Archive for 9月, 2013

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(10)

次の聖書の記述も霊的現象である。復活には、イエスの復活と一般の人間の復活問題があるが、霊的復活に関して聖書は次のように記述している。

 

「また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」(マタイ27・52)。

 

この聖書の記述に関して、「統一原理」(『原理講論』)は次のごとく解釈している。

 

「これは、土の中で既に腐ってなくなってしまった彼らの肉身が、再び原状どおりに肉身をとって生き返ったことをいうのではない。………もしも、聖書の文字どおりに、旧約時代の霊人たちが墓の中から肉身をとって、再び生き返ったとすれば、彼らは必ず、イエスがメシヤである事実を証したはずである。墓の中から生き返った信徒たちが証すイエスを、メシヤとして信じないユダヤ人がどこにいるだろうか。このような聖徒たちに関する行跡は、必ず聖書の記録に残ったであろうし、また今も地上に住んでいるはずである。しかし、彼らが墓の中から生き返ったという事実以外には、何の記録も残っていない」(『原理講論』226-227頁)。

 

このように、聖書には復活した人たちが、その後どうしたのか、また、いつ再び死んだのか(消えたのか)、何も記述されていない。

したがって、この事実は、「統一原理」が述べているごとく、霊眼が開けた聖徒にだけ、しばらくの間、見えた霊的な出来事なのである。つまり、霊の目で見た「霊のからだ」の復活であって、それを記述したものに他ならないというのである。

 

原理的に解釈するなら、旧約時代の霊人達が地上にいるイエスの弟子たちに協助するために霊的に現れた霊的現象なのである。そしてキリストが十字架の死によって三日の後に勝利して支配する霊的世界(パラダイス)に旧約の霊人達が移行する様を復活(墓が開け、再び生き返る)と記述したのである。

 

霊界においては、新約の世界から旧約の世界を見ると薄暗い死んだ世界のように見えるのである。「墓」とは死の世界、すなわち次元の低い霊界を意味し、その世界にいる霊たちは、いわば「生きた死体」のように見えるのである(霊的に生きているが、実は死人のように見えるのである)。だから、「墓から出てきて」とか、「死体が生き返る」と記述したのである。

 

〝生き返った〟とは、霊界において、死の体(霊形体)から生の体(霊、生命体)に復活し、死の世界(旧約の世界)から生の世界、すなわち、新約の世界、イエス・キリストが支配するパラダイス(楽園)へと、キリストに従って、その弟子たちが共に移行することをいう。

 

言い換えると、低い霊界から高い霊界への霊的移行を意味するのである。また、地上において、ブルトマンのいう実存論的な解釈をするならば、復活とは日々復活することを意味し、日常の信仰生活における霊的向上を復活する(生き返る)と解釈することもできる。

 

以上のように、「復活」とは、霊的復活であってバルトが肉体の復活と信じ「信仰告白」するような、驚くべき、奇跡のような出来事などではないのである。

 

ところで、イエスが「生きておられる」ことに対して、トマスは「釘あと」、「わき」腹に指を入れてみないと信じない(ヨハネ20・25)と言ったと述べられている。

 

これも肉体で復活したことを証明したものではない。後から追加したものかもしれないが、死んだイエスが霊的に「生きておられる」ことを強調せんがために、そのような、あえて実証的な記述をしたのである。

復活の事実を、聖書全体から矛盾なく論理的に整合的に解釈するなら、イエスは、現在も肉体ではなく霊的な体で生きておられると言うのである。

 

肉体による復活という信仰的理解(「先行的理解」)で本文に接すると、新約聖書の「使信」を現代人に理解不可能なことがらとしてしまうのである。そして信仰を強要して「知性の犠牲」を強いて躓かせるのである。

「統一原理」の復活論には、次のように論述されている。

 

「復活というのは、再び活きるという意味である。再び活きるというのは、死んだからである。そこで、我々が復活の意義を知るためには、まず、死と生に対する聖書的な概念をはっきり知なければならないのである」(『原理講論』208頁)。

