ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(11)
(2)「存在論からの神の証明についての諸問題」
ティリッヒは存在論的に神を叙述することについて、「存在自体の構造的要素」から論述すべきだと次のように述べている。
「神は存在の根拠であるから、神は存在の構造の根拠である。神がこの構造に従属しているのではなく、構造が神のうちにその根拠を有するのである。神はこの構造であり、この構造による以外神について語ることは不可能である。神に至る道は認識的には存在自体の構造的要素を通してなされなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、新教出版社、302頁)。
しかし、神に至る道は認識論的には「存在自体の構造的要素」を通してなされなければならないとティリッヒは言うが、その存在自体の構造要素とは何か、また、神に構造があるのか、目で認識できるのか、神を被造物の次元で把握しているのではないか、という問題点が指摘された。
周知のように、統一原理も存在者の構造的要素に関する分析から、「性相と形状の二性性相」、「陽性と陰性の二性性相」という概念で「存在自体の構造的要素」を「二性性相の中和的・統一体」(唯一論)と存在論的に叙述している(『原理講論』の「創造原理」)。
この新しい神観は、ティリッヒの存在論的な神の捉え方と一致する。ただし、ティリッヒの「存在自体の構造的要素」に関しては、神に構造があるのかと批判され、統一原理のように構造を性相と捉えることができなかった。それゆえ、彼は『組織神学』第二版で、神の叙述において経験的範疇の適用を〝象徴〟と改訂せざるを得なかったのである。
大島末男氏は、象徴について肯定的に評価して、次のように述べている。
「存在自体であるティリッヒの神は、本質と実存の分裂に先行するので本質ではなく、存在(実存)と意味(本質)の根拠である。また存在自体、無制約的な力と意味である神は有限な存在者を無限に超越するのに対し、人間は有限性のカテゴリーによって制約されるので、最高存在者という概念も存在者(実存)のレベルまで引き下げる。それゆえスピノザとライプニッツが、それぞれ、有限な存在者の実体、また有限な存在者の原因として神を定義する時、究極的実体や第一原因という概念は、存在自体すなわち創造的・深淵的な存在の根拠の象徴的表現であると解釈されるべきである。つまり宗教的な神は、哲学的には存在自体であり、キリスト教の創造神(力の神)は、哲学的には存在の力、スピノザの『能産的自然』(natura naturans)によって象徴される」(『ティリッヒ』、大島末男著、清水書院、142頁)
しかし、統一原理の「性相と形状の二性性相の中和的・統一体」という神概念は、神には形状(構造)はあるが、形状は「第二の性相」として見るのであって、その形状は他の存在者に並ぶ一存在として、目で認識可能な「構造のある『有形なるもの』」ではない。
第一原因の性相と形状は「無形なる存在」であって、被造物に対して「性相」的な存在なのである。
したがって、ティリッヒのごとく〝象徴〟と修正する必要性はない。統一原理の性相的存在という神概念は、存在論的に神を叙述する困難を解消しているというのである。
(3)「存在自体」(存在の類比)について
ところで、有限なる存在の一部にすぎない人間が無限なるものに関する基盤となり得るのであろうか。
この「問い」について、ティリッヒは神と人間の「存在の類比」(存在のアナロギア)から、この問題は解決できると次のように述べている。
「何となれば、無限的なものは存在自体であるからであり、またすべてのものが存在自体に関与しているからである。Analogia entis(存在の類比)は、有限的なものから無限的なものについての推論によって神への認識を得ようと試みる疑わしい自然神学の特性ではない。Analogia entisは、われわれが神について語ることの唯一の正当性をわれわれに与える。それは、神は存在自体と解されなければならない事実に基づく」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、304頁)と。
このように、ティリッヒは疑わしい自然神学ではなく、神は存在自体であるという根拠から、神と人間の「存在の類比」が成立するという新しい自然神学の可能性について述べているのである。
すなわち、神の存在と人間の存在との「存在の類比」(存在のアナロギア)から神認識の可能性とその叙述の正当性が主張されるのである。
「象徴として」というのは、第一原因を論証する因果律に対するカントの批判によってティリッヒが修正したことによる。しかし、先に指摘したごとく、神を無形として捉える「性相」という概念によって、神の構造的要素の叙述を〝象徴〟と修正する必要性はなくなるのである。
人間が如何にして無限なるものの基礎となり得るかという問題に関して、ティリッヒはハイデガーの著『存在と時間』を引用して次のごとく述べている。
「存在の構造が顕わになる場所を『現存在』と呼ぶ。………人間が自己自身で存在論的問いに答えうるのは、彼が存在の構造とその諸要素を直接に経験するからである。」(同、212頁)
ハイデガーは、人間だけが直接この構造を意識していると次のように述べている。
「現存在は、ただたんに他の存在するものの間にだけ現われるような、存在者ではないのです。むしろ現存在は、自分の存在において、この存在そのものを問題とする存在」(ハイデガー著『存在と時間』(上)、岩波文庫、34頁)である。
また、ティリッヒは次のように述べている。
「人間は他の諸対象の中のすぐれた一対象としてではなく、存在論的問いを問い、自己意識の中に存在論的答えを見出しうる存在として、宇宙を構成する諸原理は人間の中に求められねばならぬ………」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、211-212頁)と。
