Archive for 3月, 2015

ルターと福音主義(6)

「原理的批評」

(1)「二つのプロセス」(新しい人間に再創造する過程)

 

選民について、次のような文鮮明師の御言みことばがある。

 

「今日、歴史的路程において最も重要なことは何かというと、選民圏が生じたということです。この時代になり、世界的途上において、蘇生、長成、完成の三段階の基盤を連結させようというのです。イスラエル民族は蘇生級、キリスト教は長成級、そして統一教会は完成級です。イスラエル圏を中心としたものが旧約時代ならば、キリスト教は新約時代であり、統一教会は成約時代です。」(八大教材・教本『天聖経』、「真の家庭と家庭盟誓」2259頁)

 

「ですから、何度も接ぎ木しなければなりません。それで旧約時代があり、新約時代があり、成約時代があります。二千年、二千年、そのように三度、接ぎ木したならば、その位置がどの時なのかという事実を知らなければなりません。」(「ファミリー」2006年2月号、第三十九回「真の神の日」の記念礼拝の御言、37頁)

 

このように文鮮明師(真のお父様)は「三度、接ぎ木したならば」と指摘し、その位置が、つまり現代が、「どの時なのか」という事実を知らなければならないと語っておられるのである。

 

完全な救いは再臨の時による。霊的救いは「信仰のみ」で「行い」を必要としないが、完全な霊・肉両面の救いは信仰だけによるのではない。「行い」も義とされなければならない。最後の審判においては、各自の「行い」が裁かれるのである。

 

救いの摂理に時間的プロセスがあり、初臨時に十字架による霊的救いが、再臨時に原罪清算されて〝小羊の婚姻〟による霊・肉両面の完全な救いがなされるのである。

聖書に対する解釈の対立・矛盾の主要な原因は、この二つのプロセスを認識しないところにある。

信仰義認論が完全な救いだと信じ、その立場から聖書を解釈すると、「信仰によって義とされる」という聖句に対立する聖句に出会う。そうすると、ルターのごとくヤコブの手紙を「藁(わら)の書簡」といって軽んじることになるのである。「聖書のみ」という自分の信条にも反する結果になってしまうのである。信仰義認論による聖書解釈が偏った主観主義に陥る危険性がここにあるのである。

 

(2)「霊の救いのみ」(霊・肉分離の状態)

 

イエス・キリストは結婚されなかったが、復活後、「霊的イエスと聖霊」(霊的な真の父母)となって信徒を霊的に重生じゅうせい(新生)し、霊的な家庭(教会=共同体)をつくったのである。

 

完全な人間とはイエスのごとく「心」と「体」が一体である。信仰義認による霊的な重生(新生)は、心と体の分離状態であって霊だけの自由であり、肉はいまだ罪の支配の下にあり、「完全な救い」の状態ではない。先に取り挙げたが、パウロは「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ、8・23)と述べている。また、ペテロの第一の手紙には「からだの汚れを除くことではなく」(ペテロⅠ、3・21)と記述されている。

 

このように、イエスと御霊(聖霊)によって重生(新生)したキリスト者は、「心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」(ローマ、7・25)とあるように、自己矛盾の状態にあるのである。言い換えると、霊的に救われているが、からだのあがなわれることを待ち望んでいる状態で、霊肉両面において完全に救われた状態ではないのである。

 

パウロの研究によって、ルターは彼の著『キリスト者の自由』の中で、霊と肉の「二つの原則」を述べ、霊(心)の義と自由のみを説き、身体の善行を無益だと言い、「霊肉分離」のままの状態で義とさる十字架の恵み(霊的救い)を説いているのである。

 

キリスト者の自己矛盾について、ルターは『キリスト者の自由』の中で次のように述べている。

 

「相反する二原則……どのキリスト者も霊と肉という二種類の性質を持つ……霊の面から見れば、彼は霊的な新しい、内なる人と呼ばれ、肉の面から見れば、身体に属する、古い、外なる人と呼ばれる。」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、53頁)

 

このように、「内と外」、「霊と肉」、「新と旧」の矛盾をもつ存在がキリスト者である。肉体は古いままで罪の中にあるが、信仰によって罪あるまま義とされ、この矛盾のある状態で救われているというのである。

つまり、この救いの状態は、心は罪から解放されている状態ではあるが、まだ体のあがなわれることを待ち望まなければならない状態なのである。したがってキリスト者は、肉体は罪の律法に仕え、心に戦いをいどんでくる状態なのである、すなわち心と体の分裂状態なのである。

 

この点をさらにルターの言葉で検証してみよう。

 

「ローマ書七章やガラテア書五章でパウロが、聖徒や敬虔な人々において、霊と肉との戦いはまことに激しく、霊肉のいずれかがおのれの欲するところをなしえないほどである、と教えていることをさしている。

この事実から私は、もし人間の本性が、み霊によって再生させられた人々においても、善に向かって努力しないばかりか、かえって善に対して反発し逆らうほど悪であるとすれば、いまだ再生もしておらず、ふるき人としてサタンのもとに仕えている人においては、どうして善へと努力するであろうか、と断定したのである。」(『ルター』松田智雄編、中央公論社「奴隷的意志」、252頁)

