Archive for 6月 10th, 2014

ブルンナー「出会いの神学」(2)

(2)「ブルンナーの『反対命題とその基礎づけ』」(「神の像」について)

 

はじめに、ブルンナーは、彼自身の「反対命題とその基礎づけ」として、人間が他の被造物から区別されるのは、人間の中にある「神の像」であると次のように述べている。

 

「人間の持っている神の()姿(すがた)については、実際は二つの意味で語られねばならない。一つは形式的な意味で、もう一つは内容的な意味でである。この神の(かたち)という概念の形式的な意味は、人間性(Humanum)ということである。換言すれば、罪人であろうとなかろうと、人間をほかのすべての被造物から区別するものが神の像という概念の形式的な意味である。……人間はまた罪人としても天地万物の中心点であり、頂点であることをやめてしまったのではない。……天地万物の中でのこの優位の立場は、人間が神に対して持っている特別な位置の上に基づいている。詳しく言えば、神が人間を特別なものに創造したということ、すなわち、神の像を担う者として創造したということの上に基づいている。この像を担うという機能、あるいは像を担うという性質は、罪を犯したために除去されていないばかりか、それは罪を犯しうることの前提であり、まさしく罪の中でこそ生きて活動してくるところのものである。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、143-144頁)

 

このように、神は人間を特別なものとして、神の(かたち)を担う者として創造したというのである。そして、それは、罪によっても除去されていないというのである。

 

この「神の像」に関して、さらに次のように述べている。

 

「われわれは、像を担う機能と性質を、人間が主体であるということと責任応答性という二つの概念によって表現する。人間はそのほかのすべての被造物に対して、ある大事なものを長所として持っている。罪人としてもそうである。それは主体であり理性的存在であるということである。この主体であり、理性的存在であるということを、人間は神と共通に持っている。ただ神は原型(げんけい)的に主体であり、人間は模造(もぞう)的に主体である。人間は、罪人としてもなお主体であることをやめてしまわない。人間はまた罪人としても、他人の語り相手となることができ、また神の語り相手となることもできる。そしてまさしくそのことの中に、責任を持つ者であるという人間の根本的本質(Urwesen)が基づいている。罪人としても、人間はまた責任を持つものである。こういう二つの性質の上に、すなわち言語受容能力と責任応答性との上に(そしてそれらはまた、それら二つの間で互いに非常に密接に関連しているのであるが)、人間の特殊な地位が基づいているばかりでなく、人間のこの特殊な地位と、そして神が人間となるという救済の啓示の形態との間の関係も、その上に基づいているのである。」(ブルンナー『自然と恩寵』、144頁)

 

上述のように、「人間の根本的本質」(神の像)とは、人間は理性的存在であり、「言語受容能力」と「責任応答性」を持ち、文法的に言葉となって語りかけるものを理解することができるという点にある。

人と人とが人格的に交流するのも、この言葉による。また、神と人が人格的に交流するのもこの言葉を媒介とするというのである。

 

ブルンナーは、この二つの機能と性質は堕落によっても毀損(きそん)されていないというのである。

確かに、彼の言うごとく、もし完全に毀損されているなら、神は御言(みことば)を人間に与えて人間を教育し、人間を成長させ、「完全な者」(マタイ5・48)とすることはできないであろう。

 

同様のことであるが、ブルンナーは、一方では、「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損されていない。――人間は罪深くあろうとなかろうと、主体であり、責任をもつものである」(同、144頁)と言い、「言語受容能力と責任応答性」があると言う。

他方では、堕落によって「内容的には、神の像は完全に失われており、人間は徹頭徹尾、罪人であり、人間には罪によって汚されていないところは一つもない」(同、144頁)と述べている。

 

この彼の主張は、一見すると矛盾しているように見える。事実、バルトはブルンナーの見解は矛盾していると批判しているが、彼によると、そもそも堕落人間(罪人)はそのような形式と内容を持つ矛盾した存在であると見ているのである。

 

(3)「ブルンナーの『二種類の啓示』」

 

ブルンナーは、啓示には「自然を通しての啓示」と「キリストの啓示」の「二種類の啓示」があるという。

 

自然的啓示について、彼は次のように述べている。

 

「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべての名人の真価は作品に現われる。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、145頁)

 

このように、ブルンナーは、神は自然を通しても啓示されるというのである。

 

そして、自然を通して啓示されることを認めない〝バルトの福音主義神学〟こそ、聖書の証言と矛盾していると次のように批判する。

 

「神が被造物によって讃美されているということはまた、最初の時代からその後の全世紀を通してキリスト教の典礼には欠くことのできない一構成要素である。しかも聖書自身がそのことを語り、そしてそのことを承認しない人間を責め、人間は信者として、被造物が神をこのように讃美することに参与するよう聖書が期待しているとするならば、聖書の啓示の意味が軽んじられないために、そのような天地万物を通しての啓示を承認しないことを望むということは、私には、奇妙な、聖書への忠実さとしか思われない。」(同、145頁)

 

