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ティリッヒ「弁証神学」―(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(1)

パウル・ティリッヒ(Paul Tillich, 1886-1965)はドイツ生まれの神学者。マールブルク大学、ドレスデン大学などの哲学、神学の教授を歴任し、キリスト教的社会主義の運動を指導したが、ナチス政権の成立によってアメリカに亡命し、1940年にアメリカに帰化。アメリカで大きな影響力をもつ神学者の一人となった。自らの立場を弁証神学(相関の方法)であると言い、宣教神学と対峙した。

 

『組織神学』第1巻

 

(一)「哲学と神学の相関」

 

(A)「組織神学の方法論」

 

 (1)「相関の方法」

 

パウル・ティリッヒは、彼の主著『組織神学』の中で、自分の神学を「宣教神学」と対比して「弁証神学」であるという。

ティリッヒのいう「宣教神学」とは、バルトに代表される宗教改革者の神学を指す。それは、キリスト教の「使信」と歴史的状況との関係を考慮しない、いわばファンダメンタリズム(根本主義)と正統主義に近い神学であるという。

 

これに対し、ティリッヒの「弁証神学」は、キリスト教の「使信」と「状況」との関係を重視する「相関の方法」(The method of correlation)であるというのである。

ティリッヒは『組織神学』の中で、次のように述べている。

 

「使信と状況とが、そのいずれの一方も抹殺されることなく互いに関係づけられる神学的方法を探すことである。もしそのような方法が発見されるならば、二世紀間にわたる『キリスト教と近代精神』という古い問題はより一層効果的に追及されうるであろう。以下の体系は、使信と状況とを結びつける一つの方法として『相関の方法』を用いようとする試みである」(ティリッヒ『組織神学』第1巻、谷口美智雄訳、新教出版社、9頁)

 

このように、彼の神学の方法とは「問いと答え、状況と使信、人間の実存と神の顕現、とを相互に関連づける」(同、9頁)ことなのである。

 

また、ティリッヒは「使信の真理の叙述」と「新時代に対する真理の解釈」について次のように述べている。

 

「神学体系はキリスト教の使信の真理の叙述と、新時代に対する真理の解釈、という二つの基本的要求を満たすべきものと考えられている。神学は二つの極、すなわち、神学の基礎であるところの永遠の真理と、その永遠の真理を受けとるその時代的状況との間を往復する。この二つの要求を完全に均衡的に満たすことが出来た神学体系は今まで必ずしも多くはなかった。その神学体系の大部分は真理の面を犠牲にするか、それとも状況に向かって語ることが出来ないか、そのいずれかである」(ティリッヒ『組織神学』第1巻、谷口美智雄訳、新教出版社、3頁)

 

このティリッヒの「相関の方法」に対し、批判者は、人間から出発する自然主義的な神学にすぎないという。

確かに、哲学的人間学など一切の人間学的要素を排除するバルト神学や聖書主義者から見ればそういえるであろう。

 

しかし、ティリッヒのいう「相関の方法」を哲学的人間学と批判することに対して、ティリッヒは彼等とて神学を語るとき、哲学的人間学的用語を使用せざるをえないと反論する。実際、聖書主義者が非聖書的存在論的用語を避けようとするが、聖書それ自体が常に経験の構造を示す諸範疇や諸概念を用いているので、それは不可能であるというのである。

哲学と神学の相関について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「神学が、われわれの究極的関心を取り扱う際、そのすべての命題において存在の構造、その範疇、諸法則、諸概念を前提している。それゆえに、神学が存在の問題を避けることの出来ないのは、哲学と同じである。非聖書的存在論的用語を避けようとする聖書主義の試みは、これと同じような哲学的企図と同様、必ず失敗に終わらざるをえない。聖書それ自体が常に経験の構造を示す諸範疇や諸概念を用いている。あらゆる宗教的或いは神学的書物のどのページにも出て来る概念は、時間、空間、原因、事物、主題、性質、運動、自由、必然、生命、価値、知識、体験及び非存在などである。聖書主義はこれらの概念の通俗的な意味を保存しようとするかも知れないが、その時それはもはや神学ではなくなっている。それは、これらの範疇の哲学的理解が幾世紀にもわたって、普通の言葉に影響を与えて来たという事実を無視しなければならない。神学的聖書主義者たちがキリスト教を歴史的宗教として語り、或いは神を『歴史の主』として語る時に、彼らが『歴史』というような言葉をいかに不用意に用いるか驚くほどである。彼らが『歴史』という言葉に結びつけている意味が、数千年にわたる歴史記述と歴史哲学によって形成されて来たものであることを忘れている」(ティリッヒ『組織神学』第1巻、26-27頁)

