ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(28)

(3)「キリストとしてのイエスにおける霊的現臨――聖霊キリスト論」

 

 a. 「イエスにおける霊的現臨」

 

ティリッヒは、「神の霊はキリストとしてのイエスにおいて歪曲(わいきょく)されることなく現臨した。彼(イエス)において、新しき存在が、過去と未来におけるあらゆる霊的経験の基準として現れた」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、184頁)という。

「他の言い方をすれば、『神が彼のうちに(いま)した』(God was in him)、このことが彼をキリストとした。彼は歴史的人類に対する新しき存在の決定的具現であった」(同)と。

すなわち、新しき存在としてのキリストが歴史の中心であり、西洋の精神と東洋の精神の統一の基準であるというのである。

 

「統一史観」から見れば、あらゆる出来事の基準であるキリストの出来事とは、初臨だけではない。キリストの出来事とは、降誕、十字架と復活、霊的現臨、そして再臨までをいうのである。

 

イエスの姿像と霊的現臨(神の霊)に関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「キリストの信仰がわかるようになる。われわれが福音書物語の中に見出すこの信仰の動的な姿は、イエスの信仰の断片的な性格を表現している。そこにはもがきと疲労と絶望さえもがしばしば現れる。しかし、このことは彼の信仰の世俗化や魔神化には至らない。霊は決して彼を離れない。曖昧(あいまい)ならざる生の超越的結合の力が常に彼を支えている。」(同、186頁)

 

「霊は決して彼を離れない」と述べている。聖霊はイエスの相対である。聖霊はキリストを離れて独自の働きをするのではない。二つは一つなのである。統一原理の宇宙論的キリスト論から見て、イエスは天で、聖霊は地で業(役事)をするのである。

 

聖霊について、『キリスト教組織神学事典』は次のように述べている。

 

「復活・昇天後の……キリストに代わって天父より送られる〈聖霊〉という信仰理解が生じた(ヨハネ14など)。それゆえ聖霊は〈真理の御霊〉〈キリストの霊〉〈助け主〉〈慰め主〉としてあがめられる。また〈生けるキリスト〉〈キリストの現臨〉を実感させる〈神の知恵〉として働く(Ⅰコリ12など)」(『キリスト教組織神学事典』教文館、240頁)

 

パネンベルクは、メシヤと神の霊との関係を次のように述べている。

 

「イザヤ書11・2によれば、メシアは神の霊に満たされ、動かされたばかりでなく、その霊は永久に彼に結びつき、彼に(とど)まるであろう。第三イザヤ(イザヤ書61・1)もまた、こうしてメシアを霊を受けた者として理解した。霊はメシアの上にとどまるのである。第二イザヤによれば、(42・1)、メシアのみならず、全イスラエルが終末に新しい方法で、神の霊にあずかると告げられる(イザヤ44・3、参照、エゼキエル36・27)。ゼカリヤは、最後の夜の幻で、ヤーウェの霊がすべての人びとのもとに来るのを見た。風の戦車が、ヤーウェの息(ruah Yahwe)を世界の四方に運ぶのである(ゼカリヤ6・1-8)。最後に、ヨエル書も終わりの日に『すべての肉』に神の霊が注がれると約束する(2・28以下)。ルカは、この預言が原始キリスト教において成就したのを見た(使徒行伝2・17以下)。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、新教出版社、198頁)

 

ティリッヒは、「霊は決して彼を離れない。曖昧ならざる生の超越的結合の力が常に彼を支えている」といい、実存的疎外(そがい)を克服する新しい存在であるイエスとの関連で聖霊が論じられているのである。

 

 b. 「『聖霊-キリスト論』と『ロゴス-キリスト論』の対立」

 

イエスと聖霊との正確な関係について、原理的に解明していないことからくる神学的な論争が生じた。それは、「聖霊-キリスト論」と「ロゴス-キリスト論」の対立である。

 

ティリッヒは、そのことに関して次のように述べている。

 

