ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(17)
(5)「実存的自己破壊と、悪についての説」
人間とその世界とは実存的疎外の状態にある。自己矛盾は自己破壊に向かう。それは、疎外の構造自体からくる。この構造をティリッヒは「破壊の構造」という。
ティリッヒは、「(悪は)破壊と疎外の両方……を含む。」「罪は悪の原因であり、また悪そのものである。」「(悪は)罪と疎外の状態から来る諸結果を意味する」(『組織神学』第2巻、76頁)という。
また、「自己喪失は、自己決定の中心の喪失である。」「諸衝動が中心に統一されている間は、それらが全体としての人格を構成する。それらが互いに対立的に働くようになると、それらは人格を分裂させる。」「(分裂が大きくなると)人間の中心ある自己は破壊されることがあり、そして自己喪失と共に人間は世界を喪失する。」「自己喪失は自己決定の中心の喪失、人格の統一の崩壊である」(同、77頁)というのである。
ティリッヒは、「破壊の構造」を上述のごとく論述する。統一原理も「それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない」(『原理講論』22頁)と述べ、この「人間の矛盾性」(破壊の構造)は〝先天的なもの〟ではなく、人間の堕落の結果による〝後天的なもの〟であると述べている。
「有限性と疎外性」の個所で、ティリッヒは次のように述べている。
「人間は存在の根拠から疎外して、かれの有限性に規定されている。かれはかれの自然的運命〔死の運命〕に引き渡されている。かれは無から出て無に帰する。かれは死の支配下にあり、可死性の不安にかられる。これが罪と死の関係の問題に対する最初の答えである」(同、83頁)と。
このように、ティリッヒは、「存在の根拠」(神)から疎外(堕落)して、かれの有限性(肉体の死)に規定される「不安」にかられるという。
キリスト教では、人間の肉体が死ぬのは〝堕落〟に起因するという。そして「永遠の命」とは、人間の肉体が永遠に生きることを意味する。
この見解は、人間には「霊のからだ」と「肉のからだ」があることを知らない見解であるといえよう(コリントⅠ、15・44)。堕落人間は、神から離反(疎外)して霊肉が分離している。それで、霊界が存在することがわからない状態にある。
したがって、死を恐れるのである。ティリッヒは、堕落人間の「肉のからだ」の有限性を根拠に、人間の不安に関する実存を語るのである。
原理的に解説すると、堕落による死とは〝肉体の死〟ではなく、神との愛の関係が切れることをいうのである。
肉体は死ぬが、その肉体の〝死〟は、罪とは関係がないというのである。死ねば「霊の体」となり、霊界で永生する。神の愛のあるところは〝天国〟であり、神の愛のないところは〝地獄〟である。
したがって、「永遠の命」とは肉体が永遠に生きることではなく、神との愛の関係を回復した「霊の体」(霊人体)で、霊界において永遠に生きる喜びをいうのである。
キリスト教の救いとは、この「永遠の命」を得ることである。反対に、神の愛から離反(疎外)した「霊の体」は、生きているが死んだ体なのである。それで、「生きた死体」として、サタンの支配の下で永遠に生きるのである。
それが、聖書でいう「永遠の死」という意味である。このような、死んだ「霊人の復活」(地獄からの解放)に関しては、統一原理の「復活論」で説かれている。メシヤによって再創造されて復活するというのである。
霊界のことを、もう少し原理的に説明すると、旧約時代の律法を行うことで義とされた人は霊界の僕圏で霊形体となり、救い主を待っている。新約時代のイエスと聖霊によって導かれ、キリストを信じて義とされた人は、霊界の養子圏で生命体となり、再臨主を待っているのである。
キリスト教以外の仏教や儒教やイスラム教などを信じて義とされた人たちは、律法と同じ等級の僕圏で救い主を待っているのである。したがって、今まで生霊体となり、天国に入った人は誰もいないのである。再臨主はこれら霊界のすべての人、すなわち、サタンの支配の下にいる僕圏や天国の待合所(養子圏)にいるキリスト者たち、そして無神論や殺人鬼などの悪人たちすべてをサタンの下から解放・釈放して天国へ導くのである。
ただし、再臨主に対して造反した人は「第二の死」(永遠の死)の世界へ行くことになる。彼らは、そこ(罪と死と恐怖の世界)で「生きた死体」として永遠に苦しむことになる。それを後悔して悔い改め、救いを求めるならば、再臨主の教えによって最後には復活する。
ティリッヒの中心思想の一つである生の過程における疎外論は、マルクスが『経済学・哲学草稿』で論述している資本主義社会における「労働生産物からの疎外」、「労働の疎外」、「類からの疎外」、「人間からの人間の疎外」という「四つの疎外論」と対比するとよい。体制の革命か、人間革命(心の革命、心情革命)か、どちらであるかという問題である。
ティリッヒは、「社会構造の改変のみが人間の実存的窮境を改変することができるという信念」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、92頁)をユートピア主義として批判している。
そして、「本質存在からの人間の疎外は実存の普遍的性格である。それは各時代にそれぞれ特殊の悪を限りなく生み出す」(同、93頁)と述べている。
また、マルクス主義が主張する社会体制が疎外(悪)の原因なのではなく、時代を超越した普遍的な「人間の罪」(人間の疎外構造、自己破壊の諸構造)が根本的な原因であると述べているのである。
以上述べた「悪の諸構造は人間を『絶望』に追いやる」(同、93頁)とティリッヒは述べ、「絶望の経験はまた、『呪詛』の象徴によって表現される」(同、96頁)という。
そして、「人間は、呪詛の状態にあってもなお存在の根拠から切断されていない」(同、97頁)というのである。
なぜ切断されないのかに関しては、彼の『組織神学』で解かれていないが、全能で完全な神は〝失敗する神〟ではない、と統一原理の堕落論において解明されている。
(6)「新しき存在への問いと、『キリスト』の意味」
