Archive for 10月, 2013

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(5)

(三)「存在と神」

 

ティリッヒは「存在と神問題」の序論として次のように述べている。

 

「理性と啓示の相関から存在と神の相関へと進むに際して、われわれはさらに根本的な考察へと移るのである。伝統的な用語によれば、われわれは認識論的問題から存在論的問題へ移るのである。存在論的問題とは、存在自体は何かという問題である」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、204頁)

 

上述の存在論的問題とは、ハイデガーが「<存在(ザイン)>とはなんであるか?」(『存在と時間』(上)、岩波文庫、23頁)と問う、その存在である。

 

 

(A)「基礎的存在論的構造――自己と世界」

 

「基礎的存在論的構造」は存在論的に神を論述する準備段階である。

 

(1)「人間、自己、世界」

 

人間と世界の関係について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「すべての存在は存在の構造に関与しているが、ただ人間だけは直接この構造を意識している。人間が自然から疎外していること、人間は人間を理解し得るようには自然を理解し得ないことは実存の性格に属する。人間はすべての諸存在の行動を記述しうるが、その行動がそれらのものにとって何を意味するかを直接には知らない。………われわれは他の諸存在にはただ類比によってのみ、したがってただ間接的に不正確に接近し得るにすぎない。神話と詩はこのわれわれの認識機能の制限を克服しようとした。知識は失敗して退去するか、あるいは認識主観を除去した世界を、人間の身体を含むすべての生ある諸存在を部品とする巨大な一機械に改造するか(デカルト派)のいずれかであった」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、211頁)と。

 

すべての存在者の存在する目的と意味がわからず、人間と自然は巨大な一機械であるとは、確かに悲劇的な人間観であり世界観である。しかし、ティリッヒは次のように真理への存在論的な第三の道があるという。

 

「人間は他の諸対象の中のすぐれた一対象としてではなく、存在論的問いを問い、自己意識の中に存在論的答えを見出しうる存在として、宇宙を構成する諸原理は人間の中に求められねばならぬという古い伝説――神話と神秘主義により、詩と形而上学により等しく表現されてきた伝説――は、行動主義的自制によってさえ、間接的無意識的に確認されている。『生の哲学者』と『実存主義者』とは、存在論の依拠すべきこの真理を現代のわれわれに想起させたのである。ハイデッガーの『存在と時間』における方法はこの観点よりして特徴的である。彼は、存在の構造が顕わになる場所を『現存在(ダーザイン)』と呼ぶ。しかし『現存在』が何であるかは人間が自己自身のうちに経験する。人間が自己自身で存在論的問いに答えうるのは、彼が存在の構造とその諸要素を直接に経験するからである」(同、211-212頁)

 

このようにティリッヒはハイデガーを取り上げ、真理への存在論的な第三の道を説き、人間が神の存在、すなわち「その存在構造とその諸要素」を経験することが出来るというのである。

 

文鮮明師は、「神」を家庭路程の中で経験され、その「存在構造とその諸要素」を「四位基台」と「二性性相」として把握され、また「神の心情」(神の愛)を「四大心情圏と三大王権」として経験し、概念化された。

 

a 「理性の構造と存在の構造の不一致から一致へ」

 

ティリッヒによると、「存在論の問題は問う主体と問われる客体とを前提としている。それは『主体―客体』構造を前提とし、そしてこれが更に存在の根本的区分としての『自己―世界』構造を前提としている」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、206頁)という。

 

それゆえに、「理性の『主観客観』構造は自己と世界の相関性に根差し、そこから生ずる」(同、215頁)というのである。

 

ところで、理性の構造と存在の構造は一致しているというのであろうか。

ティリッヒは、「人間が自然から疎外していること、人間は人間を理解し得るようには自然を理解し得ないことは実存の性格に属する」(同、211頁)と述べ、不一致を指摘する。

さらに、「人間はすべての諸存在の行動を記述しうるが、その行動がそれらのものにとって何を意味するかを直接には知らない」(同)と断言する。

 

毛沢東の『実践論・矛盾論』によると、実践認識、再実践再認識と無限に客観的真理に近づくことができるというが、ティリッヒによると、人間は罪ゆえにいくら実践しても客観的真理(存在)は認識できないというのである。

そして、理性の構造と存在の構造の不一致から一致へと如何に至るかについて、彼は究極への関心と啓示が真理を与えるというのである。

その啓示とは神の霊であって、その霊的現臨に対する判断基準は究極的啓示であるキリストにある。

 