このように、ブルンナーは、バルトが「聖書のみ」と言いながら、天地万物を通しての啓示を承認しないのは、「奇妙な、聖書への忠実さとしか思われない」と批判しているのである。

つまり、バルトのキリスト中心主義は「偏った啓示概念」(同、165頁)であり、「偏狭な聖書解釈」であるというのである。

 

そして、ブルンナーは、「神が何事かをなすところ、そこでは神のなす(わざ)の上に神の本質の印章(いんしょう)(Stempel)を押す。それ故に、世の創造は同時に、神の啓示、神の自己伝達である。こういう主張は異端的なものではない。そうではなく、キリスト教の根本的主張である」(同、145頁)と主張する。

言い換えると、世の創造に神の本質の印章があると見る自然神学は「聖書の解釈」と矛盾していないというのである。

 

問題点は、「天地万物からの啓示」と、「イエス・キリストからの啓示」は互いにどのように関連しているかという点にある。

 

ブルンナーは、「世界の構造全体も、それ自体で神を(あら)わさないのは、ちょうど、聖書がそれ自体で神を顕さないのと同様である。……またこの構造全体がなす啓示を見る眼がこの啓示のほかに、付け加わるということを通してのみ、神を啓示する」(同、166頁)という。

 

それでは、自然が神を啓示するために、「自然の啓示」のほかにどのような啓示が「付け加わる」というのであろうか。

ブルンナーは「キリストの啓示」の中に立つ人間だけが、自然の中に正しい神を認識し得ると、次のように述べている。

 

「自然とは、罪深い人間が、そこで認識していながら同時にまた認識していないものを意味しうる。それはちょうど、人間自身の本性に関して言えば、神がご自分に似た姿として人間の本質の中に入れ給うたものは破壊されえないが、しかしどうしても常に罪によってくらまされてしまうと言いうるのと、事情は全く同じである。それ故、正しい自然からの神認識は、これをキリスト者だけが、換言すれば同時にキリストの啓示の中に立つ人間だけが、持っていると結論的に言える。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、147頁)

 

このように、正しい〝自然からの神認識〟は、「キリストの啓示」の中に立つキリスト者だけが持っているというのである。

 

原理的に見れば、「キリストの啓示」とは、イエスと聖霊のことである。ただし、キリスト者の神認識は、ブルンナーの言うごとく「二つの啓示」から真の神を認識しているのであるが、まだ不完全な神認識である。再臨のメシヤの御言によって、キリスト者は〝不完全な神認識〟から〝完全な神認識〟に至るのである。キリスト者以外のすべての人も同じである。

 

「二つの啓示」に関して、笠井恵二氏は次のように解説している。

 

「大切なことは、『天地万物からの啓示』と『イエス・キリストからの啓示』という二つの種類の啓示が、いかに関連するかということである。……イエス・キリストにある第二の啓示の光の中でこそ、天地万物のなかに示される第一の啓示を明白に見ることができる。」(『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社、157-158頁)

 

このように、ブルンナーは「二つの啓示」によって「正しい自然神学に立ち返れ」(『自然と恩寵』、175頁)と言うのである。しかし、彼は、誰もが自然の中に真の神を認識できると言っているのではない。

自然が常に啓示していても、唯物論者は神を認識しない。「キリストの啓示」(イエスと聖霊)も彼らの哲学である唯物弁証法で否定し、天地万物から神を排除する。これが神の心の痛みである。

しかし、共産主義(「マルクス―レーニン主義」)を批判・克服した再臨主(文鮮明師)の思想(統一原理と勝共理論と統一思想)によって、彼らも神を認識するようになるというのである。

 

以上のように、ブルンナーは「二種類の啓示」から、正しい神認識が可能であると言っているのである。

バルトは、キリストを抜きにしても〝自然を通して神を認識し得る〟という自然神学を、怒りをもって否定するが、ブルンナーの「二種類の啓示」は、自然を通しておぼろげに神を認識するが、キリストを抜きにして〝完全な神〟を〝完全に認識できる〟と言っているのではない。

バルトは、ブルンナーの主張をよく理解しないで批判しているようである。

 

ただし、今までの神学はすべて、バルト神学もそうであるが、真理の一部分であって、完全な真理ではない(コリントⅠ、13・9)。

したがって、先に述べたごとく、誰も完全な神認識に到っていないと言えるのである。

 

また、バルトは認めないが、異教徒に対しても、神は自然を通してご自身を啓示しておられるのである。そのことに関して、聖書は次のように述べている。

 

「神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである。」(使徒行伝、14・16-17)

 

しかし、バルトは「聖書のみ」、「キリストの啓示のみ」を主張して、ブルンナーの言う自然を通しての「いろいろのめぐみ」を否定する。

だが、上述のごとく、聖書は自然を通して「いろいろのめぐみ」を人間に与え、またキリストを受け入れる準備として異邦人(キリスト教以外の他宗教)にも啓示されていると述べている。

 

それでは、次にブルンナーの言う「いろいろのめぐみ」について論述する。