ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(30)
『組織神学』第3巻――(歴史と神の国)――
(四)「歴史と神の国」(歴史論)
(A)「生と歴史」
生は究極的に新しいもの、超越的なものに向かって進む。生の過程は一つの目標に向かう運動である。そのように、あらゆる存在に意味と目的があることを理解するのは人間だけである。
その人間の歴史に目標があり、その究極的目標とは「神の国」のシンボルであるとティリッヒはいうのである。
(1)「人間と歴史」
人間の次元は、歴史によって意味や価値があたえられ、先の次元に意味が与えられる。人間の歴史は生のすべてを包括する次元である。
「最後の、そしてすべてを包括する生の次元は、人間においてのみ現実化する。精神の担い手としての人間においてのみそれに対する諸条件が存在する。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、30頁)
このように、ティリッヒは無機物や有機物などすべて存在するものは、歴史の内的目的、すなわち「神の国」の成就と究極的昇華へ向かってその前進に参与するというのである。
a.「歴史と歴史意識」
ティリッヒは、歴史意識について次のように定義する。
「意識が歴史的出来事に『先行する』(preceed)。もちろん歴史意識は、時間的順序においては、出来事に先行しない。意識は出来事の意識なのである。しかし、意識は単なる出来事を歴史的事件に変革する。その意味において、意識は出来事に先行するのである。」(同、380頁)
また、歴史について次のように述べている。
「すべての歴史的記述は、実際の出来事と、具体的歴史意識による受容との両者に依存している。事実的出来事のないところには歴史はないし、歴史意識による事実的出来事の受容と解釈のないところにも歴史は存在しない。」(同、382頁)
この歴史意識による出来事と歴史解釈によって、歴史に意味を与えるというのである。
b.「人類史の光における歴史的次元」
ティリッヒは、生の過程において、精神の次元には〝志向性〟と〝目的〟があるという。
「精神の次元における水平的方向は、志向性と目的という性格をもっている。歴史的事件においては、人間の目的が、排他的ではないにしても、決定的要素である。所与の制度とか自然的諸条件とかいうものが他の要素としてあるけれども、目的をもった行動の存在のみが或る事件を歴史的たらしめる。」(同、383頁)
このように、ティリッヒは、目的が歴史的事件における決定的な要因であるというのである。
そして、人間は所与の状況を「自己超越する自由」によって、一つの状況から他の状況へ「転位」すると次のように述べている。
「人間は目的を設定し追究する限りにおいて、自由である。人間は所与の状況を超越し、現実的なものを捨てて、可能的なものへと進む。……まさにこの自己超越が最初にして基礎的な自由の資質である。それゆえに、いかなる歴史的状況も他の歴史的状況を完全に決定するということはない。一つの状況から他の状況への転位は、部分的には、人間の集中的反応、すなわち自由によって決定される。」(同、383-384頁)
このように、彼は「人間は所与の状況を超越し」「いかなる歴史的状況も他の歴史的状況を完全に決定するということはない」といい、一つの状況から他の状況への「転位」は、所与の状況を「自己超越する自由」によって決定されるというのである。
この見解は、精神が先か、物質が先か、という存在と意識の関係に関する哲学的な問題に対する答えである。「部分的には」と言いつつも、精神の優位、すなわち、精神の主体性を主張しているのである。
また、この見解は、「人間の意志から独立した客観的な歴史法則がある」、「人間の自由な意識はこの物質的客観的な歴史の発展法則に従わざるを得ない」という唯物史観に対する批判が含蓄されているのである。
自由による転位の事例として、次の歴史的事件を挙げておこう。
文鮮明師と迎合したゴルバチョフの決断によるソ連の終焉、鄧小平による中国の文化大革命路線から改革開放路線への転換、文鮮明師と金日成主席の迎合と歴史的出会い。これらは、歴史的状況を自己超越した指導者(摂理的中心人物)の自由による決断によって起こった出来事である。
ティリッヒによると、このような精神の根底には規範や原理があるという。
「意味ある生は……精神の機能によって決定された生であり、それらの機能を支配する規範や原理によって決定され(る)」(同、384頁)
そして、次のように述べている。
「歴史的人類の内部における歴史的諸過程には内的目標がある。それらは決定的な方向に向かって進み、その目標に達するか否かは別として、成就へ向かって進む。」(同、386頁)
「成就へ向かって進む」と断言できるのは、「究極性を経験する」からである。ティリッヒは、この「経験」によって歴史的諸過程に内的目標があるというのである。
彼は、自然界の存在者は「自然への隷属」を越えないので「目的と自由が働いていない」と述べた後に、目的性は生の領域における人間の精神の実現化によって理解されると次のように述べている。
「高等動物の生、種の進化、天文学的宇宙の発展を取り上げるならば、われわれは、まず最初に、これらの例のいずれにも、目的と自由とが働いていないということを観察することができる。高等動物における目的は、彼らの直接の需要の満足を超えない。動物は彼らの自然への隷属を越えない。また種の進化や宇宙の運動には特定の意図が働いていない。……精神の次元が現実化していないところでは、絶対的意味はないし、意味深い独自性も存在しない。」(同、386頁)