このように、ティリッヒの神学では、創造本然の神と人間、人間と万物の関係は不明瞭であるが、自己と世界を「主体―客体」構造を前提とし、相互依存関係として捉え、全存在を理解可能にする前提として、人間は小宇宙であると捉えている。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(4)

(B)「啓示」について

 

啓示は、伝統的には普通の知識獲得の方法によっては得られない秘められたものの顕現を意味する。この秘められた隠されたものはしばしば神秘と呼ばれている。この神秘は普通の認識態度とは相容れない態度で体験されるとティリッヒはいう。

 

(1)「啓示の諸媒介と相関の方法」

 

ティリッヒは、啓示の媒体としての自然について次のように述べている。

 

「自然からとられた啓示の諸媒介は自然的諸対象物と同様に無数にある。大洋や星、植物や動物、人体や魂は啓示の自然的諸媒介物である。同様に啓示的性格を帯びた状況に入リ得る自然的出来事もまた無数に存在する。空の動き、昼と夜、生成と衰亡、誕生と死などの変化、自然界の激変、また成熟、病気、性、危険などのような精神的(サイコソ)身体的(マティック)諸経験などである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、149頁)

 

このように、「いかなる実在、事物、出来事でも、存在の神秘の担い手となり啓示的相関の中に入ることの出来ないものは何もない」(同、148頁)という。

 

具体的には、自然や歌や言葉などを媒介として、ある状況下にある人間に啓示し、悟りを与え、神(メシヤ)へと心を向けさせる。

このように、ティリッヒの神学は「相関の方法」であって、啓示と人間状況に関しても相関関係として捉えるのである。

 

したがって、もし主観の側がそれらを啓示と受けとらなければ、ただの偶然の出来事にすぎないことになり、何も啓示されない。

また、主観の側が啓示と受けとったとしても、相関関係外の人にとっては、それらの出来事は啓示として信じることが出来ないし、無関係なことと受けとられるというのである。

 

(2) 「終極啓示」

 

啓示の中の〝終極啓示〟としてのキリストについて、次のようにティリッヒは語っている。

 

「終極啓示すなわちキリストとしてのイエスにおける啓示は普遍的に妥当する、なぜなら、それはすべての啓示の基準を含み、すべての啓示の終局(finis)ないし目標(telos)であるからである。終極啓示はそれに先行また後続するあらゆる啓示の基準である。それはそれが出現した文化と宗教のみならず、あらゆる宗教と文化の基準でもある。それはすべての人間集団の社会的存在にも、すべての個人の人格的存在にも妥当する。それは人類そのものにとっても妥当し、またある叙述不可能の仕方で宇宙に対しても意味を持つ。キリスト教神学の主張はこれ以下であってはならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、171頁)

 

上述のように、ティリッヒによると、キリストは「あらゆる啓示の基準」であるという。

すなわち、「あらゆる宗教と文化の基準」であり、「すべての人間集団の社会的存在」や「個人の人格的基準」にも妥当し、さらに「宇宙に対しても意味をもつ」というのである。

 

このようなキリストを〝終極啓示〟とする啓示理解は、諸宗教の啓示に対して、キリストへ向かわせるものと理解して寛容な態度をとる。これは、バルトのキリスト以外の啓示を否定する見解と異なる。

 

大島末男氏は、終極啓示について次のように述べている。

 

「したがって啓示の答えも、本質領域におけるプラトン哲学やヘーゲル哲学、実存領域におけるハイデガー哲学、また諸宗教によっても提示される。たしかにキリスト教は終極的解答を提供するが、諸宗教の解答も、それぞれ固有な意味において予備的な解答であることが承認される」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、137頁)と。

 

a 「脱自」

 

大島末男氏は、脱自について次のように述べている。

 

「脱自とは、理性が主観と客観の対立構造を超えることであり、存在自体が人間の精神を捉えるとき生起する。人間存在の根底を揺さぶる非存在の脅威が惹起する存在論的衝撃は、『なぜ存在があって無ではないのか』という根本的な問いを提起するが、その答えは存在の自己肯定、すなわち罪人を救うキリストの出来事が啓示する。この存在の自己肯定(存在の力)が虚無を克服し、自然の秩序を形成する出来事であり、存在の意味である」(同、117頁)と。

 