 

バルトは、概念的に論じることを哲学的人間学として排除するが、巨大な量の著作を書いても、生と死について概念が明確ではない。

その結果、神学とは、すでにある神的事実(Sacheザッヘ)に対する追思考であると言うが、復活に関して、かくも盲目的な信仰的理解なのである。そして、その信仰をわれわれに強要するのである。

 

 

「原理的批評」

 

(1)「様式史的方法」――ブルトマンの『共観福音書伝承史』は、マルコ、マタイ、ルカの共観福音書を様式によって整理分類し、共観福音書は客観的に歴史的事実を記述したものではなく、初期キリスト教の信仰の所産であるという。

この『共観福音書伝承史』は、非神話化と実存論的解釈の準備作業をなすものであった。『イエス』において、ブルトマンは史的イエスを復元することはできないと断定する。

 

(2)聖書記者たちの時代の神話的な世界像と神話的な人間像は、その時代と共に、現代のわれわれの前から消え去った。それらは科学的な世界観を持つ現代人には容認できない世界観であり人間像である。

それゆえ、新約聖書の神話を「非神話化」しなければならないとブルトマンは説く。十字架の死と復活というキリストの出来事も、すなわち、救済の中心の出来事も、神話的に語られており、「非神話化」しなければならないという。

だが、それは危険であるとバルトはいう。それらの使信はバルトのいうごとく「信じる」こと以外にないのであろうか。

史的な出来事は肉体の復活なのであろうか、霊的な復活なのであろうか。復活信仰とは何であったのか。今まで信仰的義認(前理解)の下で、間違って解釈していたのではないだろうか。

 

(3)ブルトマンの実存論的解釈は、前期ハイデッガーの哲学であると指摘し、その「先行的理解」の下で、聖書の本文に接しているとバルトは批判するが、そのバルト自身も信仰義認論という「先行的理解」(鋳型にはまった心像)を前提として本文に接しているのではないか。

それでは「本文が語り始める前に口を封じてしまう」のではないか。

 

(4)「統一原理」の堕落論、復活論、終末論、再臨論は、ブルトマン流にいえば、みごとな新しい「非神話化論」であると言える。

果たして、救済の出来事の中心である〝復活〟に対して「信じること」を強要し、「知性ノ犠牲」を強いることが、正しい信仰であり、正しい神認識なのであろうか。ブルトマンは〝否〟と言う。

 

以上のように、ブルトマンの神学は、既存の福音主義神学の破壊と活性化の両面性がある。

そういう意味でブルトマンの非神話化は、「統一原理」を受容可能な神学的精神的環境圏を先に形成するという意味において、〝洗礼ヨハネ的〟な天的使命をもった神学(実存論的解釈学)であったと言えるのである。

 

ただし、『イエス』の中で論述されているように、自然神学を批判している。しかし、ブルンナーが指摘しているように、現在において新しい自然神学が求められているのである。

 

だが、「統一原理」の創造原理を既存の自然神学と同類のものと見なされ、排除されるのではないかと危惧される。

したがって、バルトやブルトマンの自然神学批判を知って、傾聴に値する部分と、躓きとなる部分を抽出して整理分析し、誤ったプロテスタント神学の古い固定化した教義を論破しなければならないのである。それは相手を救済するためであって、真の愛である。

 

「主要参考資料」

『共観福音書伝承史』Ⅰ、Ⅱ、ブルトマン著、加山宏路訳、新教出版社

『イエス』ブルトマン著、川端純四郎・八木誠一共訳、未来社刊

『聖書の伝承と様式』ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊

『ブルトマン』笠井恵二著、清水書院

『新約聖書と神話論』ブルトマン著、山岡喜久男訳、新教出版社

『新約聖書神学』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、ブルトマン著、川端純四郎訳、新教出版社