このようにティリッヒは、神学が究極的関心を取り扱う際、哲学的用語である存在とその構造を記述する諸範疇や諸概念を用いることを避けることが出来ないというのである。

 

また「人間から出発する自然主義的な神学にすぎない」という批判に対して、ティリッヒの「相関の方法」とは神学的円環内に成立する方法であって、その始点は、「神よりか」「人間よりか」の始点を問うこと自体不適切でしかないというのである。一方向のみの直線運動ではなく、相互における円環運動であるというのである。

このことについて藤倉恒雄氏は次のように説明している。

 

「神学的円環内における相関呼応は一つの立場から一定の方向を志向する直線運動ではなく、同時に呼応する両極が相互に規定し合いつつ独立している関係であり、そこには先行の前後関係はない」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、65頁)

 

そして、この弁証神学は「バルトに代表される超自然主義的神学とトレルチに代表される自然主義的神学とを超克する試みにつながるもの」(同、206頁)と述べている。

 

確かに、この「相関の方法」は、二世紀にわたる「キリスト教の使信と近代精神」という主要なテーマに対する効果的な追求方法であるといえよう。

キリスト教の使信はその本質と独自性を失うことなく、近代精神によって受け容れられるか否かという問題である。そのことがたえず問われてきた問題なのである。

 

それゆえに、ティリッヒは「宣教神学は、その排他的超然主義を放棄して、現代の状況が問いかけている諸問題に答えようとする弁証神学の試みを真面目に取り上げなければならない」(ティリッヒ『組織神学』第1巻、8頁)といい、他方で「弁証神学は宣教神学の現存と要求とから与えられる警告に耳をかさなければならない」(同、8頁)というのである。

このように、ティリッヒの神学は対立する二つの見解を「相関の方法」で統一的に捉えようとする神学であるといえよう。

 

「ティリッヒは………過去における特殊な歴史的状況の所産にすぎぬ伝承的教理、体系、概念、教会会議の決定等が絶対化されて永遠不変の真理とされるとき、神学は正統主義的固定化に陥って生命を失うとし、彼はルターやバルトのいわゆる宣教的神学がそれぞれの歴史的状況において果した預言者的な役割を評価しつつも、神学は所与の歴史的状況に相応しく使信の実体を再解釈し、弁証論的視点をつねに保持すべきものとする」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、39頁)

 

 (2)「相関の方法」に対するバルトの批判について

 

藤倉恒雄氏は、ティリッヒの組織神学の体系化に関する動機を、次のように述べている。

 

「カール・バルトの超自然主義的神学との対決の意図があった。即ち、彼はバルト神学が自由主義的な近代神学に対して果した歴史的役割を評価しつつも、バルトがキリスト中心主義的神学の立場から、文化の諸問題や政治的社会的な諸概念をも神学から追放するのみでなく、存在論の可能性をも否定し、その結果、哲学と神学の不毛の対立を招き、宗教と文化、教会と世界を乖離させたことに抗議し、その反動的な誤謬を矯すためにも、超自然主義的神学と自然主義的神学を超えた全包括的な神学の体系化を決意することになる」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、3頁)。

 

一方、大島末男氏によると、バルトはティリッヒを次のように批判しているという。

 

「アンセルムスとカルヴァンを読みなおして、哲学と神学の相関論を主題とするティリッヒ神学の誤りを再認識した。バルトによれば、神学は教会の中に固有の場所をもつ学問であり、文化と宗教、社会と教会、哲学と神学の媒介をその任務とすべきではない。なぜならキリストが世界を照らす中心的な光であるとすれば、哲学はせいぜい周緑の小さな光にすぎないからである」(『カール・バルト』大島末男著、清水書院、67頁)と。