Archive for 2月 1st, 2013

バルト1 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(1)

歴史的政治状況と対決

バルトは、スイスの改革派の牧師であった頃、労働運動と社会主義にかかわり、牧師でありながらスイス社会民主党(1915年)に入党する。それで「赤い牧師」と呼ばれたが、その改革派の宗教改革とは、人間の内面の変化だけでなく、社会全体の改革をなそうとするのである。すなわち、「生ける神」はその意志を、彼岸においてではなく、この世界の中で、ただ単にキリスト者や教会を通してだけでなく、無神論者や社会主義者を通しても貫徹される、と捉える信仰である。

 

*バルトは「イエス・キリストは《マルクス主義者》のためにも死に給うたのだが、また《資本主義者》と《帝国主義者》と《ファシスト》のためにも死に給うた」(『カール・バルトの生涯』エーバハルト・ブッシュ、新教出版社、615頁)という。

 

だが近代神学は人間と社会の歪みについて十分な認識を持たず、労使関係という社会問題を解決するには、全く無力であった。

また第一次世界大戦が勃発した時、ドイツでリベラルな神学教師たちも、社会民主主義の指導者たちも戦争イデオロギーに屈伏し、国民戦争推進派へとよろめいて行った。

それでバルトは今まで「ハルナックの弟子」、あるいは「ヘルマンの弟子」といっていたが、その自由主義神学の聖書釈義や教義学の前提が間違っているのではないかと考え始めた。そしてバルトはスイスの宗教社会主義から離れて行った。ただし彼は政党が取り組んでいる問題を捨てて越えようとしたのではなく、それを包含して越え、神からトータルかつラジカルに捉えなおそうとしたのである。

このようにバルト神学は現実との対決の中から形成されていったのである。注①

 

*「バルトは『片手に聖書を、他の手に新聞を持って神学する』ということを、くりかえして語った。バルトの神学は、時代関連的に、状況関連的に読まれ、理解されなければならない」(『カール・バルトと現代』ひとつの出会い―E・ブッシュ教授をむかえて、小林圭治編、新教出版社、100頁)。

 

注①  『バルト』(大木英夫著、講談社、80~98頁 参照)。

「元来、キリスト教は罪人の救いに関わる。キリスト教の本質は、神によって創造された本来の姿(神の似姿)を歪められた人間(罪人)を、神との正しい関係へ回復することである。個人の場合と同様に、社会の歪みが目立つようになれば、当然、歪められた社会を、その本来のあるべき姿(本質)に回復することが、関心の的となるべきである」(『カール・バルト』大島末男著、清水書院、34頁)。

「若いバルトを捉えたもう一つの問題は、社会主義の問題であった。この問題についても、われわれは人の思いを遥かに越える神の摂理を見ることができる」(同上、33頁)。

「真のキリスト者は社会主義者にならなければならない」(『カール・バルトの生涯』エーバーハルト・ブッシュ、新教出版社、120頁)

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