ブルンナー「出会いの神学」(1)

エミール・ブルンナー(Emil Brunner,1889-1966)は、スイス出身のプロテスタント改革派の神学者で、カール・バルトらと共に弁証法神学運動の草創期を担った新正統主義の神学者である。彼は1942年にチューリヒ大学総長の重責を担った。

 

ブルンナーは、神が人間と直面するとき、危機が生ずると主張する。なぜなら、神が人間と対決する時、人間の将来は二者択一の緊張関係になるからである。すなわち、人間は神に対して「(いな)」と言うか、「(しか)り」と言うか、それ以外にない。前者は「死」を意味し、後者は「新しい人」となる。ここに彼の神学が「出会いの神学」あるいは「危機神学」と言われるゆえんがある。

 

 

「主観と客観の超克」

 

ブルンナーは、神との出会いを「われ―それ」(I-it)、「われ―なんじ」(I-thou)という関係概念を用いて説明する。「われ―それ」の認識は、自己の外にあるものとしての客体の客観的知識である。「われ―なんじ」は、他者はもはや「それ」とか「あるもの」ではなくなり、われわれにとって「なんじ」となる人格的な関係である。

この「われ―なんじ」という関係は客観的関係ではなく、二つの関係が相対的関係となり、この関係によって血の通った両者の交わりが回復される。その関係は、もはや単なる傍観(ぼうかん)者にとどまることはできない関係である。(『現代キリスト教神学入門』W・E・ホーダーン著、日本基督教団出版局、178-182頁を参照)

 

ブルンナーは、この「われ―なんじ」という人格的な関係を媒介とすることによって〝神との出会い〟が可能となると言うのである。

 

笠井恵二氏は、「神との出会い」について次のように説明している。

 

「神学者は、客観-主観の対立の彼方にあるもの、すなわち自己を啓示する神と、この啓示によって自己を開放された人間との出会いを叙述しなければならない。だから彼が対象とすべきものは、客観-主観の相関概念によって把握しうることの彼岸にある。さらに神学者は、その対象を単なる学問的な方法では認識しえない。彼は自ら信仰者となることなしには、つまり彼自身が客観-主観の対立から抜け出て、言葉における神に出会うことなしには、自己の対象を認識しえないのである」(『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社、153-154頁)

 

以上のように、ブルンナーの「われ―なんじ」という「出会いの神学」は哲学的に神を説く方法を提供したといわれている。

 

従来から〝神認識〟に関して、カトリックの客観主義とプロテスタントの主観主義の対立があった。客観主義は、神についての無謬(むびゅう)の真理を把握できるというが、主観主義は、それは大きな間違いであるという。

主観主義は、神は客観的に把握できないといい、内的な経験や信仰を重要なものと考える。しかし、主観主義は自己の主観的な力を絶対化し、互いに相容れず教会を分裂させてしまう。

 

ブルンナーは、神認識はこのような客観主義か主観主義かという二者択一ではなく、「主観と客観の超克(ちょうこく)である」というのである。これがブルンナーの主観と客観を統一した「出会いの神学」の根本原理なのである。

 

ところで主観的とか客観的とは、神学的に双方にどのような思考の相違があるのかということに関して、少々述べておかねばならない。

 

ウィリアム・E・ホーダーンは、客観的な思考と主観的な思考の違いについて、次のように述べている。

 

「客観的な思考は、限界をもち、対象によってためされる。客観的な思考のできる人は、自分の好みとか願いとかにかかわりなく、むしろ事実をして事実を立証させることができる。神学や哲学はこの客観的思考というものを、非常に高く評価する。これに対して主観的な思考は、どうしても自己の感情というものが、思考の中にもはいりこみ、客観的な事実を無視してしまう。哲学の歴史をひもとくとき、客観的、主観的思考の相対的評価をめぐっての論議や、主観的要素が対象を知覚する際にどのような影像(えいぞう)を与えるかの論議を、数多く見いだす。」(『現代キリスト教神学入門』W・E・ホーダーン、日本基督教団出版局、179頁)

 

客観的な思考の限界とは、カントが指摘するように、自由な理性は感覚的、経験的に認識し得る対象を越えて、神や不死の問題をあれこれと推論する傾向性がある。それは往々にして既存の形而上学(けいじじょうがく)にみられるように、観念的な妄想(もうそう)となり、独断論となりがちになる。

それでカントは、理性は感覚的に感知しうる対象を越えないこと、すなわち理性の有限性(限界性)を主張したのである。

 

