ルターと福音主義(1)

(一)福音主義とは

 

(1)「信仰」と「行い」の対立

 

プロテスタント神学の中心は何であろうか。それは、「律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる」(ガラテヤ書2・16)というこの聖句に集約されている。

 

「信仰によって義とされる」という、このプロテスタント神学の信仰義認論は、マルティン・ルター(1483-1546)によって定式化された。ルターによれば、「人が理性と神の律法とに従っていかほど知恵がありただしくとも、その行ないや功績やミサや義や儀式のすべてをもってしても、義とされないのである」(『ルター』松田智雄編、中央公論社 「ガラテア書講義」より、480頁)と言うのである。

 

ルターは、エルフルトのアウグスチヌス隠修士会に入り、修道院の厳しい戒律修行を経て、1507年4月、24歳で司祭となった。そして、1508年にヴィッテンベルク大学で教鞭を執ることとなり、1512年10月に神学博士となって、ヴィッテンベルク大学の神学部教授に就任し大学で聖書を講義することになる。詩篇、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、へブル人への手紙などは聴講する学生に深い感銘を与えた。この数年間にわたる聖書研究(修道院の塔の書斎での研究)により、ルターは長い精神的苦悶の末、宗教改革の原点とも言うべき思想を形成するに至るのである。これは、一般的に「塔の体験」といわれているのであるが、その時期は明らかではない。ルターが信仰義認(新たな義の理解)に到達し、彼の神学体系を形成するにあたって、パウロの「ローマ人への手紙」が決定的な役割をはたしたと言われている。

 

この「新たな義の理解」による「救い」(福音)の確かさは、一瞬の閃光のような啓示というものではなく、ヴィッテンベルクの塔の一室の中で執筆活動をしているうちに、次第に確かなものとして確立されるに至ったのである。晩年にルターは〝突然の霊感によって体得されたもの〟と言ってはいるが。

 

ところで、ルター以来のプロテスタント神学、すなわち「行い」を否定する「信仰義認」と、「行い」を肯定するカトリック神学の「功徳思想」とは、今でも、鋭く対立している。

 

「統一原理」も、神のみ旨成就(予定)において、「神の95%の責任分担」(恩恵)に対し、「人間の5%の責任分担」があることを説く。ただし、この「人間の5%の責任分担」は、神の責任分担にくらべて、ごく小さいものであることを表示しているが、人間自身にとっては100%に該当するのである(『原理講論』予定論、243-244頁参照)。

 

『原理講論』は、「神のかたち」として造られた人間に責任分担があるのは、創造への参加と万物に対する主管権の賦与のためである(同、堕落論、113頁)と述べている。これは、人間以外の万物にはない特権なのである。

 

神のみ旨成就(予定)において、このような95%+5%=100%という神と人間の関係における〝責任分担論〟を説くと、プロテスタント神学、特に福音主義神学と鋭く対立せざるを得ないのである。

 

なぜなら、神の恵みを95%であるとして、それを如何に大きく捉えようとも、5%という人間の「行い」がなければ100%にならない。したがって、このように〝人間の行い〟に対してほんの少しでも価値を認めれば、救いが人間の行いを少しも必要とせず、神の一方的な「恵み」であるという「福音」もまた否定されると考えるからである。

 

また〝人間の行い〟によって神のみ旨成就が左右されるなら、神の絶対性、全知全能性、救いにおける予定の絶対性が否定されるのではないかと、彼らは危惧するのである。神の予定が絶対でなければ、神を信じることができなくなるからである。

 

また、仮に、「人間の5%の責任分担」(「行い」)を認めるならば、カトリック神学の「功徳思想」や、神と人間との「協働説」を認めることになり、ルター以来の宗教改革的信仰を、自ら誤りであると認めることになるのである。

したがって、救いにおける「信仰」と「行い」の対立を主張し、罪人である人間の「自由意志」や「業」(「行い」)を完全に否定することは、「福音主義」の何であるかを説かんがための〝生命線〟であり、彼らにとって重大な問題なのである。

 

ルターは、自由意志を認めることは「キリストを空しくし、全聖書を全滅せしめるであろう」(『ルター』松田智雄編、「奴隷的意志」より、中央公論社、249頁)と主張する。

 

ところで、今日では、カルヴァンの〝決定論〟が信者の体験に反すると主張し、ジョン・ウェスレー(John Wesley、1703年6月-1791年3月)の主張した仕方で〝自由意志〟を認める傾向性にある。

「カトリック主義のように神の恵みと自由意志の行為との協力(協働)による救いでもなく、宗教改革者たちの奴隷的意志でもない道を教会はえらんできたし、今日の(教会の)大勢もそうである。すなわち、神の恵みのみによる救いの体験が、それを受け入れたり退けたりする人間の自由と矛盾しないのである。」(『キリスト教組織神学事典』、野呂芳男、教文館、179頁)

