バルト16 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(16)

「聖化」

聖化は、バルトによれば、われわれの義認の帰結であるとともにその目標であり、正にその両方であるという(『和解論』Ⅱ/3、召命の目標 233頁)。

人間の身に起こる変化の究極は、何であろうか。バルトは『和解論』で「召命の意義と目標」に関して、「キリストとのキリスト者の一体化という最高で究極的な表示」、「キリストと彼の一体化というこの偉大な事柄」(『和解論』Ⅲ/3、304頁)であると語る。

またそれは同時に、われわれが神の国への途上にあって、つまり「この世」で福音を証するために装備を整えることでもある(『和解論』Ⅲ/3、人間の召命、証し人としてのキリスト者 358~359頁)と言うのである。

義認から生起して究極的目標である聖化への道のりに関してブッシュは次のように述べている。

「聖化は、ひとり聖なる方と同じ形になることであり、それはその方の『随従への呼びかけ』に聞き従うことである。この呼びかけがどのように厳しいのか、パウロはローマ書一二・二でこう言っている、『あなたがたはこの世に倣ってはいけません!』。その意味はこうである。キリストに従うことは『神の国の開始に対応しそれを証しする決裂、すなわち、われわれを取り巻く世界の、したがってこの世全体の壮大なもろもろの自明性との決裂』において生起すると。それゆえイエスに従う者は、彼の周りの人たちに対し、『よそ者として、愚か者として、有害な者として』不愉快な存在となることがありうるであろう。彼はそれゆえ十字架をになうことにならざるをえなくなることがありうるであろう」(『バルト神学入門』、155頁)と。

 

聖化に関して、以上のように理解した上で、バルトは「われわれの神学は『旅人ノ神学』(theologia viatorum)、『神の国への途上にある神学』である」(同上、142頁)というのである。

 

*「真の人間」

「神がイエス・キリストにおいてわれわれに向かって到来し給うということによって、神とは誰かが定義されるだけでなく、人間とは誰かが同時に定義されるのです。バルトの解釈によれば、それが、イエス・キリストは真ノ神(vere deus)であるだけではなく、同時に真ノ人(vere homo)でもあるという古い言葉の意味なのです。彼は、真ノ人を真ノ神との類比において理解しているのです。つまり、われわれが人間存在としてすでに知っていることを、キリストにおいても確認するというのでなく、キリストにおいてはじめて、『ほんとうに』人間とは誰であるかが規定されるというのです。神が人間なしで自分だけで在り給う存在ではないように、人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識されるように、「真の人間」は神なしで自分だけで生きている存在ではなく、神の人間に対する結びつきから神が共にいます人間こそが真の人間であることが認識されるのです」(『カール・バルトと現代』ひとつの出会い―E・ブッシュ教授をむかえて、22~23頁)。

 

「原理的批評」

福音主義神学のチャンピオンであるカール・バルトの神学を論ずる際に、批判と反批判を通して見てきたが、日本基督教団の多くの学者が、バルト側につき、他の神学や自然神学に対して厳しい批判的観点と見解を保持している。それゆえ、バルト神学に対して原理的観点から見て肯定面と否定面の両面が見えるので、特に、優れた点を指摘すると同時に、バルト神学の排他的狭隘性を指摘せざるを得なかった。

だが、バルトの自然神学への批判は傾聴に値することも事実である。またバルトは人間の生得的な力で、人間の問題をすべて解決でき、神抜きで自己自身の諸問題を自分の力で救済できると考える人間の傲慢さ、すなわち「罪」を根本的に打ち砕いている。言い換えると、世界平和にしろ、社会問題にしろ、あるいはまた「神の本体」や「人間とは誰であるか」という問題、さらに、罪の認識と神の義の問題等々について、それらの根本的解決のためには、キリストを抜きにしては不可能であることをわれわれに悟らしめ、キリストを現代に蘇らせ、「和解」が現代の歴史的政治的な状況の下で、現代人と根源的に深く関係し、われわれがキリストの恩恵によって存在していることを教えている。まさしく、バルトは人間とは誰であるかを知り、真の神を知り得るのは、キリストによる以外に方法がないとことを教えている。

ただし、次の点は指摘しておかなければならない。「統一原理」を知るわれわれにとって、キリスト抜きで神認識は不可能であるとそう教えるバルトと、教わるわれわれとの間に、「神の知」について、その内容に大きな差がある。彼の説く神は「三位一体の神」であるが、神の対象化としては独身男性の一面的な神である。

神様の本体について、文鮮明師は「神様も家庭がり」、「家庭は核である」(『天聖経』2317頁)と語っておられます。神と人間との関係は親子の関係なのである。神の対象化である再臨主の家庭を通して、神認識に関しておぼろげでなく顔と顔を見合わせるごとく鮮明となる。「神の対象化」(家庭的四位基台)についてそうだし、「神の愛」(四大心情圏)についてそうである。われわれが知る神は完全な神である(コリントⅠ13・12)。バルトと同様にキリストによるが、ただし再臨のキリストによる。カントが批判する存在に根拠を持たない形而上学的な妄想や独断論としての神ではない。誰もが家庭において経験できる神の愛である。

 

周知のように、バルト神学は他の神学理論を破壊する。既存神学の概念や観念を排除する意味で神の摂理を担当する洗礼ヨハネ的使命を帯びた神学であるといえるが、同時に、統一原理の創造原理は自然神学であるとして敵対してくる側面もある。

バルトのキリスト中心主義による聖書解釈は既存の福音主義(正)と自由主義神学(反)を止揚統一(合)した弁証法的見解であると言えよう。しかし、その神学は完全な神学ではなく、再臨のキリストに出会うまでの「旅人の神学」であり、「神の国への途上にある神学」であるということを忘れてはならない。

 

「主要参考資料」

『カール・バルトの生涯』エーバーハルト・ブッシュ、新教出版社

『バルト神学入門』エーバハルト・ブッシュ、新教出版社

『バルト初期神学の展開』T.F.トーランス、現代神学双書64、新教出版社

『バルト』大木英夫著、講談社

『カール=バルト』大島末男著、清水書院

『カール・バルト著作集2』エーミル・ブルンナー「自然と恩寵」。カール・バルト「ナイン!」

『カール・バルト著作集8』知解を求める信仰 新教出版社

『カール・バルト著作集4』ルートヴィヒ・フォイエルバッハ 教義学論文集、新教出版社

『トマス・アクィナス』山田晶著、中央公論社

『カール・バルト著作集』14、『ローマ書』新教出版社

『教会教義学』(「神の言葉」、「神論」、「創造論」、「和解論」)新教出版社



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