脱自(恍惚)は、精神がその通常の状態を超え出るという意味において〝異常〟な精神状態を指す。われわれが〝霊的になった〟ということを指す。

それは理性の否定ではない。それは理性が自己を越えること、すなわち認識における主観と客観を超える精神の状態を脱自という。脱自的理性もやはり理性である。理性は、非理性的あるいは反理性的なものを受容しない(受容すれば自己破壊する)。

 

神的脱自は合理的精神の統一をそこなわないが、魔的憑霊はそれを弱め、または破壊する。また、脱自はその認識的要素に関しては、しばしば霊感と呼ばれている。

 

b 「奇蹟」

 

ティリッヒによると、奇蹟はそれが「(しる)しの出来事」となる人々、すなわち信仰によって受けとる人に対してのみ与えられるという。

彼は、イエスは客観的奇蹟を行うことを拒否していると述べている。

 

最後に、啓示に関する理解について、ティリッヒは次のごとく述べている。

 

「脱自も奇蹟も認識理性の構造を破壊しないのであるから、科学的分析、心理学的物理学的また歴史学的研究が可能であり、必要である。研究はなんの制約もなく進めることができ、進めざるをえない。その研究は啓示、脱自、奇蹟についての迷信と魔的解釈とを切りくずすことが出来る。真の啓示の超自然主義的歪曲に対する戦いにおいて、科学、心理学、歴史学は神学の味方である。科学的説明と歴史的批判は啓示を防衛する。………啓示は理性の深層と存在の根拠との顕現である。それは実存の神秘とわれわれの究極的関心を指し示す」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、147頁)と。

 

すでに指摘してきたごとく、啓示に対する迷信や悪霊現象を分別する基本的見方は、キリストの御言であり、ティリッヒもわれわれも同じ見解である。

 

具体的に、統一原理は「善神の業と悪神の業」の見分け方を論述し、「善神の業と悪神の業は同一のかたちを持って出発し、ただその目的のみを異にする」(『原理講論』120頁)と述べている。

また、上述のごとくティリッヒは啓示を曲解する戦いにおいて、科学、心理学、歴史学は神学の味方なのであると述べている。

この見解は、バルトの一切の人間学的要素の排除という宣教神学と対立する。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(3)

下記の文章は、技術的理性が存在論的理性から分離していく過程に関するルドルフ・ブルトマンの著書『歴史と終末論』からの引用文である。

 

「ベーコン、ホッブス、ロック及びヒュームに源を発し、十九世紀に発達した近代自然科学は感覚的経験によって証明され、且つ数学の用語によって表現され得る物理的法則に基づいて生起することがらに限り実在と認めたのである。人間自身もまた自然科学の対象となり、したがって感覚的経験の世界とは異るものとしての人間の真の自己に関する問は消却されてしまった。そして、それとともに個人がそれにしたがって責任をもって生をおくるべき永遠の精神的な法則についての問が、消え失せてしまったのである。……人間は自然的存在として理解され、かくして人間学が生物学となる。人間の生は風土や地形や経済的な諸条件によって決定されるものとして理解されたのである。その結果、善の概念が変わった。善は有用なものに限る。……歴史は早くもモンテスキュー(1689-1755)の頃にすでに自然史として考えられたのである。オーギュスト・コント(1798-1857)は歴史というものはそれを社会学に変形することによって、科学の地位にまで高めることができるものと信じた。カール・マルクス(『資本論』1867以降)は、『弁証法的唯物論』を考え出し、歴史を通じて発展する客観的精神というヘーゲルの概念を経済史に変形した。この理論によれば、精神的な諸概念は経済的諸条件から生れた倒錯的な『イデオロギー』なのである。」(R・K・ブルトマン著『歴史と終末論』、中川秀恭訳、岩波書店、11-12頁)

 

かくして一切の認識が経験に依存し、真理認識が歴史的な性格をもち歴史的相対主義が現れる。その結果、普遍的真理の探究は無意味となり、歴史のうちにはたらく力、思想と知識の基礎としての理性に対する信仰が消え失せるのである。ティリッヒのいう存在論的理性の危機である。神や人間の本質を問うことの無意味さが支配的となるのである。

 

ティリッヒは、相対主義の絶対化に対して断固反対している。

 

ティリッヒは、「技術的理性は一つの道具であり、他のすべての道具と同様に、多く或いは少なく完全であり、多く或いは少なく巧妙に使用されることが出来る。しかし、いかなる場合にも実存問題は出されもせず、また解かれもしない」(『組織神学』第1巻、92頁)と述べている。

 

