シュヴァイツァー2 信仰義認論への挑戦(2)
シュヴァイツァーは「初期キリスト教の会食礼は、イエスの贖罪死を聖礼としてくりかえしたり、象徴的に具象化したりすることは、まったく別個のものであった。イエスが使徒たちとともにした最後の晩餐を繰りかえすことがこのような意義をあたえたのは、後年になってのことで、カトリックのミサ聖祭と、罪のゆるしの具象化を目的とするプロテスタントの聖餐礼とにおいてである。」(選集2、『わが生活と思想』、41頁)と批判する。
結論として「イエスと使徒たちとにとっての、あの晩餐の意義は、やがて来たるべき神の国において現われるはずの、メシヤの晩餐への待望と関連していたのではあるまいか、という疑問を追究するにいたった」(選集2、『わが生活と思想』、21頁)と述べている。
このようにして、シュヴァイツァーは最後の晩餐の解釈問題が発端となって、この問題はさらに「福音書」と『イエス伝』の問題に立ち戻って考察する必要があると考えるに至ったのである。これが20世紀の神学に大きな影響を与えたシュヴァイツァーの神学研究の動機である。『イエス伝』については『イエス伝研究史』、福音書の研究については『イエス小伝』がある。
*聖餐(式)とは、イエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式である。カトリック教会では「聖体拝領」、「聖体の秘跡」と呼ばれ、プロテスタント教会では「聖餐式」と呼ばれている。ただし「主の晩餐」に関しては、いずれの教派においても使われている。
共観福音書によればイエスはパンを取り、「これはわたしのからだである」といい、ワインの入った杯をとり「これがわたしの血である」と言って弟子たちに与えた。この儀式は初期から教団内で行われてきた。キリスト教徒はこの儀式を行うことで、そこにキリストが現存するという信仰を保持してきた。しかし、今日においては、宗派によってやり方や考え方は異なっている。
カトリックは聖餐をサクラメント(秘跡)として行ってきたが、宗教改革以降のプロテスタント教会は秘跡と呼ばず、礼典と言っている。それは神様の救済は「人間の行いによるのではなく、信仰のみによる」(信仰義認)という考え方から、聖餐の執行そのものを救いの要件として考えないためである。ただし、聖餐に何らかの意味を持たせるか、単に象徴的な儀式と考えるかは、プロテスタントの教派によって異なる。その多くは聖餐において神の恵みが人間に伝えられるのではなく、共同体の信仰を示すための儀式であるというのである。
*「聖餐式の意義」
このように、時代や教派によってその捉え方に違いがあったとしても、キリスト教の中で聖餐は常に礼拝儀式の核となるものである。伝統的なカトリックにおいて、聖餐の式は神が計画する人間の罪からの救いの成就となる式であり、イエスの死と復活を思い、そこにイエスの現存を信じるもの、さらには信仰者と神、信仰者同士の絆を確認するものであった。このような中心思想はほとんどの宗派によって共通であるが、先に述べたようにその程度や捉え方によって違いが生じているのである。
例えば、カトリック教会と正教会では伝統的に聖体のサクラメントを七つある秘跡・機密の一つとし、「聖変化」という思想を尊重してきた。聖変化とはパンとワインがミサの中で実際にキリストの体と血に変わるという教義である。それに対して宗教改革期以降、プロテスタント教会ではパンとワインが実際にキリストの体と血に変わることはなく、単なる象徴的な儀式に過ぎないとみなすようになったのである。
*「統一教会の聖酒式」
キリスト教の聖餐式と統一教会の聖酒式との関連およびその意義について、文鮮明師は次のように説明している。
「聖酒式は、イエス様を中心として見ると聖餐式と同じです。聖餐式では、肉と血の代わりにパンを食べ、ぶどう酒を飲みます。これは、私たち人間が堕落したため、イエス様の体を受けることによって、新しい肉体を受肉しなければならないということを意味します。」(『祝福家庭と理想天国』(Ⅰ)、912頁)
このように聖酒式は聖餐式と同じです。「イエス様の体を受けることによって、新しい肉体を受肉しなければならない」と語っておられるので、単なる信仰を示す儀式ではないのである。
次の御言は原罪との関連から、さらに詳細に聖酒式について説明され、「新しい肉体に生まれ変わる式(重生)であると語っておられます。
「聖酒式は何をするものでしょうか。新しい愛を中心として神様の体を自分の体の中に投入させる儀式です。・・・・イエス様が『パンは私の体を象徴するものであり、ぶどう酒は私の血を象徴するものなので、あなた方はそれをもらって食べ、飲まなければならない』と語ったのと同じように、愛を中心として、神様の実体を中心として、新しい血統を受け継いで原罪を洗い清めることができる式です。」(『天聖経』分冊『祝福家庭』74頁)
「堕落によって汚された血統を継承したので、それを転換しなければなりません。これをしなければ原罪を脱げず、原罪を脱がなければ真の子女として祝福を受けられる段階に上がることができません。原理がそのようになっています。堕落によって生じた原罪を脱ぐ血統転換、すなわち血肉を交換する式が聖酒式です。(『祝福家庭と理想天国』(Ⅰ)906~907頁)
「聖酒式は、堕落によって血統的に汚されたサタンの血を抜いてしまうものです。言い換えれば、原罪を抜いてしまう式だというのです。」(同上、907頁)
このようにイエス様が語られた聖餐式の意味は、むしろ文鮮明師の血統から見た原罪論と聖酒式の御言によって明解になると言えるでしょう。
また、文鮮明師は祝福運動について、次のように語っておられる。
「私が主導してきた祝福運動は、単なる結婚儀式ではなく、原罪を清算し、本然の真の血統によって天に接ぎ木する神聖な行事なのです。」(『平和神経』351頁)
このように祝福結婚(聖酒式)は、単なる「統一教会に入籍する式」ではありません。「共同体への信仰を示す儀式」という見解は誤りではないが、野生のオリーブの木から真のオリーブの木に接ぎ木する血統転換という本質面を見ていないといえるでしょう。
以上がキリスト教の聖餐式と統一教会の聖酒式との関連性についての原理的見解である。また聖酒式には原罪清算する以外に文先生の勝利を相続する式や罪に対する恩赦などの意味があります。これが聖酒式が何度もある理由です。
カテゴリー: シュヴァイツァー「生命への畏敬」