 

このようにルターは、「み霊によって再生させられた人々においても、善に向かって努力しないばかりか、かえって善に対して反発し逆らうほど悪である」と言う。

この文章は、「恵み」(十字架の救い)が「霊的な救い」であって、み霊(聖霊)によって「再生」したキリスト者ですら霊と肉が熾烈に戦っているというキリスト者の実存(自己矛盾の状態)を率直に認めたものなのである。

 

統一教会に反対する一部の牧師は、ローマ書(7・22~23、7・25)のパウロの「心と体の葛藤」について、罪、律法、死の下にある一般人間のほろびについて、それもキリストの出来事の光の下で過去をふりかえって見るという仕方で、語っているのであるといい、「統一原理」の聖書解釈は間違っている、聖書を自分の都合のよいように引用し、解釈していると批判する。しかし、パウロはローマ書8章23節で、「御霊(聖霊)の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、……からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」と言っているのである。パウロの見解と上述のルターの見解は一致している。

この聖句を反対派牧師らは曲解しているのである。彼らこそ、聖書を自分の都合のよいように引用し、偏った聖書解釈をしているのである。

信仰義認論を説く本家本元であるルターが、上述のごとく「統一原理」と同じ聖書解釈をし、救われた後のキリスト者、すなわち聖徒や敬虔な人々の霊肉分離とその激しい葛藤を述べているのである。

 

ところで、ルターはこの肉から出てくる「悪い欲望」(邪心)を抑えるために、断食や労働などの「行い」の必要性を消極的ではあるが、次のように説かざるを得なかったのである。

 

「行ないは、ただ身体が従順になり、悪い欲望から清められ、また目が悪い欲望に向かうのはただそれらを追い出すためという考えでなされなければならない……自分のわがままな心を抑えるために、身体が必要と思うだけ断食し、徹夜し、労働すればよいからである。」(同、67-68頁)

 

このように、「わがままな心を抑える」ために、信仰だけでなく行いが必要であることを説いている。それは肉を打つことによって邪心を弱らせ、本心(神に向かう心)の志向する目的に体を従わせようとするために他ならない。

 

統一原理の創造原理で説いているように、霊の浄化と悪化は、肉体の「行い」(善行か、悪行か)によることをルターは知らないのかもしれないが、『キリスト者の自由』の中で、「悪い欲望」を抑えるために、身体が必要と思うだけ「行い」を実践するように説いていることは原理的であると言えよう。

 

(3)「結婚」について 

 

結婚について、修道士の独身制は、ローマカトリック教会とルターの論争点の一つである。カトリックでは、聖職者に結婚を禁じているが、祭司や修道僧であった〝宗教改革者〟たちはほとんどみな結婚したのである。

 

ルターは、「結婚に独身や修道生活よりもより大きな価値を認めた」(『ルターと宗教改革事典』教文館、111頁)のである。

 

1525年6月、ルター(42才)はカタリナ・フォン・ボラ(26才)と結婚した。結婚した理由は、「結婚が神のおきてであり、司祭や修道士の結婚が正当である」(『ルター』小牧治・泉谷周三郎共著、清水書院、99頁)と主張し、「両親を喜ばせること、教皇と悪魔とを困らせること」(同、100頁)と述べている。しかし、ルターは平和で敬虔な家庭を作った。それはプロテスタントの家庭生活の模範となった。

 

さらに、ルターは次のように述べている。

 

「わたしは全世界のすべての教皇の神学者よりも富んでいる。なぜなら、わたしは満ち足り、そのうえ結婚によってすでに三人の子どもを与えられたが、教皇の神学者たちは子どもを与えられていないからである」(『ルター自伝』藤田孫太郎編訳、新教新書、111頁、『ルター』小牧治・泉谷周三郎共著、清水書院、101頁)と。

 

一夫一妻制の結婚は「創造の秩序」と呼ばれた。家庭が近代市民社会の基盤となった。ただし、その結婚の原理的な意義と価値については誰も明らかにしていない。それは再臨のメシヤ以外に解きえない問題なのである。

 

キリスト者の最大の願いは祝福結婚によって「14万4千」(最初の復活)に参与することにある。現代までローマ教会の聖職者は独身を守ってきたが、それは再臨のキリストに出会い、天の初穂として選ばれることに他ならない。

 

ローマ法王を中心とするカトリックの聖職者や、すでに結婚しているプロテスタントの牧師らも、再臨主(真の父母様)に祝福されて原罪清算し、サタンの支配から解放・釈放されて「神の下の一家族」となり、地上天国と天上天国を創建し、世界平和を実現することに参与すべきなのである。

 

4)「救いの客観的な定義」(四大心情圏と三大王権)

 

ところで、ルターが、「身体が必要と思うだけ断食し、徹夜し、労働すればよい」と「行い」を説いたが、この労働や清貧の倫理に対して、カルヴァンは、さらに徹底した貯蓄・禁欲・勤勉の精神(労働観)を説いたのである。

 