『原始キリスト教』ブルトマン著、米倉充訳、現代神学双書、新教出版社

『歴史と終末論』ブルトマン著、中川秀恭訳、岩波書店

『キリストと神話』ブルトマン著、山岡喜久男・小黒薫訳、新教出版社

『カール・バルト著作集3』教義学論文集「ルドルフ・ブルトマン――彼を理解するための、一つの試み」(1952年)、新教出版社

『近代プロテスタント思想史』ティリッヒ著、佐藤敏夫訳、新教出版社

『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社

『イエス・キリスト』荒井献著、講談社

 

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(9)

(2)「非神話化」の真意

 

使徒信条の「陰府にくだり」とか「天にのぼり」というようなことを礼拝で告白することにいかなる意義があるのかとブルトマンは問う。このような「神話論的な表象は取り去られるべきであり、今日においていかなる人も、神を天上にある存在として思い浮かべはしない」という。

われわれは、古い意味での「天」(空の上にある天国)とか「陰府」(地の下の世界)などを実際に存在すると信じることはできない。

 

したがって、キリストが陰府にくだり天にのぼったという物語もすでに終結しているのである。また「天の雲に乗ってくる」という再臨のキリストについての待望論や「信徒が空中に引き上げられてキリストのもとにゆく」という期待も現代人にとっては信じがたい事柄であるとブルトマンはいう。さらに、天変地異(宇宙の破壊)というような終末論も終結したと次のように述べている。

 

「パウロとヨハネによれば、終末論的なできごとは劇的な宇宙的破局として理解されるべきではなくて、………繰返し現存するものとして、説教を通してここでいまあなたやわたしに呼びかけるものとして終末論的現在なのである」(ブルトマン著『歴史と終末論』、中川秀恭訳、岩波書店、196-197頁)。

 

「新約によれば、イエス・キリストは終末論的なできごと、神がそれによって古き世界を終らしめるところの神の行為である。キリスト教会の説教において、この終末論的なできごとが常に繰返し現在となるであろうし、信仰において常に繰返し現在となるのである。信仰者にとって古き世界はその終りに達したのであって、彼は『キリストにある新しき被造物』である。何故なら、信仰者自身が『古き人間』としてその終りに達し、今や『新しき人間』、自由なる人間であるという事実と共に古き世界がその終りに達したからである」(同上、『歴史と終末論』196頁)

 

このように、客観的な出来事を否定し実存論的に解釈しているのである。

 

その他に「処女降誕についての伝承と、イエスの昇天についての伝承とは、ばらばらにしか見出されない。パウロとヨハネは、この伝承を知ない」(ブルトマン著『新約聖書と神話論』、山岡喜久男、新教出版社、26頁)とブルトマンは指摘する。

これらが後から付け加えられたとしても、いずれにしても救済の中心的な出来事は神話的であるというのである。

 

以上のように、このようなケーリュグマ(宣教の使信)はブルトマンによれば、その神話的形式のままでは新約聖書の表象は、すなわち、それによって意味され、語られた内容の表現としては、現代人にとって理解できない事柄であると言うのである。そのわけは、神話的世界と神話的人間像とは、その時代と共に、われわれの前から消え去ってしまったからである。

 

われわれは、聖書記者と異なった、新しい近代的な世界像や人間観を持ち、その諸前提の下で必然的に考えざるをえないからであるという。

したがって、新約聖書における救済の出来事の叙述に見られるような「その世界像を、真なるもの」と認めよと言っても、それは無意味であり、不可能である。それを信じるように自己に強いることは、それこそ、「知性ノ犠牲」ということになる。ブルトマンが「非神話化」を主張する真意がここにある。

 

(3)「復活」信仰について

 

バルトは新約聖書の使信を「非神話化」すれば、すべて危険にさらされると見ている。それゆえ次の聖書の復活に関する記述は、バルトによれば、「非神話化」できず、信ずる以外にないというのである。

 

