ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(16)
(2)「有限性と不安」
さて、本論に戻るが、ティリッヒは有限性と不安について、次のように述べている。
「人間は単にすべての被造物と同様に有限的であるだけではなく、また自己の有限性を意識する。そしてこの意識が『不安』である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、43頁)と。
そして、ティリッヒはアダムとエバが自己実現に向かって自由を行使して堕落したというのである。
次の本文は、有限的自由に根ざした〝不安〟に対する心理学的分析である。
「分析はいわば内側から、すなわちかれがかれの有限的自由を意識する不安の側からもなされうる。かれが自由を意識する瞬間に、危険状態の意識がかれを捕える。かれは、有限的自由に根ざし不安となって発現する二重の脅威を経験する。かれは自己と自己の可能性とを現実化しないことによって自己を喪失する不安と、自己と自己の可能性とを現実化することによって自己を喪失する不安とを経験する。かれは存在の現実性を経験することなしに夢心地の無垢状態を保持するか、あるいは無垢状態を喪失し、その代りに知恵と力と罪過とを得るかの二者選一の前に立たされる。この状態の不安が誘惑の状態である。かれは自己実現化に向かって決断し、かくて夢心地の無垢状態が終焉する」(同、44-45頁)
これが、「自由と堕落」に関する実存主義的心理学的分析によるティリッヒの教説なのである。これ以外に、〝蛇〟は不可解であると述べるにとどまり、何も解明していない。
ところで、自由意志の問題であるが、人間は神の意志通りに動くロボットではない。ティリッヒが言うように、人間のみが自己を神から離間する力(自由)を持つ存在として創造されている。そのような自由な存在であってこそ、人間は神の似像であると言えるのである。
しかし、この自由意志によって堕落したのではない。自由意志は神の愛を求めるが、死を選択しない。自己と自己の可能性とを現実化するために死を避けるのである。
聖書に、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)とある。
しかし、自由がある限り、救われたとしても、また自由のために堕落するとするならば、人間は完全な者にはなり得ないということになる。
神は、そのような不完全な人間を造ったのであろうか。統一原理は、〝愛の力〟は〝原理の力〟より強いと捉え、それで、成長過程において「戒め」を守らなければ、愛の誘惑によって堕落する可能性があるとする。
すなわち、自由意志で堕落したのではなく、愛の力で堕落したと心理学的に分析している(「自由と堕落」より、『原理講論』125頁)。
それでは、なぜ愛を原理の力より強くしたのか。それは、愛を愛らしくするためであった。この神の愛で完成すれば、人間は決して堕落しないというのである。
(3)「原罪と人間観」について
ところで、ティリッヒは次のように原罪論を批評する。
「原罪説は人間に対する消極的否定的評価を意味するように考えられ、これが産業社会に発達した新しい生活感情・世界感情に真向から衝突した。人間に関する悲観論が、世界と社会を技術的・政治的・教育的に改造しようとする近代人の強い衝動を阻害すると恐れられた。人間の道徳的力・知性的力の消極的評価から権威主義的・全体主義的諸結果が生じると懸念されたし、今もそうである」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、48頁)と。
それで、ティリッヒは悲観的な原罪論との関連で、「神学は人間の本質的性質の積極的評価を強調しなければならない」(同)というのである。
シュヴァイツァーも「生命への畏敬」を説き、「世界人生否定的悲観主義」ではなく、「倫理的世界人生肯定的な世界観」を説くべきことを強調していた。
バルトも、神が罪人を否定するのは「神の義」であるが、同時に否定された人間を義として肯定せんがためであるといい、「罪」と「神の義」の関係を弁証法的思惟で理論的に説いている。
このように、原罪論は、一面において消極的否定的悲観的な人間観(罪人)となるので、救済論において積極的肯定的な人間観を説く必要性があるのである。
ところで、「人間の本質的性質の積極的評価」を主張するティリッヒは、神学は人間の偉大さと尊厳の自然主義に反対して「人間の創造された善性を守る点で古典的人本主義と提携しなければならない」(同、48頁)といい、「神学は人間の実存的自己疎外を示すことにより、また有益な人間的窮境の実存主義的分析を使用することによって、原罪説を再解釈しなければならない」(同、48頁)というのである。
「古典的人本主義」との提携というが、統一原理は人本主義(人間中心主義)を批判克服した神本主義(神律)を主張している。言い換えると、神本主義によってヒューマニズムが完成すると説いているのである。
ところで、「原罪説の再解釈」を主張することは傾聴に値するが、しかし、彼は「『原罪』『遺伝的罪悪』などの語を除去」(同、48頁)することを主張する。これには反論せざるをえない。
原罪説と関連させ、メシヤによる接ぎ木によって「新生すること」(ティリッヒ的にいうと「新しい存在」に生まれかわること)を強調すべきなのであって、ティリッヒのように原罪論や遺伝的罪を排除することではない。
上述のように、原罪説が現代社会からなぜ攻撃され、また排除されるのかを知ることは、原罪ゆえに歪んでいる現在社会をいかに救済するかを考察する際の重要な問題意識となる。
ティリッヒは「創世記」の蛇の存在について、次のような疑念を述べている。
「創世記においては、人間のうちまた周囲における自然の力動性を代表するものは蛇である。しかし蛇だけでは力がない。人間を通してのみ本質から実存への移行が起こる。後世の説は反逆した天使の象徴を蛇の象徴に結合した。しかしこれとても人間の責任を解除するものとは考えられなかった。というのはルチファーの堕落は、たとえそれが人間の誘惑となるにしても、人間の堕落の原因にはならないからである。天使の堕落は実存の謎をとく助けにはならない。それはいっそう不可解の謎、すなわち神の栄光を永遠に見ている『祝福された霊的存在』が何故に神からの背反へと誘われたかという謎をもちこむ。」(同、49頁)
つまり、誘惑者である「蛇」の堕落と人間の堕落を関係させる見解は、謎が謎を生み、より不可解なものにしてしまうというのである。
このように、聖書の堕落神話に疑念を表明し、「人間の状況における道徳的要素と悲劇的要素の相互浸透性を記述することが必要である」(同、48頁)というにとどまり、なぜ堕落したのかという問いに対して「自由で堕落した」という伝統的神学の見解を述べ、「本質から実存へ移行した」という事実を記述するにとどまる。
言い換えると、「罪への欲望」「覚醒された自由」が堕落の動機であるというだけで、「原罪」とは何かに関しては、上述のごとく解かれていないのである。
(4)「人間疎外の諸標識と罪の概念」
原罪説に対する文字通りの解釈は、ティリッヒによると「多くの直解的主義的不条理を負わせているから、実際的にはもはや使用不可能である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、58頁)という。
しかし、今まで誰も解きえないからと言って、原罪説を廃棄することではない。この不可解な神話の謎を解く人こそ、再臨のメシヤであるといえるであろう。
ところで、ティリッヒは個人的疎外と集団的疎外について、次のように論述している。
「自由と運命とが一体化しているかれらの行動は、それが関与する全体の運命に寄与しているからである。かれらは、かれらの集団内で犯された罪悪をみずから犯さなかったから有罪ではないが、その罪悪が行われえた全体の運命に寄与したがゆえに有罪である。このような間接的な意味において、一国の専制政治の犠牲となった人たちでさえ、その専制政治に関して有罪である」(同、73頁)と。
これは、統一原理の「連帯罪」に関する記述と同じである。原罪と遺伝的罪については、先に論述した通りである。
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