Archive for 2月 26th, 2013

バルト4 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(4)

「知解を求める信仰」(神認識)

バルトは25年にミュンスター大学、30年にボン大学へ移っていく。31年にはバルト自身が最も愛する『知解を求める信仰――アンセルムスの神の存在証明』を出版する。

「神ハナゼ人間トナラレタカ」(著作集8『知解を求める信仰』、新教出版社、12頁)と問題を提起し、「本質からして、信仰は知解ヲ求メル信仰である」(同上、21頁)という。アンセルムスの定式で言えば、「神学とは、信仰が信じていることを理解しようとする企てである」(『バルト神学入門』E・ブッシュ、新教出版社、70頁)ということである。

言い換えると、「信仰とは、『キリストの言葉』あるいは教会の『信条』(信仰告白)の『知解と肯定』のことだ」(『カール・バルトの生涯』E・ブッシュ、294頁)と定義し、神学に課せられた知解の課題は、「すでに語られ、すでに肯定された信条を追・思考すること」(同上)であるというのである。

 

以上のように、アンセルムス書でバルトは、古典的な神の存在論的証明に対して、神の「啓示の出来事」から「神の存在」と「神の本質」を導き出す方法を樹立する。それまでのバルトは、神は絶対的な行為の主体であって、決して客体的な知識の対象とはなり得なかった。『ローマ書』では、キルケゴールの言葉として次のように語っていた。

「キリストが真の神であるなら、彼は、不可知的でなければならない。直接的可知性はまさに偶像の特徴である」(著作集14『ローマ書』、新教出版社、48頁)。

しかし、新しいバルトは、神はイエス・キリストにおいて自己を対象として人間に認識可能なものとして与えるという立場に移行していくのである。すなわち神認識はキリストを抜きにしてあり得ないというのである。この釈義が、キリスト教を人間学的、哲学的に説明することから解放し、同時に神認識に関する形而上学的枠組みを解体していくことになるのである。そして後に、『教会教義学』として結晶するバルト固有の神学方法論を確立させていくことになるのである。

このようにバルトは教義学において、はじめてキルケゴールを越えて、イエス・キリストを中心に置く道に立ったのである。

 

ところで神が存在するなら、如何にして認識できるのか。またどの程度まで認識できるのか。その神とはいかなるお方なのか、ということについてくり返し教会は弁明しなければならないとバルトは次のようにいう。

「どの程度まで〔どのような事情のもとで〕神は認識されるのか、またどの程度まで神は認識可能であるのか」(『教会教義学』、『神論』Ⅰ/1、神の認識 新教出版社 4頁)と。

バルトによると、キリストを抜きにして神を認識することができない、神を知るには聖書による以外に方法がない、ということである。

人間が罪によって本質構造が歪められている以上、神を正しく知り得ない。神が存在することは、神自身が啓示する以外に知る方法がない、とバルトは次のように述べている。

「ただ神がご自身を〔そこでの〕対象として措定し給う間にだけ、人間は神を認識するものとして措定されている」(同上、『神論』Ⅰ/1、37頁)。

 

人間の宗教的主観の投影が虚像であって、実体がないものであるなら、真の神認識はどのようにして可能なのかという問いをバルトは繰り返し主張する。このことに関して、大木英夫氏は次のように述べている。

「神認識とは、対象化されない神がみずからを対象化することによって、人間の前に立ち、そして人間がそのことによって神の前に立つという対向関係の成立を前提として成り立つものであって、神認識の存在根拠と認識根拠とは、この神の自己対象化の中にある」(『バルト』大木英夫著、講談社、228~229頁)。

 

この神の自己対象化、すなわちイエス・キリストによって、われわれは、そこでのみ、神を認識の対象として知り得るというのである。従って、バルトは神認識において不可知論者ではない。注③

このようにバルトは、人間の理性に根拠をおく古典的な神の存在論的証明を否定し、「啓示」に根拠をおき、古い存在論を解体して、再びそれを構築しようとするのである。

 

以上のように、アンセルムスに取り組んで以後、人間が神を認識し得るための神と人間との対応、つまり類比という概念が、バルト自身の認識方法を特徴づけるものとなったのである(『カール・バルトの生涯』エーバーハルト・ブッシュ、307頁 参照)。

 

*バルトによる神認識とは、人間の側からではない。神の側から、神の呼びかけに対してわれわれの応答を生起させる出来事(「和解」)に基き、初めて神と人間の間に関係が造成されるというのである。それは上よりの一方的な恵みなのである。その関係は「信仰」による関係で造成されるので「信仰ノ類比」あるいは「関係ノ類比」と言われるのである。そして人間の理性の働きが「キリストの出来事」に呼応するとき、神学は学として成立して、神の存在論的証明も可能となるというのである。したがって「信仰が認識に先行する」ということなのである。このように、神認識に関して、啓示(和解)から、神の存在論的証明の具体的可能性が説かれるのである。

注③  バルトは、神についての不可知論者ではい。ヨハネ福音書一四章九節の『わたしを見た者は、父を見たのである』という言葉が示すよう、イエス・キリストにおいて神を認識するのである」(『バルト』大木英夫著、講談社、230頁)。