「死人の中からの復活における栄光をも、空間と時間との中で注目し、目で見、耳で聞き、手でふれたという事実に、ケーリュグマがその起源をもつと告白することがケーリュグマには禁じられているという場合はどうであろうか?」(『カール・バルト著作集』3.「ルドルフ・ブルトマン」より、新教出版社、238頁)と。

 

イエス・キリストの十字架の死と復活において、キリストの出来事の全体において告白することが、禁じられる場合、救済の出来事の中心そのものが、キリスト者の信仰そのものが、危うくなってしまうのである。

バルトによれば、復活は「非神話化」すべきでなく、また出来ないが、「信仰告白」として受容すべき事柄であるというのである。それで、キリストの出来事に対する非神話化に反対するのである。

 

だが現代において、「死人の中からの復活」、「肉体による復活」などは信じられない非科学的な出来事である。

例えば、カトリックに入信した安岡章太郎氏は、「これはもう、はっきり言って、いったん死んだ肉体の復活というようなことは、あり得るべきものとは、僕は思わない」(『我等なぜキリスト教徒となりし乎』、安岡章太郎、井上洋治、光文社、89頁)と言っている。

果たしてイエスの復活は、バルトが言うごとく非神話化できない出来事なのであろうか。

 

(4)「統一原理」による復活理解

 

ブルトマンは、復活を客観的な歴史的出来事としてではなく実存論的に解釈している。統一原理はバルトと同様に、これを歴史的客観的な出来事として捉え、その「非神話化」の問題を「非宗教的」(ボンヘッファー的)に論じている。

 

統一原理は、イエスの復活を霊的な出来事として捉え、肉体の復活として捉えていない。このように復活を霊的な出来事として捉えるなら、現代人の理性に矛盾なく容認されるのだが、肉体の復活とバルトのごとく捉えれば、確かに、ただ信ずる以外にない。

だが、神は、われわれ現代人に、そのような「知性ノ犠牲」を強いる信仰を求めておられるのであろうか?

 

この「復活」の事実は、どのように解釈すべきなのか。霊的復活なのか、肉体の復活なのか。

言い換えると、バルトが言うように、「空間と時間との中で注目し、目で見、耳で聞き、手でふれたという事実」を、肉体の復活であると先行的理解をし、その前提の下で本文に接して解釈し、それを信ずべき事柄であると強要すべきことなのか、というのである。

 

このことを記している聖書の前の節には、肉体ではなくイエスの霊的復活体と受け取れる次のような記述がある。

 

「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」(ヨハネ20・26)

 

これは、イエスの弟子たちがユダヤ人をおそれ、自分たちのおる所の戸をみなしめていた時に起った出来事である。

この聖書の記述は「戸はみな閉ざされていた」ことが強調されているが、それでも、イエスが家の中に入って来られたとある。これは、いったい、どのように理解すべきであろうか。物理的に中に入れない状態であるにもかかわらず、入ってこられたとは!

 

復活したイエスの体とは、聖書がきわめて簡潔・明瞭に記述しているごとく、霊的な体であったのではないか。その霊的な体が、時間と空間の中に現れたのではないかというのである。

したがって、バルトが信仰的理解をするような肉体のそれではないのではないか、ということである。

 

「先行的理解」(信仰的理解)を前提として、本文に接すると「本文が語り始める前にその口を封じてしまうこと」になり、バルトのごとく肉体の復活と解釈してしまうのではないか、というのである。

 

「復活」とは、決して人間の「知性ノ犠牲」を強いるような出来事ではない。聖書に次のごとく、からだには「霊的な体」と「肉的な体」があることについて語られている。

 

「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、………肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリントⅠ、15・42~44)。

 

このように、人間には「肉のからだ」と「霊のからだ」があると述べられている。朽ちる肉体では、永遠に生きることはできない。したがって、復活は霊の体であるといえる。もし、肉体で永遠に生きるなら霊の体はいらないであろう。