技術的理性では解かれないという実存問題とは、自己破壊に脅かされている実存的制約下にある理性のことである。

 

 c 「理性の深層」

 

ティリッヒは、理性の深層とは「理性ではないが理性に先行し理性の根底にあって理性を通して顕現するあるものの表現である」(同、98頁)という。

ティリッヒは、「客観的主観的両構造における理性は、その構造の中に顕現するが、しかも力と意味において両構造を超越するあるものを指し示している」(同)というのである。それでは、どのように合理的理性的に表現されるというのであろうか。

 

ティリッヒは次のように語る。

「それは合理的構造の中に現われる『実体』、或いは存在のロゴス(、、、)として顕現する『存在自体』、或いはあらゆる合理的創造における創造的な『根拠(グラウンド)』、或いはいかなる創造によってもまた創造の全体によっても汲みつくされ得ない『深淵』、或いは精神と実在の合理的諸構造にはいり込み、それらを実現し形成する『存在と意味の無限の可能性』などと呼ばれうるであろう」(同)。

そして、「理性に『先行する』ものを表現するこれらすべての用語は、比喩的性格を持っている」(同)と慎重に語る。

 

理性の深層に関する比喩は、次のように理性が実現化する種々の領域に適用される。

「認識領域においては理性の深層は、すべての相対的真理を通して真理それ自体を、すなわち存在と究極的に実在的なるものの無限の力を指し示す理性の性質である。美的領域においては理性の深層は、美的直観のすべての分野の作品を通して美それ自体を、すなわち無限の意味と究極的意義を指し示す理性の性質である。法律的領域においては、理性の深層は、実現化された正義のすべての構造形態を通して、正義それ自体を、すなわち無限の厳粛と究極的な尊厳を指し示すところの理性の性質である。社会的領域においては理性の深層は、実現された愛のすべての形態を通して愛自体を、すなわち無限の豊富さと究極的統一を指し示す理性の性質である。理性のこの次元、すなわち深層の次元はすべての合理的諸機能の本質的な性質である。それは理性の諸機能をして無尽蔵ならしめかつ偉大ならしめるそれら自身の深層である。」(『組織神学』第1巻、98-99頁)。

 

イエスと聖霊によって新生した理性であれば実存的制約下から解放されているので比喩的といわなくてもよいのだが、イエスのように完全に神と一体化した「真の人」になる過程にあるので、ティリッヒは「理性の深層」や「存在自体」(神)に関して「象徴」であると表現し、また、『組織神学』第3巻においては、すべての存在、すなわちすべての「生の過程」(内部に矛盾のある状態)を「曖昧」であると神学的に表現する。

 

 (2)「実存的制約下の理性」

 

ティリッヒのいう実存的制約下の理性とは、具体的にどのような理性をいうのであろうか。

彼は実存の諸制約下にある理性は「自己自身に矛盾し、分裂と自己破壊におびやかされている。理性の諸要素は互いに衝突する」(『組織神学』第1巻、103頁)と述べている。そのような理性のことである。

 

しかし、実存の制約下にある理性は、自己矛盾し崩壊する危険に晒されているが、本質構造を完全に失っていないので、実存的苦境の中にあっても、啓示への探求へと駆られるというのである。

言い換えると、人間が「限界状況」に達したとき、理性は「もっとも深いところ」(理性の深層)につきあたり、実存や存在の関係が明瞭となってくると、そのような限界状況においては、究極的なものへの関心が啓示への探求となり、理性の問いは啓示が答えとなるというのである。

 

以上のように、ティリッヒは「理性そのものに対する非難は、神学的無知か神学的傲慢かの兆候である」(『組織神学』第1巻、103頁)と批判し、ブルンナーと同様に、人間は罪の支配の下にあるとはいえ、「理性の基礎的構造は必ずしも完全には喪失されてはいない」(同)と述べている。

 

 a 「神認識に対する疑念」

 

次の問題は、理性で神の存在を把握できるか否かという問題である。換言すると理性の制限(認識の限界)、あるいは理性の有限性として知られている問題であるが、有限性の範疇で無限なるものを把握し、経験の範疇で真の実在を捉えることができるのかという問題である。

 

ティリッヒは、この理性の有限性については、ニコラウス・クザーヌスとイマヌエル・カントによって古典的な形で次のように述べられているという。

 