「聖書の時代から、キリストとしてのイエスの霊と、キリストが彼らに現われた後に霊的現臨によって(とら)えられた人々の間に働いていた霊との正確な関係については、真剣な神学的論議が起こった」(『組織神学』第3巻、189頁)。

 

この出来事は、「聖霊-キリスト論」が「ロゴス-キリスト論」によって取って代わられた後に、起こるべくして起こった。ティリッヒは「受肉のロゴスが父に帰った後、霊がそれに代わって、彼の顕現の意味を明らかにすべきであった」(同、189頁)と指摘する。

そして、「霊的現臨のすべての新しい顕示は、キリストとしてのイエスの顕現の基準の下に立つ」(同)というのである。言い換えると、聖霊がキリストの下にあるということである。

 

そして、「これは新旧を問わず、霊の啓示の働きは質的にキリストの啓示的働きを超越すると教える聖霊の神学の主張に対する批判である。モンタヌス派、極端なフランチェスコ派、再洗派などは、この態度の例である。われわれの時代の『経験の神学』(theologies of experience)は同じ思想の流れに属する」(同、189頁)と述べている。

 

ティリッヒは、質的にキリストとしてのイエスを越えて進もうとする「聖霊神学」の主張は、いずれ「イエスのキリストとしての性格を破壊することになるであろう」(同、189頁)と述べている。

 

また、「霊的現臨の一回以上の顕現が究極性を主張するならば、究極性の概念そのものを否定することになろう。そのような主張は、(かえ)って、意識の魔神的分裂を永続させることになるであろう」(同、189頁)と述べている。

つまり、完全な真理と救いは、キリストではなく、キリストを越えて進む聖霊が究極的な真理であるとし、魔神的分裂へと導くというのである。

 

このようなキリストと聖霊の曖昧な関係から、東方教会と西方教会との間に論争が現れたのである。そのことに関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「霊の父なる神および子なる神からの、いわゆる『発出』(processio)についての東方教会と西方教会との間の論争に表われる。東方教会は霊は父からのみ発出すると主張した。それに対して西方教会は霊は父と子と(filioque)から発出すると主張した。それのスコラ学的形体において、この論議は完全に空虚であり不条理であるように思われる。そして、われわれはそれが最後にはローマ教会と東方教会との分離に至るほど、なぜそれほど真剣に取り上げられたかを理解することができない。しかし、スコラ学的な衣を取り去ってみると、この議論は深い意味を持っている。東方教会が霊は父からのみ発出すると主張した時、それは直接的・神中心的神秘主義(もちろん、それは『洗礼を受けた神秘主義』であるのだが)の可能性を残した。西方教会は、それとは対照的に、キリスト中心的基準を、すべてのキリスト教的敬虔(けいけん)に適用することを固執(こしつ)した。そして、この基準の適用は『キリストの代理者』(vicar of Christ)としての教皇の特権であるがゆえに、ローマ教会は、東方教会よりも、融通のきかない、律法主義に陥った。ローマでは、霊の自由は教会法によって制限されている。霊的現臨は律法的に限定されている。確かに、第四福音書の記者が、イエスをして、聖霊が来たる時、あなたがたにすべてのことを教える〔ヨハネ福音書14・26〕であろうと言わしめた時、彼の意図はそこにはなかったであろう。」(『組織神学』第3巻、189~190。注:太字は筆者による)

 

「彼の意図はそこにはなかったであろう」というのは、聖霊がイエスを越えて、すべてのことを教えると主張する〝聖霊神学〟が出てくるとは想定していなかったということである。

 

上述のように、キリスト中心主義と神中心主義をいかに統一するかが、現代神学の課題なのである。

言い換えると、それはキリストとの本質的関連を欠いた聖霊の神学の問題であり、キリストと聖霊の関係をどのように理解するかという問題である。

 

 c. 「聖霊は神と一体であるイエスを越えて語らない」

 

ところで、「真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネ16・13)という聖句に続いて、「御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。」(ヨハネ16・13-15)と記述されている。

 