したがって聖書が記述しているように、人間は死後朽ちる肉体を脱いで、朽ちない霊の体によみがえり、地上界から霊界に行き、そこで「霊のからだ」で永遠に生きるように創造されているのではないか、と言うのである。同様に、イエス・キリストもわれわれ人間と同じであって、「霊のからだ」と「肉のからだ」があったとわれわれは理解することができるのである。肉体の死は罪と無関係である。

 

イエスは、現在も霊界で霊の体で生きておられるというのである。マリヤから生まれたイエスと他の人間とのあいだに、外的に、何か違いがあるのであろうか。ただし、堕落人間と「本然の人間」(真の人間)の相違はあるが。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(8)

(四)「バルトのブルトマン批判」について

 

(1)「先行的理解」について

 

周知のごとく、バルトにとって、神学の大きな主題とは、それは啓蒙主義との対決であり、西欧文化の領域に確立された理性と経験に基づく新しい世界像や人間像、そして人間理性による聖書解釈に対して、それらと、いかに対決するか、ということにあった。

 

バルトはブルトマンの「非神話化」=「実存論的・人間学的解釈」に、鋭敏に、それと感じ、次のように問いを発し対決に挑む。

 

「新約聖書の理解についての私の問いは、次のようなものである。基準的なものとして確定された不動の表象という前提、つまり読者が、可能であり、正当であり、重要であると考えることが『でき』、したがって理解することが『できる』ことについての『鋳型にはめられた心像』という前提の下で、すなわち規準とされた『先行的理解』という前提の下で、新約聖書本文の真の理解というものがありうるのか?そこでは、新約聖書のケーリュグマの理解において、そこで証言されている神の言葉の信仰的理解が問題であるというのに!」(『カール・バルト著作集3』新教出版社、255頁、「ルドルフ・ブルトマン」より)。

 

ブルトマンの自己理解(前理解)に対してバルトの信仰的理解とは、人間の理性や力、人間側からの努力や行いの一切を否定する信仰義認のそれである。過去のそれではなく啓蒙主義以来の理性や経験や人間の主体性を批判し克服せんとする新しいそれである。すなわち、宗教改革者の伝統を受け継いだ新しい信仰的理解なのである。

 

さて、バルトはまた次のように「先行的理解」について述べ、ブルトマンを批判する。

 

「ある本文の自己開示を心を開いて期待し、忍耐づよく追求するかわりに――その理解可能性あるいは理解不可能性についての基準と限界に関する先行的決断をすでに行った上で、この本文に接近するという場合、はたしてわれわれはその本文を古い時代から、または新しい時代から理解するといったことができるのだろうか?………したがってそれを読んでしまう以前にすでに、その本文において、どこまでその本質的内容ではなくて、ただその歴史的表象内容とだけかかわるのかを知っていると考えるとき、われわれはその本文が語り始めるより前にその口を封じてしまうことにはならないのかどうか?」(同上、236頁)と。

 

バルトが指摘する「先行的理解」(不動の表象、鋳型にはめられた心像)とは「前期のマルティン・ハイデッガーの実存主義」の哲学のことである。これが、つまり、ブルトマンが新約聖書に向かわねばならなくなった時、すでに持っていなければならない「先行的理解」と基準であり、しかもそれは「最高の無謬性で支配する」原理の高さまで高められた基準なのだとバルトは鋭く批判する。

そして、それは「新約聖書の本文にとっては最高に異質的な基準ではないか?」と指摘する。さらにブルトマンの思考の本質はこれであると次のように暴露する。

 

「アウグスティヌスは新プラトン主義的に、トマスはアリストテレス的に、F・C・バウルとビーダーマンはヘーゲル主義的に語ったように、いまやブルトマンはハイデッガー的に語るのである」(『カール・バルト著作集3』252頁、「ルドルフ・ブルトマン」より)と。

 

「彼がそれを用いるのは、ただ道具としてのかぎりである」というが、「一つの哲学的道具に身をあずけてしまうといったことができるかどうかは、まったく別の問題である」(同上、252頁)。

