見抜けなかった。われわれはバルトから多くを学ぶが、「この福音に基づくバルト神学は、悪の力を克服する神の根源的な働きに根差す根源的な思考である」(『カール=バルト』大島末男著、清水書院、53頁)などと、とても考えることは出来ないのである。統一原理こそ悪の力を克服する思想なのである。

 

*神の「愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素」(『原理講論』、109頁)である。神の御霊があるところに自由があるのである。

*「悪の始原」とは、既存神学によると、人間は自由意志によって神の恩寵から離れ、神の戒めから自由になり、自分が始原となり、また始原であることを欲し、ヘビ(サタン)の誘惑によって戒めを破るという罪(原罪)を犯した。その結果、サタンの支配下に堕ちたというのである。

しかし人間の堕落が「自由意志」によるのか、統一原理のいう「愛の力」によるのか、という争点がある。

「悪の本質」(憎悪と暴力)

*「共産主義者は、これまでのいっさいの社会秩序を強力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命のまえにおののくがいい。プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である。

万国のプロレタリア団結せよ!」(『共産党宣言』、岩波書店、87頁)

このようにマルクスは、「社会秩序を強力的に転覆する」、「共産主義革命のまえにおののくがいい」と公言している。

毛沢東も次のように語っている。

*「どの共産党員もみな、『銃口から政権が生まれる』というこの真理がわからなければならない。」(『毛沢東語録』講談社文庫、51頁)。「革命の中心任務と最高形態は、武力による政権の奪取であり、戦争による問題の解決である」(同上、51頁)。「戦争は政治の継続である」(同上、49頁)。「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」(同上、49頁)。

*学生時代のマルクスにあてた父親の手紙に、「息子のうちにひそんではいないかとかねがね恐れていた『悪魔』(Damon)をまのあたりに見る思いがした」(『初期のマルクス』淡野安太郎著、勁草書房、63頁)と書かれている。



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