主観主義とは、人間の内的な体験や、信仰を重要なことと考えるのである。自分自身の内面をしっかりと見つめること、そこにおいて、客観的には観察することのできない「活ける真理」を発見することができると、人々に呼びかけているというのである。

しかし、主観主義が力を持つと、自己のみを絶対化し、互いにあいいれず、それゆえに分裂すると指摘されている。

 

ブルンナーによると、この客観的か主観的かという二者択一ではなく、主体(われ)と客体(それ)関係を超克することを説く。すなわち、超克とは「われ―なんじ」という「人格関係」のことであって、神はその人間との「人格関係」(言葉における神との出会い)の中にはいるということを強調するというのである(神認識、神の心情を体恤(たいじゅつ))。

 

この「われ―なんじ」という人格的関係の分析は、神学界におけるブルンナーの不滅の功績だといわれている。

 

しかし、ブルンナーの神と人との関係は、個人としての人格的関係に止まっている。さらに高い次元として、アダム(男性)とエバ(女性)が関係存在として、二人で一つとなって神と交流する愛の段階(家庭的四位基台)まで論じなければ、完全な神の愛を説くことにはならない。

そもそも伝統的神学には神概念(父なる神)に女性の性相がないのである。それは、再臨のメシヤによらなければ知り得ない「神の知」の段階であるので致し方ないと言えるが。

 

 

(二)「自然神学論争」

エミール・ブルンナーといえば、バルトと「自然神学論争」をしたことで有名であり、彼は『自然と恩寵』(1934年)の中で、バルトが自然神学を拒否するのは、「彼の偏った啓示概念にある」と指摘し、神は聖書を通して人間に語りかけるが、自然のはたらきを通しても語りかけるという面が否定されるべきでないと主張した。

 

これに対して、バルトは、すぐさま『ナイン!―― エーミル・ブルンナーに対する答え』を書いて応酬(おうしゅう)した。バルトは、神認識は「理性による哲学」などによるのではなく、旧約聖書と新約聖書における「キリストの啓示」以外にないと言い、「自然神学は、アンチ・クリスト」、「自然神学はただ病と死とを意味する」、「福音主義と自然神学とを結びつけることは決してできない」と痛烈に批判した。

 

 

(A)「ブルンナーの主張」

 

(1)「バルトの結論」

 

ブルンナーによると、バルトの結論とは「恩寵(おんちょう)のみ」、「聖書のみ」であって、キリストを対象としない一切のものを排斥(はいせき)するというのである。

 

ブルンナーは、バルトの主張を次のようにまとめている。

 

「人間は、恵みを通してのみ救われうる罪人であるがゆえに、神によって創造されて人間に賦与(ふよ)された神の似姿は、完全に、すなわちあとかたもなく消え去ってしまった。特に理性という性質や文化能力や人間性は、もちろん人間に対して否定することはできないが、そういうものはこの失われた神の似姿の痕跡(こんせき)、あるいは残存(ざんぞん)を全然含んでいない。」(『カール・バルト著作集2教義学論文集〔中〕』収録、ブルンナー著『自然と恩寵』、新教出版社、141頁)

 

また「聖書の啓示」を解釈するバルトの〝キリスト中心主義〟について、彼は次のように述べている。

 

「われわれは、聖書の啓示を、われわれの神認識の唯一の源泉として承認するがゆえに、自然の中に、良心の中に、歴史の中に、神の一般的啓示を認めようとするすべての試みは断乎(だんこ)として拒否されるべきである。二種類の啓示、すなわち一般的啓示と特殊的啓示とを承認することは意味がない。ただ一つの啓示だけ、詳しく言えば、完全なキリストの啓示しかない。」(『自然と恩寵』141頁)

 

このように、バルトはキリストの啓示以外の啓示を認めないというのである。

 

その他、ブルンナーによると、バルトは「ブルンナーの言うような『創造の恵み』、『保持(ほじ)の恵み』などは存在しない」といい、また、バルトは「天地万物の中から引き出してきた自然法などは異教の思想としてキリスト教神学の中に導入され得るものである」と主張しているというのである。

 

このように、バルト神学とは、一口に言えば、「恩寵のみ」、「聖書のみ」というキリスト中心主義(キリスト論的集中)なのである。

したがって、バルト著『ナイン!―― エーミル・ブルンナーに対する答え』とは、バルトの〝キリスト中心主義〟の立場、すなわち彼の聖書解釈の立場から見た〝自然神学に対する批判書〟なのである。

 

それでは、次に、ブルンナーの〝バルト批判〟をさらに詳細に検討してみることにしよう。

 



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