 

それにしても、「偶然に、すべての(あるいは、ほとんどすべての)錠を開けうる一つの鍵となった道具というのは、まったく世にもめずらしい道具である」(同上、252頁)と。

 

以上のように、バルトは鋭くブルトマンの思考の本質を暴露し揶揄する。さらにバルトは彼の信仰姿勢を問題とし、キリストへの信仰的理解(キリスト論的集中)にブルトマンを覚醒させようと次のように述べている。

 

「ブルトマンの解釈を、最高の無謬性で支配している基準、つまり彼の『神話』の概念は、新約聖書の本文にとっては最高に異質的な基準ではないのか?その標準が、ブルトマンが述べた現代の教養の世界に周知のものであっても、あるいはそうでなくても――まさにそれを適用することによって、何が新約聖書の本文において表象にすぎず、主題でないものなのかを勝手にきめてよいのだろうか?だがそもそも、聖書注解者は、先ず何よりも先に、だれに対して誠実と真実をささげるべきなのか?だれに対して責任的応答(verantwortlich)をなすべきであるのか?彼と彼の同時代の人たちの思考の前提に対してか?」(『カール・バルト著作集3』、「ルドルフ・ブルトマン」――彼を理解するための、一つの試み、236~237頁)

 

このように、バルト神学の本質は、すぐれてその論争的言辞がキリスト論的集中として表れる。

 

ところで、バルトは「先行的理解」という実存論的解釈の文言の真相を暴露し、ブルトマンを批判するが、バルト自身もそうなのではないかと指摘できる。

 

バルトは、あらかじめ信仰的理解(不動の表象、心像)という人間の理性や人間学などを否定する「信仰義認論の絶対的原理」で武装し、それに身をゆだね、理解可能性、あるいは理解不可能性についての基準や限界に関して、すでに先行的決断を行った上で、その前提の下で、聖書の本文に接しているのではないか。

 

それでは「本文が語り始めるより前にその口を封じてしまうことにはならないのか?」と逆にバルトに反問したくなる。自己の内部の観念(信仰観)を絶対化し、他の神学者も指摘するように、バルトの異端審問官のような態度には賛成しかねる。

 

「先行的理解」や「前理解」という言葉でもって揶揄して批判し、人間の知性や理性による研究の努力を否定することは問題であると言うのである。

 

バルトの指摘はなるほどと思わせるが、だからといって彼の信仰義認論に賛同しかねる。

上述のように、われわれはブルトマンの側に立って既に反論しているが、バルトも信仰義認という『鋳型にはめられた心像』の下で、それを基準に「先行的理解」をなし、それを前提として、本文に接しているのではないか?

 

このようにブルトマンに向けられた批判と同じ批判をバルトにも向けることができるのである。

問題なのは、現代に対応できない神話的な救済の中心的出来事に対する既成の古い観念や概念や先入観をどうするのかという問題なのである。

ブルトマンは「非神話化」(実存論的解釈)という概念で、それらを再解釈して現代人に聖書の使信を受容可能なものにしようとしたのである。

 

ブルトマン著『原始キリスト教』の訳者、米倉充氏は「非神話化」について、次のように述べている。

 

「非神話化論とは、本来キリスト教信仰そのもの、聖書自体の内的要求に由来するものであり、逆説的には、それがキリスト教信仰の本質に深く根ざしていればこそ、非神話化論が現代的重要性を持っているとも言うことができるのである」(ブルトマン著『原始キリスト教』、米倉充訳、現代神学双書、新教出版社、262頁)と。

 

「内的要求に由来するもの」とは、ブルトマンによると、「新約聖書の内部において、非神話化がここかしこに、すでに、行われているという事実が加わる」ということである(ブルトマン著『新約聖書と神話論』山岡喜久男訳、新教出版社、31頁)。統一原理が出現する必然性がここにあるといえよう。

 