 

このように、われわれはプロテスタント神学とカトリック神学の根本的な対立点を知らなければならない。そして、これらの教義の対立点についてどのように統一原理の視点から対処すればよいのかという問題(キリスト教の統一)について考察しなければならないのである。

 

それでは、次に、宗教改革の原点までさかのぼって、これらの諸問題を考えてみることにしよう。

 

(2)「宗教改革の原理」 

 

第一に、ルターによれば、人が神から〝義〟とされるのは、内面的な「信仰のみ」によるのであって、外面的で形式的な道徳的善行やサクラメント(秘跡)の儀式などによるのではないというのである。

救いは、罪のあがないのために地上に遣わされたイエス・キリストを信じることによって与えられる、上よりの一方的な「恵み」であるとルターは宣言する。そして、信仰において、神の前にみな平等であって、祭司のような特殊な身分は不必要であると言うに至る。このような信仰の自由の主張は、カトリック体制への隷属からの解放運動と一体となっていくのである。

ルターは、宗教改革の基本原理について、次のように述べている。

 

「私どもはみな司祭であり、みなが一つの信仰、一つの福音、一つの秘蹟サクラメントをもっている」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、94頁)

 

このように、教会人と一般の平信徒とは何らの差別もないと「万人祭司論」の原理を明らかにした。さらに、教会の特権や習慣はすべて検討し、その多くは廃止すべきだと言う。そして、教皇を頂点とする位階制度を否定する。

これが、ルター思想の基礎であり、宗教改革の基本原理である。ただし、神の言葉の奉仕者としての牧師職だけは認めたのである。

 

第二に、「聖書主義」と呼ばれるもので、信仰の基準を法皇や僧侶におくべきでなく、〝聖書のみ〟が信仰の基準とされ、聖書は神の言葉を啓示した至上のものとされる。これは、カトリック教会における聖書以外の「伝承」(聖伝)や、それによる聖書解釈を否定する立場である。

カトリックは、伝承による教会の伝統的な教義などにも聖書と同じ権威を与え、聖書解釈の権威は教会(教権)にあるという。しかし、プロテスタント教会は「聖書のみ」であって、このような伝統主義を否定する。

 

以上の二つの原理は、カトリックの律法主義的「功徳」思想と対置されるものであって、「福音主義」と呼ばれ、先に論述したごとく、罪の許しは「キリストを信じる信仰による」のであって、教会法や贖宥状しょくゆうじょうによるものではないというのである。

 

 

「補足」

 

「律法と福音の関係について」

 

旧約の律法に関しては、それは人に罪を自覚させ、その自覚によって人は悲しみ、苦悩し、絶望する。しかし、律法は人を助けることは出来ない。

したがって、救済手段が他に求められねばならない。それが、キリストの福音なのである。それゆえ、律法の役割は、福音の光を示すことにあったというのである。

この律法と福音の関係については、ローマ書で次のように述べられている。

 

「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。」(ローマ7・7)

 

つまり、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などの〝律法の戒め〟によって、罪の罪たることが現れるというのである。それによって、人に罪を自覚させる。しかし、悪いことだと分っていても〝貪欲〟と〝情欲〟に従い、人は律法を守れずに罪を犯すのである。戒めがある分だけ、それだけ人は罪や過ちを犯し、そして苦しみ、絶望する。そして、自分自身で自分を救うために何もできない人間であることを知るようになるのである。

 

聖書は、罪の値は死であると、次のように述べている。

 

「あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極しゅうきょくは、死である。」(ローマ6・20-21)

原理的に言えば、人間始祖の堕落による死とは〝肉体の死〟ではなく、真の神との関係(心情関係、父子関係)が断絶し、サタンの支配(罪と死の支配)の下につながれ、サタンに隷属する状態をいう。

ところで、先に述べたごとく、律法は人に罪を自覚させるだけで、人を助けることはできない。したがって、この罪と死の支配から人を救い解放してくれるのは誰か、われわれはどうすればよいのか、という問題が生ずる。その答えが、キリストであり、キリストの福音なのである。イエスをキリストと信じる信仰によって義とされ、罪と死から解放されるというのである。

 

聖書は、信仰によって「罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである」(ローマ6・22)と述べている。

愛は人(隣人)を害さない。したがって、愛は律法の完成であると言われている。ただし、「きよきに至る―その終極は」とあるごとく、ただ信ずれば救われるのではなく、信仰は永遠のいのちに至る旅路の〝出発〟であって、終極、すなわち、救いの〝完成〟ではない。救いの完成とは、時間の成熟、すなわち再臨の時なのである。

 



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