堕落によって神から離反(疎外)した実存的制約下にある人間の意志は、善を成し得ない。「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある………義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものとなっている」(ローマ3・9-12)。
このようにティリッヒは「意志の奴隷性は普遍的事実である」(同、99頁)という。
ティリッヒは、宗教史は人間の自己救済の企てと、その失敗の歴史であるという。それは、人間が彼の疎外性を突破しえない無能力にあるからであるというのである。
そして、救いは「新しき存在」であるキリストを抜きにしてあり得ないということを悟るためであるというのである。
(7)「神、人間、および『キリスト』象徴」
ティリッヒの『組織神学』第2巻の中心は「キリスト論」である。
彼のいう「キリスト」象徴の意味をいかに理解すればよいのであろうか。神・人間・宇宙に対するキリストについての考察で、彼は次のように述べている。
「受肉が、神的諸存在が自然物や人間的存在に変質する神話的解釈をされることがある。この意味では、受肉はキリスト教の特徴であるどころか、はるかにそれから隔たったものである。むしろそれは、異教の神が有限性を克服していないかぎりにおける異教の特徴である。多神教においては、有限性が克服されないがゆえに、神的諸存在が神話的空想によって何の困難もなく自然的諸事物や人間的諸存在に変えられる。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、118頁)
「『ロゴスが肉となった』とのヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である。『肉』は物質的実体ではなく、歴史的実存を表わす。」(同)
「これは変質の神話ではなく、神が一人格の生活過程に顕現して人間の窮境に救済的に関与するとの主張である。もし『受肉』の語がこのような限定された意味に解されるならば、それはキリスト教的逆理を表現することができる。しかし、それにしてもこれはあまり賢明な表現法ではない。というのは、この語の概念の迷信的含意を防ぐことは実際に不可能であるからである。」(同、118頁)というのである。
受肉思想は、いろいろと議論されてきた。グノーシスのキリスト仮現説(イエスの肉体は仮象であり、人間性を否定する)、神の子の神性が人間となる、肉に神性を見る、一時的に天使も見える姿に現われたがこれも受肉なのか、ロゴスが肉となったのはイエスのみである、受肉は被造物である。被造物は神ではない。被造物は被造物を救えないなど、今も論争の対象である。
ちなみに、統一原理はヨハネ福音書のロゴスを、〝理法〟あるいはロゴスによる神の無限なる〝構想理想〟(設計図)と解釈する。その設計図によって、天地万物を創造したというのである。
「世は彼によってできた」(ヨハネ1・10)とは、神は彼(アダム=イエス)を標本として世(被造物)を造ったということである。人間から見れば、万物は人間の形象(『原理講論』67ページ)である。また、人間は小宇宙であると説いている。
ティリッヒは、「『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である」というのは、「キリスト教的逆理」であり、「あまり賢明な表現法ではない」というが、そうであろうか。
ロゴスを御言あるいは原理と捉え、その具体的内容(創造原理、堕落論、復帰原理)を知らないようである。
神は原理によって天地万物を創造された。しかし、神の似姿である天地を主管する人間が堕落したからといって、天地万物を破壊し、その原理を捨てるなら、創造に失敗した神になる。神は失敗する神ではない。したがって、その原理によって堕落した人間を再創造されるのである。アダムが堕落して御言(原理)を失ったので、第二アダム(イエス)を送って御言(原理)を復帰し、原理によって堕落人間を救済されるというのである。
したがって、歴史は一人のメシヤ(イエス=真理)を送ることにあるのである。これが「歴史における神の自己顕現の原理」と言っている意味である。
「神(イエス)が一人格の生活過程に顕現して人間の窮境に救済的に関与する」という意味である。文鮮明師は「原理とは神様の心の中にある主流の憲法である」と語られている。
伝統的神学は、イエスは〝家庭の原理〟について何も語られていないというが、家庭の原理に関して、次のように述べておられるのである。
「……『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・4-6)
このように、「父母」(神)-「ふたり」(夫婦)-「一体」(合性体)という四位基台(存在の原理)について述べておられるのである。
同様に、統一原理は「夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない」(『原理講論』446頁)と説いている。
次に、「キリスト」象徴の意味についてである。
ティリッヒは、「われわれが聖書的また聖書に関連するメシア待望がメシア到来を宇宙的規模で描いていることを考える時、特にその重要性を増して来る。宇宙が新しい世界に生まれかわるのである。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、119頁)という。
新しき存在は、「単に個々人を救済して人間の歴史的実存を改変するのみではなく、また宇宙を更新することにある。………〔人間〕の救済は他方〔自然〕の救済なしには考えられず、またその逆でもある。」(同、119頁)というのである。
このように、救済を個人的に捉えようと宇宙論的に捉えようと、キリストが宇宙の中心(本体)であり、キリストが主管する世界となるのである。
ところで、「宇宙の更新」に関して、ティリッヒの神学には具体的な説明がない。「事物の新しい状態・新しき存在」をもたらすとは、神話的に文字通りに捉えるのではなく、統一原理の「終末論」で説かれているように、サタンの支配する時代が終わり、神が支配する時代が始まるこというのである。
言い換えると、人間の堕落によって宇宙は破壊されたが、終末に、再臨主によって、人間も宇宙(自然)も再創造されて救済されるという意味である。
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