ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(12)

(6)「認識論や価値判断は存在論に基盤をもつ」

 

ティリッヒは、認識論や価値論が「存在論」に基盤を持たなければ、超越的妥当性にとどまるか、恣意(しい)的偶然的な実用主義に陥り、「論理と実在」の関係の問題を見落としてしまうという。このことに関して、藤倉恒雄氏は次のように述べている。

 

「認識行為の分析は存在の解釈なしにはあり得ないし、また、倫理的な価値判断にせよ、その妥当性の主張は存在論的基盤を要求すべきものとする。………プラトンが善と本質的構造(存在の諸理念)とを同一化している点を指摘し、価値が実在に基盤(fundamentum in re, a foundation in reality)を持たないなら、超越的妥当性に止まるか、諸本質の存在論に基づかぬ恣意的偶然的な実用主義に服さざるを得なくなるとする。論理実証主義や言語分析の諸学派が伝統的な哲学的諸問題を捨象して、哲学を一種の論理的計測(科学的論理)に還元するのも、彼らが意味論(セマンティックス)の展開において記号や象徴、さらには、論理的操作のもつ実在との関係問題を見落としている結果とし、………哲学が存在の構造を問題にする以上、存在論的たらざるを得ないとする。」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、47頁、参照:ティリッヒ著『組織神学』第1巻、24-25頁)

 

また、ティリッヒは、新カント学派が先験的認識論において、ついに存在論を認めたと次のように述べている。

 

「十九世紀における新カント派とその関連諸学派が目差したような哲学を認識論と倫理学とに還元する試み………また二十世紀における論理実証主義とその関連諸学派が目差したような哲学を論理的計算に還元する試み………存在論を避けようとする両学派の試みは不成功であった。新カント派哲学の後期の信奉者たちは、どの認識論も暗黙の中に存在論を含んでいることを認めた。」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、24頁)

 

以上のように、認識論、論理学、価値論、倫理論が存在論に基盤を持たねばならないというティリッヒの主張もまた「統一原理」(統一思想)に一致する。彼は、哲学者も神学者も存在論的問題を避けることができないと次のように述べている。

 

「神学が、われわれの究極的関心を取り扱う際、そのすべての命題において存在の構造、その範疇(はんちゅう)、諸法則、諸概念を前提している。それゆえに、神学が存在の問題を避けることの出来ないのは、哲学と同じである。」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、26頁)

 

このように、彼の神学は統一原理を受容可能なものとせんがための洗礼ヨハネ的使命を持った神学であると言わねばならない。

 

(7)「神を存在論的に把握する意義」

 

ところで、ティリッヒは、神を「存在自体」と存在論的に把握しているが、「その概念を必ずしも明確に整理していなかったといわざるを得ない。」(「ティリッヒの『組織神学』研究」、藤倉恒雄著、106頁)と指摘されている。

 

「存在のアナロギア」による完全な神の叙述は、再臨のメシヤの理性によらなければ不可能なのであろうか。

愛の概念化も同様に困難とされ、善も主観的な感情の表現であって、客観的に定義されないといわれている。しかし、絶対的真理として善を存在論的に客観的に定義されなければ、ティリッヒが指摘するごとく「恣意的偶然的」「時代的」「実用主義的」にならざるを得ない。

 

人間の良心や正義感も、時の権力者によって利用されることもあり得る。すべてが相対的なものとされるなら、お互いが正義を主張し、戦争や闘争は永遠になくならない。

真の愛や絶対善が恣意的主観的でなく、客観的に存在論的に解明されないと、罪を審判することも、平和を実現させることも、「救いを完成させること」(天国実現)も不可能である。救いは、救われたと主観的に思い込むことではない。客観的に存在論的に神認識を説き、救いの定義を与えることと同時に、神の愛を完全に認識することは経験可能であると客観的に説くことである。

 

文鮮明師は「四大心情圏」と「三大王権」として神の愛を概念的に解明し、メシヤに接ぎ木された祝福家庭は、真の神の完全な愛を家庭で経験できると説かれる。このように、客観的に具体的に人間の完成目標を「完全な神の完全な愛の体恤」(家庭的四位基台の完成)と明示することである。そうでなければ、救われていると主観的に信じるだけで、客観的に救われたのか、救われていないのか、何時まで経っても分らないのである。

 

実存的状況の下では、キリスト者は救われているという予定論の絶対的な確証はなく、不安はつのるばかりで、いつまで経っても不安は解消されないのである。

 

ティリッヒは、「愛は存在論的概念である。………神は存在自体であるから、存在自体は愛であると言わなければならない。」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、353頁)と述べている。

 

『原理講論』には、「夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない。」(446頁)とある。

神と真の人間の類比から、「神-イエス-聖霊」の三位一体と「神-アダム-エバ」の三位一体も類比関係であると捉え、「イエスとアダム」そして「聖霊とエバ」が対応しているので、エバと対応する聖霊は〝女性である〟と断定される。したがって、無形なる神の実体対象である「イエスと聖霊」すなわち「アダムとエバ」は「人類の父母」として実体として顕現すると解釈できる。

 

バルトが、神は「三位一体の神」であるという所以もここにあると言える。ただし、「三位一体の神」の解釈において、伝統的神学もそうであるが、バルトの神学も神の女性的要素が抜けているのである。

フェミニスト神学は『聖霊は女性ではないのか』(E・モルトマン=ヴェンデル、新教出版社)と言っている。

 

しかし、伝統的神学は、イエスは聖霊によってマリヤから生まれたので聖霊は男性の霊と解釈し、神を「天の父」というが、「天の父母」とは言わないのである。

しかし、聖書には、神は「種をもつ草」(創世記1・11)と動物を創造し、ノアの洪水審判の時に、種類にしたがい「つがいの動物」(雄と雌)を箱舟にいれなさいと命じられた(創世記6・19)とある。

 

また、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1・27)とある。

それゆえに、文鮮明師は、人間、動物、植物、鉱物などすべての存在は〝ペア・システムである〟と語られている(『宇宙の根本』)。

 

神のかたちに創造された人間もペアであるので、神を存在論的に捉えると、神は「天の父母」であるという概念が出てくるのである。

イエスも「父母」(マタイ19・5)と語っておられる。神は、男性的要素だけではないというのである。

ティリッヒの言う「自己-自然」構造は、彼は論じていないが、原理的に言うならば神に似たペア・システムなのである。

 

以上のように、ティリッヒは存在論的な究極者の神概念に基づいて、キリスト教の「使信」を再解釈しようとしたのである。

この偉大な神学者に、われわれは敬意を表するのである。アメリカの神学界も彼から多大な影響を受けたのである。

 



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