クザーヌスによると、理性はその有限性にもかかわらず、「無限の深層」(神)を意識する。理性はそれを合理的知識の言葉で表現できない(無知)。しかしそれが出来ないことを知る知識こそが真の知識である(学識)という。つまり「学識ある無知」とは人間の認識理性の有限性とそれ自体の「無限性の根拠」(神)を把握し得ない人間の無能性を認めることなのである。

 

カントの場合、彼の著『純粋理性批判』によれば、経験の諸範疇は有限性の諸範疇であり、それによって実在自体(神)を把握できないという。有限性の範疇で無限なるものを把握し経験の範疇で神の実在を捉えようとすると必ず失敗に終わるという。なぜなら、その把握は神を経験の範疇で規定することになり、神を他の存在と並ぶ一存在に格下げすることになるからである(『純粋理性批判(中)』、篠田英雄訳、岩波文庫、128頁参照)。

 

ティリッヒは、このカントの主張を受容する。われわれは補足理論の個所でこのカントの主張に反論する。

 

 b 「自律と他律」

 

自律と他律は共に神律に根差している。神は理性の構造と根拠として法であるがゆえに両者は神によって統一され、その統一は神律として発現する。けれども実存の制約下においては完全な神律はない。実存的制約下では自律と他律はお互いに争い、お互いに他を破壊しようとする。ティリッヒはこの分裂の再統一は啓示への探求であるという。

 

事実、実存の制約下で分裂している啓蒙主義の自律と正統主義神学の他律は、ともに「理性の深層」(神)に根差さないので、相互に争い、相互に破壊し合う。しかし、両者を統一するのは啓示(神律)であるという。

 

また、ティリッヒによると絶対主義と相対主義の葛藤を統一するのも啓示によるという。啓示は自己分裂した理性の統合を意味するのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(2)

ティリッヒは『組織神学』の序論(「組織神学の方法と構造」)で神学と哲学の相関関係を解説し、バルトらの批判に対して、次のように反論している。

 

「意味論的状況は神学者の言葉が聖なるまた啓示された言葉ではあり得ないことを明瞭にする。彼は自分自身を聖書の術語や古典的神学の用語のみに限定することは出来ない。彼はたとえ聖書の言葉だけを用いているとしても哲学的概念を避けることが出来ないし、宗教改革者の言葉だけを用いるとしても、なおさら哲学的概念を避けることは出来ない。それゆえに彼はキリスト教の信仰内容を説明する自分の仕事に役立つと思う時にはいつでも、哲学的なまた科学的な用語を用いなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、68頁)

 

このように、ティリッヒは哲学と神学の相関を強調し、バルト神学と鋭く対立する。

 

キリスト教の信仰内容を説明する時には「いつでも、哲学的なまた科学的な用語を用いなければならない」という彼の哲学と神学の相関論は。統一原理を受容可能にする洗礼ヨハネ的使命を持った神学であるといえよう。

 

大島末男氏はティリッヒの相関論について、次のように述べている。

 

「ティリッヒの神学は、本質的には新正統主義の立場に近いが、ティリッヒは聖書の罪概念を理解するためにギリシア哲学、ドイツ観念論、深層心理学、実存主義を導入し、神学と哲学の相関論という自己固有の道を開拓していった」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、51頁)

 

「ティリッヒ神学の問題点の一つは、プロティノスの哲学(古典哲学)とドイツ観念論(近代哲学)とハイデガー哲学の統合にかかわるが、哲学的空想の深化である表現主義と象徴の概念、また三者に共通する同一性と差異性の同一性という弁証法的論理が三者の統合を可能にする。しかしこのような統合は科学的厳密さに欠けるので、英国の哲学者G・E・ムーアから『一文、いや一語でいいから私の理解できる言葉を語ってくれませんか』と皮肉られる破目に陥った」(同著、25頁)

 

弁証法といえば、一般的にヘーゲルやマルクスの弁証法を弁証法であると言われているが、それはヘーゲル的な、またマルクス的なタイプの弁証法なのである。

 

古代から現代まで多くの弁証法の形態があるのである。ゼノンの論駁の方法としての弁証法、ヘラクレイトスの運動の弁証法、ソクラテスの問答法としての弁証法、プラトンの思考法としての弁証法など、多種多様の形態があるのである。ティリッヒの弁証法は、ヘーゲルやマルクスなどの弁証法の形態であるといえよう。

 

(二)「理性と啓示」

 

正統主義は、〝理性〟によって神の本質は認識しえない、神認識は〝信仰〟からという。確かに理性は曖昧であり、「最も卓越した部分」で神を侮る無知や軽蔑がある。

 