このように、精神の次元以外に、自然への隷属を越えない動物における目的に言及した後に、彼は「しかるに、一人の人格が自己を人格として確立する行為、尽きることのない意味をもった文化的創造、そこにおいて究極的意味が非究極的意味を突破する宗教経験は無限に重要である」(同、387頁)というのである。
なぜなら、この「究極性を経験する宗教的経験」によって、人間はすべての存在者に目的や意味があることを経験し、理解することができるからであると次のように述べている。
「すなわち、精神の次元における生は、究極性を経験することができるし、また究極的なものの表現および象徴を生産することができる。もし一本の樹木、一つの新しい動物の種、または星の群れに絶対的意味があるとするならば、それは人間によって理解される。なぜなら、意味は人間によって経験されるからである。人間の実存におけるこの要素は人間の魂の無限の価値についての教説をもたらした。このような教説は直接的に聖書的ではないとしても、すべての聖書記者によって発現された約束と脅迫の中に隠約されている。『天』(heaven)とか『地獄』(hell)とかは究極的意味と無制約的重要性のシンボルである。しかし、このような脅迫と約束とは人間の生以外のものについては与えられていない。」(同、387頁。注:太字は筆者による)
このように、精神の次元における生は、究極性を経験することができ、あらゆる存在に意味や目的があるなら、それは「人間によって理解される」というのである。
また、次のように述べている。
「非有機的な領域においてさえも、いわんや有機的領域においてはテロス(内的目的)がある。それは固有の歴史の一部分ではないが、歴史に準ずるものである。このことは種の発生、宇宙の発展についても真である。」(同、387頁)
人間の歴史は、生のすべてを包括する次元である。したがって、歴史に参与する非有機的な領域と有機的領域に目的があると理解されるようになる。
言い換えると、無機物や有機物は自然に隷属しているので、目的や意味は否定されていたが、人間の出現によって絶対的な意味ある存在として理解されるようになるというのである。
統一原理も同様に、次のように述べている。
「宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。それは、まさしく人間である。ゆえに、神は人間を創造されたのち、被造物を主管せよ(創1・28)と言われた。もしも、被造世界に人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう。」(『原理講論』59頁)
このように、人間は宇宙の中心存在として創造されているというのである。
自然物の目的や意味が人間によって理解されるということと関連して、われわれはトーマス・F・トランスの神学を、ここで再び取り上げてみようと思う。
彼は、次のように述べていた。
「自然科学によって探求されている時間と空間のこの宇宙は、神学に無関係であるどころか、神がそこに人間を置いた宇宙だからである。神は宇宙を創造され、人間にそれを研究し解釈する精神と悟性を賜わった」(『科学としての神学の基礎』トーマス・F・トランス著、教文館、18頁)。
「人間をその本質的構成要素とする宇宙を、それ自体を認識し、かつ明確に表現できるものとして創造した」(同)
「人間のいない自然は沈黙したままであり、自然に言葉を与えること、すなわち生ける神の栄光と尊厳を表わす全宇宙の口になることが、人間の役割なのである」(同、18-19頁)
「また神が人類との対話のなかで人間にご自身を人格的に啓示してきたのも、この空間と時間の宇宙を通じてである。この歴史的対話は、神の言を知解可能な仕方で人間に媒介し神認識を聖書を通して伝達可能にする相互関係の共同体を確立してきた。」(同、19頁)
このように、自然物の意味や目的は、究極的存在と一つとなった人間によって理解されるのである。また、人間のみが言葉を持つ存在であるということの意義を知ることができるのである。
ティリッヒは、「人間が自然から疎外していること、人間は人間を理解し得るようには自然を理解し得ないことは実存の性格に属する。人間はすべての諸存在の行動を記述しうるが、その行動がそれらのものにとって何を意味するかを直接には知らない」(『組織神学』第1巻、211頁)と述べている。
しかし、人間の疎外は究極への関心によって、意味や目的を経験するというのである。
原理的に整理すれば、ティリッヒは「何を意味するかを直接には知らない」と述べているが、なぜ意味がわからない存在になってしまったのかといえば、人間は究極的存在(本質)から離反して、万物の創造目的も、人間の存在目的も分からない存在(実存)になってしまったからなのである。
したがって、存在論的理性から離れた実存的制約下にある理性は、自然物(万物)に意味や目的があることを否定する。
例えば、機械的唯物論は、自然は人間の身体を含むすべての生ある諸存在を部品とする巨大な一機械である(デカルト派)と主張する。
また、マルクス主義も、世界は「運動する物質のみである」というのである。運動と物質の関係について、エンゲルスは「運動は物質の存在様式である。運動のない物質はいつどこにもなかったし、またありえない。」(エンゲルス著『反デューリング論』上巻、岩波文庫、101頁)と述べている。
ティリッヒは、すべての存在者を「生の過程」と捉え、精神の次元においては、究極への関心、あるいは究極性の経験によって、人間は人間自身と万物の存在意義や存在目的を新たに理解することができるようになるというのである。
事物の運動の形態は弁証法であるという。マルクス主義の弁証法とティリッヒの弁証法には相違がある。しかし、存在と論理が一致しているのは弁証法ではなく、授受法である。
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