ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(5)
(三)「存在と神」
ティリッヒは「存在と神問題」の序論として次のように述べている。
「理性と啓示の相関から存在と神の相関へと進むに際して、われわれはさらに根本的な考察へと移るのである。伝統的な用語によれば、われわれは認識論的問題から存在論的問題へ移るのである。存在論的問題とは、存在自体は何かという問題である」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、204頁)
上述の存在論的問題とは、ハイデガーが「<存在>とはなんであるか?」(『存在と時間』(上)、岩波文庫、23頁)と問う、その存在である。
(A)「基礎的存在論的構造――自己と世界」
「基礎的存在論的構造」は存在論的に神を論述する準備段階である。
(1)「人間、自己、世界」
人間と世界の関係について、ティリッヒは次のように述べている。
「すべての存在は存在の構造に関与しているが、ただ人間だけは直接この構造を意識している。人間が自然から疎外していること、人間は人間を理解し得るようには自然を理解し得ないことは実存の性格に属する。人間はすべての諸存在の行動を記述しうるが、その行動がそれらのものにとって何を意味するかを直接には知らない。………われわれは他の諸存在にはただ類比によってのみ、したがってただ間接的に不正確に接近し得るにすぎない。神話と詩はこのわれわれの認識機能の制限を克服しようとした。知識は失敗して退去するか、あるいは認識主観を除去した世界を、人間の身体を含むすべての生ある諸存在を部品とする巨大な一機械に改造するか(デカルト派)のいずれかであった」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、211頁)と。
すべての存在者の存在する目的と意味がわからず、人間と自然は巨大な一機械であるとは、確かに悲劇的な人間観であり世界観である。しかし、ティリッヒは次のように真理への存在論的な第三の道があるという。
「人間は他の諸対象の中のすぐれた一対象としてではなく、存在論的問いを問い、自己意識の中に存在論的答えを見出しうる存在として、宇宙を構成する諸原理は人間の中に求められねばならぬという古い伝説――神話と神秘主義により、詩と形而上学により等しく表現されてきた伝説――は、行動主義的自制によってさえ、間接的無意識的に確認されている。『生の哲学者』と『実存主義者』とは、存在論の依拠すべきこの真理を現代のわれわれに想起させたのである。ハイデッガーの『存在と時間』における方法はこの観点よりして特徴的である。彼は、存在の構造が顕わになる場所を『現存在』と呼ぶ。しかし『現存在』が何であるかは人間が自己自身のうちに経験する。人間が自己自身で存在論的問いに答えうるのは、彼が存在の構造とその諸要素を直接に経験するからである」(同、211-212頁)
このようにティリッヒはハイデガーを取り上げ、真理への存在論的な第三の道を説き、人間が神の存在、すなわち「その存在構造とその諸要素」を経験することが出来るというのである。
文鮮明師は、「神」を家庭路程の中で経験され、その「存在構造とその諸要素」を「四位基台」と「二性性相」として把握され、また「神の心情」(神の愛)を「四大心情圏と三大王権」として経験し、概念化された。
a 「理性の構造と存在の構造の不一致から一致へ」
ティリッヒによると、「存在論の問題は問う主体と問われる客体とを前提としている。それは『主体―客体』構造を前提とし、そしてこれが更に存在の根本的区分としての『自己―世界』構造を前提としている」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、206頁)という。
それゆえに、「理性の『主観客観』構造は自己と世界の相関性に根差し、そこから生ずる」(同、215頁)というのである。
ところで、理性の構造と存在の構造は一致しているというのであろうか。
ティリッヒは、「人間が自然から疎外していること、人間は人間を理解し得るようには自然を理解し得ないことは実存の性格に属する」(同、211頁)と述べ、不一致を指摘する。
さらに、「人間はすべての諸存在の行動を記述しうるが、その行動がそれらのものにとって何を意味するかを直接には知らない」(同)と断言する。
毛沢東の『実践論・矛盾論』によると、実践認識、再実践再認識と無限に客観的真理に近づくことができるというが、ティリッヒによると、人間は罪ゆえにいくら実践しても客観的真理(存在)は認識できないというのである。
そして、理性の構造と存在の構造の不一致から一致へと如何に至るかについて、彼は究極への関心と啓示が真理を与えるというのである。
その啓示とは神の霊であって、その霊的現臨に対する判断基準は究極的啓示であるキリストにある。
このように、ティリッヒの神学では、創造本然の神と人間、人間と万物の関係は不明瞭であるが、自己と世界を「主体―客体」構造を前提とし、相互依存関係として捉え、全存在を理解可能にする前提として、人間は小宇宙であると捉えている。