バルト19 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(19)

(4)「歴史」(原歴史=キリストの出来事)について

古来、キリスト教は歴史の宗教といわれ、自然の事物を崇拝する原始的な自然宗教とは異なる。

バルトの歴史に対する理解は、一般的な歴史ではなく、神の恵みと人間の応答の間に形成された契約関係が歴史(救済史)だというのである。この救済(「神の予定」)の中に神は自己を啓示し、存在するとバルトは言う。このようにバルト神学は形而上学とは関係なく、歴史の中に生起したキリストの出来事に集中する。すなわち、歴史の過程に生起したキリストの出来事を通してだけ、神を理解しようとするのである。

その救済史とは、言うまでもなく、キリストの降誕、復活、臨在、再臨という出来事である。この歴史の全過程の中に神は存在すると、次のようにいう。

「『使徒の働き』17章二八節によれば、隠れている神は、自己の懐(原歴史)の中に世界史の全過程を包摂する存在である。したがって神の存在とは、歴史の全過程を自己の中に包み込むと同時に、歴史の過程の中に生起するキリストの降誕、復活、臨在、再臨という出来事と同一性を保持するのである」(『カール=バルト』大島末男諸、清水書院、81頁)。「神は救済史の全過程を自己の中に包み込むと同時に、救済史の過程の中に存在する。」(同上、137頁)。

上述のごとく、バルトにとって神を認識することとは、神の救済史を認識することに帰着する。この点は統一原理による神認識と同じである。神を歴史の中に生起した摂理的な出来事に見る統一原理の歴史理解は、すなわち、蕩減復帰歴史(神の現実=救済史)は、バルトの原歴史(キリストの出来事)と一致する。歴史は神の勝利の歴史を原歴史(公式的典型的な路程)として繰り返す。但し、原歴史とはキリストの出来事だけでなく、神の勝利の公式路程となったアブラハム、イサク、ヤコブの家庭的勝利路程を拡大しながらモーセの民族的路程、さらにイエスの世界的路程へと螺旋型を描きながら発展してきたと統一原理は捉えるのである。この蕩減復帰歴史の中に神が存在すると統一史観は見るのである。神の存在と神の現実はこの勝利の公式的な路程(原歴史)の中にあるというのである。

神認識が出来るか出来ないかは、われわれがキリストの出来事(「イエスの路程」=個人路程と「再臨主の路程」=家庭路程)に参与して、神の召命に従順に応答するかしないかというわれわれ自身の5%の決断次第なのである。

バルトは言う、「神から出て神へ戻る神の歴史(救済史)と神の自己認識にわれわれが積極的に参与するとき、真の歴史が形成され、真の神認識が生起するわけである。これは、神から出て神へ帰る神の歴史と神の認識が、 われわれ自身の歴史と認識となるのである」(同上、141頁)。

イエスの出来事(「イエスの路程」)が、神の召命に応答すべき人間の生き方の原型なのである。キリストの出来事に巻き込まれて救済された人間は第二次的な意味でのキリストの出来事である。この両者の間に展開される歴史がバルト神学の主題なのである。

原理観から見れば、歴史の中心は、神と人との接点、すなわち、現実のキリストであり、キリストの生き方に参与する人たちによって、世界史を根源的な意味で決定する。バルトの歴史理解は、ヤコブ路程(家庭的路程)、モーセ路程(民族的路程)を原型とするイエスの霊的路程(霊的な世界的路程)を叙述する神学であるといえる。またそれは同時に再臨のメシヤの路程、すなわち、霊肉両面の世界史的路程の洗礼ヨハネ的な使命(模型)を持った神学であると読むことが出来る。バルトにとって神の召命に応答することが、神認識の出発(「和解」)であり、参与は、完全なる神認識への過程である。それが信仰生活(信仰のアナロギア)なのである。完全なる神認識(家庭的四位基台の完成)とは具体的に何かを、バルトは説き得ないとしても、キリストを現代に蘇らせた功績は偉大である。神の本質にしろ、人間の本質にしろ、また罪認識にしろ、キリストを抜きにして論じ得ないことをわれわれに教えている。

残念なのは自然神学を否定し、ラジカルに啓示を一回きりと解釈し、キリスト以外の啓示を認めないところにある。自然神学に対してブルンナーの示す方向で啓示を理解すれば、バルト神学はもっと豊かなものとなったであろう。またボンヘッファーは「非宗教的に聖書の使信を解釈する」ことにバルトが一歩踏み出さないことに不満を表明した。

現実の歴史の中に「神の本質」と「神の存在」を見るバルトであるが、ナチスの本質を「サタン」と喝破したが、共産主義について反対せず、寛大であって、その本質を見抜けなかったことは指摘しておかなければならない。しかし、イエス様は「なんじの敵を愛せよ」と言われたことを我々は忘れてはならない。文鮮明先生も同じことを言われるのである。文鮮明先生が実践された神様の真の愛は地獄も開放する力なのです。



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