すでに論述したように、ブルトマンはバルトと同様に「本来キリスト信仰そのもの」、すなわち信仰義認の観点で本文に接しているのである。ただし、一方は神の側(和解)から、他方は人間の側(実存)からである。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(7)

「理性と主体性(実存)」

 

ところで、理性に対するブルトマンの理解は福音主義のそれと異なるところがある。

ブルトマンは、プロテスタント的に人間の罪は道徳的なあやまちではなく自己主張にあるという。そして、神は人間に根源的な問いをつきつける。問いに対する決断(信仰)によって神に召されているという。

笠井恵二氏は、次のようにブルトマンの実存の理解について述べている。

 

「人間の認識能力に対する疑いでもなければ、理性の削減でもない。神を非合理的なものとすることは、神について正しく語ることではない。むしろ、理性をどれほど重視してもしすぎることはない。理性は、理性としての道を最後までつき進むとき、人間に自己の意味を深刻に問うことをさせるのである」(『ブルトマン』、笠井恵二著、清水書院、42頁)

 

このようにブルトマンは、神は神話的世界像のような「非合理なもの」ではないと言い、理性を肯定する。そして、「非神話化」を主張する彼であるが、理性を重視することは、ルター以来の〝信仰〟を根拠とする福音主義神学と矛盾しないであろうか。

 

ブルトマンの神学によると、信仰と理性の関係は相補的であり、「彼はルター派の信仰に立つ者として、聖書の伝える使信をなによりも重んずる。しかしその信仰を深めるということは、理性を犠牲にしてあたまからすべてを信じこむことにではなく、むしろ人間の知性の価値を重視し、主体的に『理解する』ということにある」(同上、『ブルトマン』72頁)と言う。

 

キルケゴールやハイデッガーの影響を受けた彼は、主体的に実存的に歴史とかかわり、イエスの言葉と主体的に対決することを迫るのである。これがブルトマンの実存論的な解釈なのである。

 

だが、「理性」や「人間の知性の価値」を少しでも認めることは、それ自体が、ルターの説く「信仰義認論」に対する痛烈な批判であり、プロテスタントにおける既存の信仰観を破壊するに十分なのである。

この点は、信仰と理性を対立的に捉える福音主義神学から見れば、無視し得ない〝ブルトマン問題〟なのである。

 

「ブルトマンの立場は、バルトと違って、啓蒙主義以来の体験の神学の線上に立っていると言うことができるであろう。ブルトマンの思想においては、イエスはわれわれの体験を顧慮しないで、向う側から与えられる存在ではない。イエスとわれわれとの関係は、われわれ生の体験から生まれてくるところの実存的な質問を軸として展開する」(『キリスト教概論』、浅野順一編、創文社、284-285頁)

 

一方的に、「向こう側から与えられる存在ではない」という点に、現代神学としてのブルトマンの実存論的解釈の意義を認め、われわれはそこに注目する。

 

ルターは、エラスムスの「自由意志論」を批判した彼の名著『奴隷的意志』の中で、「理性は神のあらゆる言やわざを取り扱うことには盲目的で、つんぼで、愚かで、不敬虔で、瀆神的である」(『世界の名著18 ルター』松田智雄編、中央公論社、215頁)と言っている。

 

このようにルターは、理性は神の言葉を扱うのに「盲目的」であると断言する。

 

ルターは、人間側の要素である理性を徹底的に否定し、神の一方的な「恵み」のみを強調する。この信仰義認論はこれで、宗教改革という歴史的状況下で、神の摂理と一致したのであるが、しかしそこにブルトマンの言う「神の言葉」を理解する「自己の実存的な在り方」(諸学の備え)や「関心」(神への問い)や「かかわり」(出会い)などの人間の主体性や理性をうんぬんする余地はない。

 

すなわち、救いにおける人間的な力をルターは一切認めないのである。だが、啓蒙主義を経験した以後の人間であるブルトマンは、理性を否定し、近代精神以前の神学思想に逆戻りすることはできないのである。