ルターは、「盲目にして無知なる理性が、どうして正しいことを教えられようか。また邪悪で無益な意志が、どうして善いことを選ぶことができようか」(『ルター』松田智雄編、中央公論社、237頁、「奴隷的意志」より)、「自由意志は自分だけでは罪を自覚しない」(同著、239頁)、「罪を自覚しない者が罪をとりのぞくために、いかなる努力を払いうるというのであろうか」(同)と述べている。

 

しかし、ティリッヒは『組織神学』で、多くの神学者は理性という言葉を定義することなく、漠然たる意味で用いていると批判する。

 

(A)「理性」について

 

 (1)「理性の構造」

 

ティリッヒは「認識論すなわち認識に関する学は、存在論すなわち存在についての学の一部分である」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、88頁)という。

 

そして、「どの認識論的主張も潜在的に存在論である。それゆえ、実存の分析を始めるには知識の問題から始めるよりは存在の問題から始める方がより正しいであろう」(同)、「理性も存在をもち存在に関与し論理的には存在に属している」(同著、204頁)というのである。

 

言い換えると、理性の分析また理性の実存的衝突を含む諸問題の分析において、ティリッヒは「組織神学者が認識論的部分(理性と啓示の教理)から出発する際には、理性についてまた啓示について彼のいだく予想を明白に表示することが必要である」(同著、89頁)というのである。

 

ティリッヒは、罪と死が支配している実存的制約下にあるすべての存在を実存主義哲学で分析する。

そして、「多くの神学的著作と宗教的談話との最大の弱点の一つは、『理性』という言葉が時には好都合な、しかし多くは軽視すべき不都合な漠然たる意味で用いられていることである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、89頁)と指摘する。

 

したがって、「神学者がその用語を定義することなく、或いは明確に記述することなく用いるならば、それは許されない。それゆえ、『理性』という用語の用いられる意味を最初から定義することが必要である」(同、89頁)というのである。

 

 a 「理性の二概念」

 

ティリッヒは、理性を存在論的理性と技術的理性という二つに区別し、理性が蒙昧であるという判断に対して、それは存在論的理性でも技術的理性でもなく、それは実存的制約下にある理性のことであると次のように述べている。

 

「理性は『蒙昧』であるという宗教的判断は、それ自身の領域においては大抵の事物を充分によく見ることの出来る技術的理性に関するものでもなく、またその本質的完全性における、すなわち、存在自体との一致における存在論的理性に関するものでもない。理性は蒙昧であるという判断は、実存の諸制約下における理性に関するものである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、92頁)

 

原理的に言い換えると、理性には創造本然の理性と、堕落した状態の理性があり、この二つの理性の区別を明確化すべきであるというのである。

 

 b 「存在論的理性と技術的理性」(理性の二概念)

 

ティリッヒは、「存在論的理性は、精神をして実在を把握し形成することをえさせる精神の構造である」(同著、93頁)と定義する。

 

存在論的理性とは、ティリッヒによると、パルメニデスからヘーゲルに至る古典的伝統において支配的であった理性のことであり、技術的理性とは、哲学以前にもあったが、古典的ドイツ観念論の崩壊以来、英国の経験論の勃興において支配的となった理性のことである。

 

藤倉恒雄氏は「理性の二概念」について次のごとく解説している。

 

「ティリッヒは本章の冒頭に述べたごとく、理性概念そのものを明確化する必要を認め、トマス・アクィナス、ルターの理性概念の区別に従って、理性の果す機能によって存在論的理性(Noûs,Intellectus,Ontological reason)と、技術的・形式的理性(dianoia,ratio,Technica reason)とに分ける。彼はデカルトよりカントに至る合理主義をオッカムに遡る唯名論の伝統に基づく立場とし、この流れに属する理性概念を技術的理性とすると共に、技術的理性の対象となる物理的諸事象の背後にある形而上学的な諸問題を取扱う理性を存在論的理性とする」(『ティリッヒの「組織神学」研究』藤倉恒雄著、新教出版社、76頁)

 

ティリッヒは、この技術的理性は存在論的理性から遊離すると、ある種の論理実証主義のごとく、おのずから実存的諸問題について完全に不適合なものとなり、技術的理性を超えた如何なるものをも「理解すること」を拒みさえする。

その結果、如何に論理的方法論的観点において洗練されていようとも、人間を非人間化し、また技術的理性は存在論的理性によって常に養われていなければ貧困化し、腐敗する危険性があるというのである。