ここで注目すべきことは、「宇宙を構成する原理は人間の中に」という文言である。啓示論で、キリストは「すべての啓示の基準である」とティリッヒは述べていたが、それと関連させて、完成したアダム(キリスト)が、「存在」とは何かを解明することができるのである。
(4)「存在の力」について
統一原理は「存在の力」、すなわち「万有原力」について次のように論述している。
「神はそれ自体の内に永存する二性性相を持っておられるので、これらが万有原力により相対基準を造成して、永遠の授受作用をするようになるのである。この授受作用の力により、その二性性相は永遠の相対基台を造成し、神の永遠なる存在基台をつくることによって、神は永存し、また、被造世界を創造なさるためのすべての力を発揮するようになるのである。」(『原理講論』51頁)
聖書に、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、あきらかに認められるからである」(ローマ1・20)とある、その「神の永遠の力」を統一原理は「万有原力」として表現し、神が如何にして「自存」しているかを存在論的に万有原力と授受作用および授受作用の力として簡潔明瞭に概念化して述べているのである。
先に論述したごとく、ティリッヒは、神を「存在自体」「存在の力」として捉える神観こそ聖書的であると言ったが、その存在論的な神観は、統一原理の神観を受容可能にする洗礼ヨハネ的な使命をもった神学であると言えるのである。
(5)「神と被造物の関係」について
次に、「神と被造物の関係」について、神と被造物がどのように関係しているのか、という神学的難題についてであるが、先に解説した「万有原力」と「授受作用」および「授受作用の力」で、統一原理は次のように解いている。
ただし、罪と死の支配下、実存的制約下にある被造物に対して、神は如何にして関係し、「主管」(関与)しているのであろうか、という難題があるのである。
統一原理では、神の直接主管圏と間接主管圏(原理結果主管圏)のあることを論述して、この疑問を解く鍵を与えている。
神は堕落行為に干渉されない。また、文鮮明師は人間始祖アダムとエバの堕落によって〝夜の神〟と〝昼の神〟の分裂があり、メシヤ(第3アダム)である真の父母の完成によって〝夜の神〟と〝昼の神〟が統一したと語っておられた。バルトが、〝神は隠れる〟と言っていたことを理解することができるのである。
隠れるのは創造前の純粋な夜の神である。このような原理的理解の基で、下記の原理から見た見解をみていただきたい。
万物は堕落していないが、主管者である人間が堕落して宇宙が「罪の支配」(サタンの主管)の下にある。それなのに、なぜ今でも宇宙(自然)は破壊されずに存在しているのか。存在の力である神の関与なくして存在し続けられないのに、なぜ存続しているのであろうか。
神は、唯一、絶対、永遠、不変である。したがって、神が創造した原理も絶対である。原理で創造した被造物が堕落したからといって破壊するなら、神は失敗の神となり、原理の絶対性を自ら否定することになる。それで、その原理で堕落した人間を再創造されるのである。どのように原理によって再創造されるかは統一原理の人類歴史を解明した蕩減復帰原理と御言を見ていただきたい。
ティリッヒは、実存の制約下で、人間と宇宙(自然)は破壊されているが、キリストによって人間と自然は新しき存在に創造され、超自然の力の介入によって神の国が実現化するという。
文鮮明師は、歴史の目的はただ一人のメシヤを降誕させることにあると言われ、人間の堕落によって、サタンの主管下で破壊された人間と宇宙(自然)を、再臨のメシヤ(真の父母)が再創造し、サタンを自然屈伏させ、真の父母の完成によって創造目的が完成し、夜の神と昼の神の分裂が統一されると語られ、「全てを成した」、「完成、完結、完了した」と宣言された。神様の直接主管する時代(神の国)が到来するという意味である。
今まで誰も解明できなかったこれらの神学的問題に関して、文師の御言と原理は、すべて解明しているのである。
「神は被造物とどのように関係しているのか」という問い関して、統一原理は次のように解明している。
「また、被造物においても、それ自体をつくっている二性性相が、万有原力により相対基準を造成して、授受作用をするようになる。また、この授受作用の力により、その二性は相対基台を造成し、その個性体の存在基台をつくって、はじめて、その個性体は神の対象として立つことができるし、また、自らが存在するためのすべての力をも発揮できるようになるのである」(『原理講論』51頁)と。
このように、統一原理の解く「万有原力」(神の永遠の力)は、ティリッヒが「存在の力」「万物の中に在る存在せしめる力」「万物を目的に導く力」という、その「存在の力」のことである。
また、ティリッヒは「存在の力としての神はすべての存在と存在の総体(世界)とを超越する」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、300頁)と述べている。
以上のごとく、統一原理は、ティリッヒがいう「万物の中に在る存在せしめる力」(授受作用の力)の根源、すなわち「神の永遠の力」を「万有原力」と言っている。また、統一原理は「生命」「活動」「存在」の原理を「授受法」として説いている。
すなわち、すべての存在者は「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)のである。神は人間を形象的個性真理体として、万物を象徴的個性真理体として創造された。したがって、「人間の在り方」(四位基台)は、「万物の在り方」(四位基台)なのである。
以上のように、ティリッヒの「哲学と神学」の「相関の方法」や「存在論からの神概念の叙述」は、統一原理との類似において、極めて重要な神学であるといえるのである。
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