上述の聖句は、聖霊(女性神)は「あらゆる真理に導いてくれる」が、「わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせる」と述べている。

そのことは、神と一体であるイエス・キリスト(男性神)を越えて真理を教えるのではないという意味である。イエスの言葉を越えて進むと、イエスのキリスト性を否定して、魔神的分裂へと導くということはすでに指摘している通りである。

 

ただし、女性には女性の言葉がある。聖霊は女性的な表現でキリストの真理を語るのである。父権的でなく、母親として子供に教育するようにキリストの真理を説き、その真理で教導するのである。

フェミニスト神学は、「天の父」に対して「天の母」を主張する。問題は、フェミニスト神学が主張するように、男性神を女性神に置き換えることではなく、女性神に適切な位置を与え、男性神と女性神の全体のバランスをとることにあるのである。そのような神観こそ、統一原理の存在論から見た神概念に他ならないというのである。

 

聖書には、「神の定義」はないという神学者がいるが、聖書によると、神の似姿(にすがた)として、無形なる神の有形なる分立実体対象としてアダムとエバが創造されたと定義されている(創世記1・27)。

同様に、無形なる神の分立実体対象が、イエスと聖霊(霊的実体)である。したがって、「神-アダム-エバ」と「神-イエス-聖霊」の関係は、〝類比(るいひ)関係〟にある。この類比から、神概念と三位一体論を再考察する必要性があるのである。

 

聖霊の神学は、聖霊はイエスより偉大であり、イエスに先行し、イエスを創造し、イエスを統制するので、イエスは聖霊の働きの果実であるという。

しかし、イエスの復活と高挙(こうきょ)以後においては、聖霊は復活し高挙したイエスの働きであり、聖霊はイエスによって派遣され(ヨハネ14・16)、「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)イエスをキリストとして証しする神の霊なのである。

 

聖霊は「真理の御霊である」(ヨハネ14・17)といい、「あらゆる真理に導いてくれる」(ヨハネ16・13)としても、真理であるキリストを否定し、キリストを越えてキリスト以外の真理を語るのではないのである。

「御霊はわたし(キリスト)のものを受けて、それをあなたがたに知らせる」(ヨハネ16・15)のである。

 

(4)「霊的現臨と霊的共同体における新しき存在」

 

ティリッヒは、霊的現臨と霊的共同体について次のように述べている。

 

「霊的共同体は曖昧ではない。それは霊的現臨によって創造された新しき存在である。………霊的共同体は、断片ではあるけれども、曖昧ならざる神の愛の創造である。」(『組織神学』第3巻、191頁)

 

ペンテコステの物語は、霊的共同体の性格を力強く表現している。

第一は、霊的共同体の脱自的性格である。第二の要素は、信仰の創造である。第三の要素は、愛の創造である。第四の要素は、一致の創造である。第五の要素は、普遍性の創造である(同、192-193頁参照)。

 

霊的共同体は、キリストとしてのイエスの顕現によって決定される。新しき存在の共同体として、霊的共同体は信仰の共同体である。教会内における愛の規準であり、曖昧性を克服する。

霊的共同体は聖なるものであって、愛を通して、神的生の神聖性に参与し、宗教的共同体、すなわち、教会に聖性を賦与(ふよ)する。霊的共同体は、「宗教と文化と道徳の統一を含んでいる」(同、200頁)というのである。

 

ティリッヒは、キリストに関する上述の出来事は、すべての霊的共同体に顕現しているという。この共同体が「神の国」の基礎となり、宗教統一と思想統一の基盤となるのである。

 

原理的に言い換えると、愛を通して、神的生の神聖性に参与している霊的共同体は、人種の壁、民族の壁、宗教の壁、国境の壁を撤廃(てっぱい)し、神の下での人類一家族を実現するための基盤となる。

したがって、霊的共同体が、再臨主によって霊肉共同体として再創造されるとき、神の国がこの地上に顕現するというのである。

キリスト教と統一教会は、そのような共同体なのである。

 



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