 

この技術的理性は記号、象徴、論理的操作など、哲学を科学的な論理的計算に還元する。

しかし、諸構造や形態の諸過程、諸価値、存在目的、意味内容などは、存在論的理性なしでは把握されないというのである。

 

つまり、ティリッヒの言わんとすることは、技術的理性が存在論的理性と相互作用し、神と一体となった存在論的理性の要求を充たすために用いられる限りにおいて、そこには危険はないというのである。しかしそうでない場合は盲目的となり危険であるというのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」―(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(1)

パウル・ティリッヒ(Paul Tillich, 1886-1965)はドイツ生まれの神学者。マールブルク大学、ドレスデン大学などの哲学、神学の教授を歴任し、キリスト教的社会主義の運動を指導したが、ナチス政権の成立によってアメリカに亡命し、1940年にアメリカに帰化。アメリカで大きな影響力をもつ神学者の一人となった。自らの立場を弁証神学(相関の方法)であると言い、宣教神学と対峙した。

 

『組織神学』第1巻

 

(一)「哲学と神学の相関」

 

(A)「組織神学の方法論」

 

 (1)「相関の方法」

 

パウル・ティリッヒは、彼の主著『組織神学』の中で、自分の神学を「宣教神学」と対比して「弁証神学」であるという。

ティリッヒのいう「宣教神学」とは、バルトに代表される宗教改革者の神学を指す。それは、キリスト教の「使信」と歴史的状況との関係を考慮しない、いわばファンダメンタリズム(根本主義)と正統主義に近い神学であるという。

 

これに対し、ティリッヒの「弁証神学」は、キリスト教の「使信」と「状況」との関係を重視する「相関の方法」(The method of correlation)であるというのである。

ティリッヒは『組織神学』の中で、次のように述べている。

 

「使信と状況とが、そのいずれの一方も抹殺されることなく互いに関係づけられる神学的方法を探すことである。もしそのような方法が発見されるならば、二世紀間にわたる『キリスト教と近代精神』という古い問題はより一層効果的に追及されうるであろう。以下の体系は、使信と状況とを結びつける一つの方法として『相関の方法』を用いようとする試みである」(ティリッヒ『組織神学』第1巻、谷口美智雄訳、新教出版社、9頁)

 

このように、彼の神学の方法とは「問いと答え、状況と使信、人間の実存と神の顕現、とを相互に関連づける」(同、9頁)ことなのである。

 

また、ティリッヒは「使信の真理の叙述」と「新時代に対する真理の解釈」について次のように述べている。

 

「神学体系はキリスト教の使信の真理の叙述と、新時代に対する真理の解釈、という二つの基本的要求を満たすべきものと考えられている。神学は二つの極、すなわち、神学の基礎であるところの永遠の真理と、その永遠の真理を受けとるその時代的状況との間を往復する。この二つの要求を完全に均衡的に満たすことが出来た神学体系は今まで必ずしも多くはなかった。その神学体系の大部分は真理の面を犠牲にするか、それとも状況に向かって語ることが出来ないか、そのいずれかである」(ティリッヒ『組織神学』第1巻、谷口美智雄訳、新教出版社、3頁)

 

このティリッヒの「相関の方法」に対し、批判者は、人間から出発する自然主義的な神学にすぎないという。

確かに、哲学的人間学など一切の人間学的要素を排除するバルト神学や聖書主義者から見ればそういえるであろう。

 

しかし、ティリッヒのいう「相関の方法」を哲学的人間学と批判することに対して、ティリッヒは彼等とて神学を語るとき、哲学的人間学的用語を使用せざるをえないと反論する。実際、聖書主義者が非聖書的存在論的用語を避けようとするが、聖書それ自体が常に経験の構造を示す諸範疇や諸概念を用いているので、それは不可能であるというのである。