 

以上のように、現代の歴史的状況を勘案するとき、ブルトマンは聖書の使信(ケリュグマ――問いかけ、そして約束し、裁き、恵みを与える神の言葉)の理解において、主体的に実存的に「関わる」ことを強調し、理性や人間の側の知性の価値を認めざるを得なかったのである。そして、ルターの時代と歴史的状況が異なった時代に、キリスト教の信仰に基づく、新しい聖書解釈の必要性を説こうとしたのである。

 

ティリッヒは、近代精神の諸原理が「神学に対する批判として十分に確立されたのは、十八世紀になって初めてであった」(『近代プロテスタント思想史』ティリッヒ著、佐藤敏夫訳、新教出版社、5頁 参照)と述べている。

 

ブルトマンもこの神学批判として確立された自由主義神学の立場を勘案する時、過去の時代の迷信(神話)をそのまま容認することができなかったのである。

 

「非神話化に対する賛否両論」

 

ブルトマンの非神話化に対して、次のような批判がある。

 

「非神話化は、現代の世界観を聖書とキリスト教の使信に関する解釈の基準としている。」「現代の世界観と相いれない場合は、なに一つ語れないことになるのではないか」「非神話化は、キリスト教信仰を歴史性のない実存哲学に変化させてしまうものである。」と。

 

これに対して、ブルトマンは次のように反論する。

「非神話化が、現在の世界観を一つの基準としていることは、たしかである。非神話化を行うことは、聖書やキリスト教の使信を全体として、拒否することではなく、聖書の世界観を拒否することである」(ブルトマン著『キリストと神話』山岡喜久男・小黒薫訳、43頁)。

 

また、聖書自体が非神話化していると、次のように反論した。

 

いつまでたっても再臨しないので失望と疑いをひきおこすにいたったので、ヨハネは終末論を現在化したというのである。つまり「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている」(ヨハネ3・18)と。

このように、終末は時間の終局という意味での未来に展開されるのではなく、現在的なものとして理解されるように非神話化されたとブルトマンはいうのである。

 

「一方パウロはこれと並んで依然として、キリストの再臨、死者の甦えり、最後の審判の古い黙示文学的希望像を固執しているが、ヨハネは、救拯を徹底的に、現在の過程として叙述している」(ブルトマン著『原始キリスト教』、米倉充訳、新教出版社、247頁)と。

 

「歴史的状況と信仰」

 

保守的な信仰者には、ブルトマンの「非神話化は教会の信仰と宣教の基礎と内容に対する壊滅的な攻撃である」(『ブルトマン』笠井恵二著、清水書院、140頁)と受けとめられた。

 

しかし、ゴーガルテンはブルトマンを擁護して、「(非神話化の)意図するところは、キリスト教信仰とその本来の本質を喚起することにある」(同上、141頁)と言った。

 

このように彼の神学は、「破壊」と「本質の喚起」の両面がある。ブルトマンは、彼の新約学の集大成である『新約聖書神学』(1948~53年)において、「キリスト教の規範的教義学というようなものは存在しない」(『新約聖書神学Ⅲ』、川端純四郎訳、新教出版社、64頁、191頁)とまで言い切る。

 

また、「諸時代を通じて神学の連続性は、かつて一度形成された命題を固守するところにあるのではなく、信仰が常に新しい歴史的状況を信仰の根源から理解しつつ克服していく、その絶えざる活動性にこそある」(同上、191~192頁)という。

 

このように、時代の変化と発展に照応した信仰による解釈と神学のあり方を説き、古い命題に固守すべきでないと力説しているのである。

 

以上のごとく、ブルトマンの福音書研究の「様式史的方法」や「非神話化」(実存論的解釈学)は、完全な真理(キリスト)に対して新しい角度から光が投げかけられており、そこに、現代社会に生きる洗礼ヨハネとしての天的使命を彼が持っていたことを、われわれは知るのである。