Archive for 2月 19th, 2013

バルト3 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(3)

「弁証法神学」

『ローマ書』出版の二年後、バルトはゲッティンゲン大学に招かれ、神学部で教鞭を執るようになる。そしてこのころ、フリードリヒ・ゴーガルテン(Friedrich Gogarten)、エドゥアルト・トゥールナイゼン(Eduard Thurneysen)らと雑誌『時の間』を刊行し、近代プロテスタント主義に対する抗議をし、時代に警鐘を鳴らす。

そこにルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann)、エーミル・ブルンナー(Emil Brunner)らも参加し、これが「弁証法神学」と呼ばれる一つの大きな潮流となっていくのである(注②)。

「弁証法神学」というのは、これらの人々がキルケゴールの影響の下に、「時間と永遠」との無限の質的な断絶を強調したことによる。「この神学はそれ以前の神学的方向づけ、すなわち、リベラルな神学にもそれに反対する保守的な神学にも、対立した。『弁証法神学』という名称は解消不可能な対立関係において思考する彼らの思惟のスタイルに由来する」(『バルト神学入門』、エーバハルト・ブッシュ、新教出版社、15頁)。

またこの流れは「危機の神学」とも呼ばれた。それは有限で罪深い人間にとって、超越的かつ神聖なる神が「危機」であり、審判者であるからである。

バルトは近代神学について「ただ人間の精神や心や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか」(著作集4、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、153頁)と批判する。そして神学はずっと以前から人間学になってしまっていると言うのである。

 

*近代合理主義はキリスト教と科学的合理性との調和を目指す理神論を生み出し、批判精神と実証的な歴史研究にもとづく自由主義神学は、聖書や教会の歴史的批評的研究を進めていった。またそこから「史的イエス」の研究も進展していく。このようなプロテスタント教会に対して、カトリック教会は二十世紀に至るまで反近代主義をつらぬき伝統主義を強化した。

*「一九世紀の神学の根底を批判的に綿密に精査すると共に、教理自体の基盤に基づいて、また、教理それ自体の内的で客観的な論理により、キリスト教の根本的な教理を実証的に再考察することであった・・・彼が攻撃しなければならなかった神学は、哲学と文学と音楽、そして輝かしいヨーロッパ文化のあらゆる精神科学における、現在ヨーロッパの最大の知的業績に関する思考と見解とに、からみついていたからである。したがって彼は、あら探しの断片的批判によってではなく、根本的アプローチによって、そのすべてと格闘しなければならなかった」(『バルト初期神学の展開』T.F.トーランス 新教出版社、75頁)。

 

「フォイエルバッハ論」

周知のように、フォイエルバッハは「神の本質とは人間の本質である」(「キリスト教の本質」1841年)と批判し、「人間の本質」を肯定するために、神学と宗教の幻想的投影を否定した。バルトはこの転倒した命題は、シュライエルマッハーやリッチュルやヘルマンおよびその時代の人々に対する帰結であるといい、「神と人間を同一視する神学」をやめない限り、「フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」(著作集4、158頁)という。そしてフォイエルバッハの学説に対して次のように反撃した。

「もしフォイエルバッハが、われわれ人間は頭から足の裏まで悪い者だということを知っている者であり、われわれは死ななければならないということを思う者であれば、神の本質は人間の本質だなどということが、あらゆる幻想中最も幻想的な幻想だということを認識したであろう」(同上、著作集4、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、新教出版社、157頁)。

そしてバルトは、「神との関係が転倒不可能なものだという事実が、われわれにとって絶対的・徹底的に確立されないかぎりは、この点について沈着に達することはないであろう」(同上、151頁)と述べている。このようにバルト神学は、近代世俗主義の持つ無神論と根本的に対決したのである。

そしてこのような「無神論」を生み出した「有神論」とバルトは対決したのである。

このことに関してエーバハルト・ブッシュは、「カール・バルトの現代的意義」と題する講演で、次のように述べている。

「無神論的世俗主義との対決を決定的に遂行するためには、無神論があの帰結を引き出した有神論の前提そのものとの対決という形をとらなければならないというのです。なぜなら、バルトにとっては、事実このような前提―すなわち絶対者としての神、人間に対抗する抽象的な対立概念(Gegenbegriff)としての神―は、神がまったく存在しない場合よりはるかに大きな害悪なのです」(『カール・バルトと現代』ひとつの出会い―E・ブッシュ教授をむかえて、新教出版社19頁)。

 

さらに、有神論の神観念は神と無関係であり、それによって「人間は神を見失うだけではなく、同時に自分自身をも見失う」(同上、20頁)と述べている。

 

つまり「神は本来他者であり、まさに絶対的存在であることを承認したとしても、いずれの場合にも、神はまさに『人間が立ち現れる余地のない高み』だと考えられているのです」(同上、19頁)というのである。そしてこのような既存神学の絶対者という観念は「堕罪した人間の産物」であるといい、イエス・キリストと出会う神こそ「真の神」であると次のように述べている。

 

「人間が天に投影したものは、L・フォイエルバッハが考えたように、人間の真の本質ではなく」(同上20頁)「自己自身だけで生き、自己自身であろうと欲する絶対的存在の観念の全体は、それ自体、人間がそれによって神からだけでなく、人間自身から疎外される堕罪の人間の基本的産物なのです」(同上、20頁)。「有神論も無神論も、同じ害悪のもとに苦しんでいるのであり、共にそこから救出されるべきなのです。ここで私は、聖書によってイエス・キリストにおいてわれわれに出会い給う真の神のみが人類を神と自己自身からの疎外から解放し給うというバルト神学の基礎事実に背後から接近しているのです」(同上、20頁)。

 

以上のように、バルトは無神論を生み出した有神論を厳しく批判する。既存神学の絶対者という観念は、神からだけでなく、人間自身からも疎外された「堕罪した人間の産物である」と述べ、有神論の神観念は神と無関係であり、それによって「人間は神を見失うだけでなく、同時に自分自身を見失う」というのである。その結果、「有神論も無神論も同じ害悪のもとに苦しんでいるのであり、共にそこから救出されるべきなのである」と述べ、

イエス・キリストと出会う神こそ「真の神である」というのである。すなわち神認識はキリストを抜きにしてあり得ないというのである。

そして、このような認識の下で、バルトによる神認識は、神の側から和解に基づく「信仰の類比」へと発展していくのである。

 

*「真の神」、「完全な神認識」は再臨のメシヤを抜きにしてあり得ない。

*「わたしたちの知るところは一部分であり、予言するところも一部分にすぎない。全きものが来るときには、部分的なものはすたれる。」(コリントⅠ、13・9~10)

 

注②  『二十世紀神学の形成者たち』(笠井恵二著、新教出版社、57頁)。