哲学と神学の相関について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「神学が、われわれの究極的関心を取り扱う際、そのすべての命題において存在の構造、その範疇、諸法則、諸概念を前提している。それゆえに、神学が存在の問題を避けることの出来ないのは、哲学と同じである。非聖書的存在論的用語を避けようとする聖書主義の試みは、これと同じような哲学的企図と同様、必ず失敗に終わらざるをえない。聖書それ自体が常に経験の構造を示す諸範疇や諸概念を用いている。あらゆる宗教的或いは神学的書物のどのページにも出て来る概念は、時間、空間、原因、事物、主題、性質、運動、自由、必然、生命、価値、知識、体験及び非存在などである。聖書主義はこれらの概念の通俗的な意味を保存しようとするかも知れないが、その時それはもはや神学ではなくなっている。それは、これらの範疇の哲学的理解が幾世紀にもわたって、普通の言葉に影響を与えて来たという事実を無視しなければならない。神学的聖書主義者たちがキリスト教を歴史的宗教として語り、或いは神を『歴史の主』として語る時に、彼らが『歴史』というような言葉をいかに不用意に用いるか驚くほどである。彼らが『歴史』という言葉に結びつけている意味が、数千年にわたる歴史記述と歴史哲学によって形成されて来たものであることを忘れている」(ティリッヒ『組織神学』第1巻、26-27頁)

このようにティリッヒは、神学が究極的関心を取り扱う際、哲学的用語である存在とその構造を記述する諸範疇や諸概念を用いることを避けることが出来ないというのである。

 

また「人間から出発する自然主義的な神学にすぎない」という批判に対して、ティリッヒの「相関の方法」とは神学的円環内に成立する方法であって、その始点は、「神よりか」「人間よりか」の始点を問うこと自体不適切でしかないというのである。一方向のみの直線運動ではなく、相互における円環運動であるというのである。

このことについて藤倉恒雄氏は次のように説明している。

 

「神学的円環内における相関呼応は一つの立場から一定の方向を志向する直線運動ではなく、同時に呼応する両極が相互に規定し合いつつ独立している関係であり、そこには先行の前後関係はない」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、65頁)

 

そして、この弁証神学は「バルトに代表される超自然主義的神学とトレルチに代表される自然主義的神学とを超克する試みにつながるもの」(同、206頁)と述べている。

 

確かに、この「相関の方法」は、二世紀にわたる「キリスト教の使信と近代精神」という主要なテーマに対する効果的な追求方法であるといえよう。

キリスト教の使信はその本質と独自性を失うことなく、近代精神によって受け容れられるか否かという問題である。そのことがたえず問われてきた問題なのである。

 

それゆえに、ティリッヒは「宣教神学は、その排他的超然主義を放棄して、現代の状況が問いかけている諸問題に答えようとする弁証神学の試みを真面目に取り上げなければならない」(ティリッヒ『組織神学』第1巻、8頁)といい、他方で「弁証神学は宣教神学の現存と要求とから与えられる警告に耳をかさなければならない」(同、8頁)というのである。

このように、ティリッヒの神学は対立する二つの見解を「相関の方法」で統一的に捉えようとする神学であるといえよう。

 

「ティリッヒは………過去における特殊な歴史的状況の所産にすぎぬ伝承的教理、体系、概念、教会会議の決定等が絶対化されて永遠不変の真理とされるとき、神学は正統主義的固定化に陥って生命を失うとし、彼はルターやバルトのいわゆる宣教的神学がそれぞれの歴史的状況において果した預言者的な役割を評価しつつも、神学は所与の歴史的状況に相応しく使信の実体を再解釈し、弁証論的視点をつねに保持すべきものとする」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、39頁)

 

 (2)「相関の方法」に対するバルトの批判について

 

藤倉恒雄氏は、ティリッヒの組織神学の体系化に関する動機を、次のように述べている。

 

「カール・バルトの超自然主義的神学との対決の意図があった。即ち、彼はバルト神学が自由主義的な近代神学に対して果した歴史的役割を評価しつつも、バルトがキリスト中心主義的神学の立場から、文化の諸問題や政治的社会的な諸概念をも神学から追放するのみでなく、存在論の可能性をも否定し、その結果、哲学と神学の不毛の対立を招き、宗教と文化、教会と世界を乖離させたことに抗議し、その反動的な誤謬を矯すためにも、超自然主義的神学と自然主義的神学を超えた全包括的な神学の体系化を決意することになる」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、3頁)。

 

一方、大島末男氏によると、バルトはティリッヒを次のように批判しているという。

 

「アンセルムスとカルヴァンを読みなおして、哲学と神学の相関論を主題とするティリッヒ神学の誤りを再認識した。バルトによれば、神学は教会の中に固有の場所をもつ学問であり、文化と宗教、社会と教会、哲学と神学の媒介をその任務とすべきではない。なぜならキリストが世界を照らす中心的な光であるとすれば、哲学はせいぜい周緑の小さな光にすぎないからである」(『カール・バルト』大島末男著、清水書院、67頁)と。