マックス・ウェーバーによると、このプロテスタントの倫理(世俗内禁欲)が資本主義社会を形成し、発展させる原動力となったというのである。カルヴァンの思想が近代市民社会の形成に寄与したということである。

 

カルヴァンは、ルター以上に積極的に「業」(「行い」)を肯定し、職業を神の召命として受けとった。事業の成功者は、内的に信仰と聖霊によって新生(重生)した者の外的な救いの「しるし」であるというのである。「神の救い」(予定)の中に自己が選ばれた者として、如何に自覚するのか、その確証がない。その「しるし」を「行い」の結果によって見ようとしたのである。

 

だが、「行いの結果」と言っても、やはり救いに対する客観的な絶対的な判断の基準がなく、依然として主観的で、漠然としており、単なる確信(思いこみ)にすぎない。経済的に豊かなものが救われた状態で、貧困は救われていない状態であると断言できるのであろうか。

それでは、完全な救いとは、どのような状態をいうのであろうか。完全な救いの位置と状態を客観的に定義しなければ、予定論で絶望したルターのごとき「心の不安」は、いつまで経っても解消することはないのである。

 

ルターは信仰義認で救われていると言うが、信仰によって義とされることで救いが完成したのではなく、罪から霊的に解放されて完全な救いを目指して信仰の旅路を出発したに過ぎないのである。「その終極は永遠のいのちである」(ローマ、6・22)とあるが、「永遠のいのち」(永生すること)とは、神の真の愛の圏内(天国、新エデンの園)に入ることである。

 

それでは、いかにして神の愛と人間の愛が一体化して神の真の愛の圏内に入るのであろうか。

 

完全な救いとは、既存神学がいうように、神と人との個人的な人格的関係に止まることではない。再臨のメシヤによって原罪清算して、神の完全な愛を完全に体得して「完全な者」(マタイ5・48)となり、天国に入籍することである。

 

どうすれば「愛の完成者」(完全な者)になるのであろうか。愛は一人で現れない。文鮮明師は、愛は必ず相対から現れると述べておられるのである。

神の似姿として造られた人間は、孤立して存在するのではなく、アダムとエバに区別され、関係存在として造られている。アダムは他者(エバ)のために存在しているのであり、エバも他者(アダム)のために存在しているのである。したがって、神によってアダムは隣人愛を実践しなければならない関係存在として造られているのである。エバも同様である。人間は一人で存在するのではなく、隣人愛を実践する社会的存在として造られているということである。

 

文鮮明師は、天国は一人で行くところではなく、二人で行くところであると言われている。言い換えると、天国とは、完成したアダム(男性)とエバ(女性)が神によって祝福されて結婚し、夫婦となり、真の家庭を形成し、心身統一、夫婦統一、親子の統一を成して、神の愛を完全に体得(体恤)して行くところなのである。

 

したがって天国とは、完成したアダムとエバが真の神によって祝福されて結婚し、真の父母となり、真の家庭を形成して、氏族、民族、国家、世界、天宙へと、真の神の真の愛を中心として、真の家庭が繁殖した世界のことを言うのである。

 

文鮮明師は、真の神の本質は愛(心情)であると言われている。しかし、愛とは何か、愛は目に見えない。形がなく無形である。しかし、誰もが愛は存在すると言うのであるが、これまで愛は概念的に表現できないと言われてきた。それでは、一体どのように愛を論証し、認識可能にするのであろうか。

 

文鮮明師(真のお父様)は下記のごとく、神の真の愛を「四大心情圏」として概念的に論述し、原理的な結婚の意義と価値を次のように解明している。

 

「本来、神様の本然的な真の愛、真の生命、そして真の血統で連結された真の家庭の中で、祖父母、父母、孫、孫娘を中心として、三代の純潔な血統を立て、父母の心情、夫婦の心情、子女の心情、兄弟姉妹の心情を完成するときに、これを総称して四大心情圏の完成と言います。ここにおいて、父子間の愛は、上下の関係を捜し立てる縦的な関係であり、夫婦間の愛は、左右が一つとなって決定される横的な関係であり、兄弟間において与えて受ける愛は、前後の関係として代表されるのです。

このように、観念的で所望としてだけ残る夢ではなく、神様の創造理想が家庭単位に、真の血統を中心として、四大心情圏の完成とともに実体的な完成をする。」(「ファミリー」2004年、5月号、「平和王国時代宣布」9頁、2004年3月23日、米国ワシントンDC連邦議会上院)

 

また、「四大心情圏」と「三大王権」について次のように述べられている。

 

「エデンの園のアダム家庭は、神様が理想とされた真の家庭の典型でした。無形で存在された神様の存在を実体で現すための四位基台の創造でした。

創造主であられる神様は、主体の位置で人間を対象の位置に創造され、神様の心の中だけに存在していた無形の子女、無形の兄弟、無形の夫婦、無形の父母を、アダムとエバの創造を通して、実体として完成しようとされたのです。

アダム家庭を中心として、実体の子女としての真の愛の完成、実体の兄弟としての真の愛の完成実体の夫婦としての真の愛の完成、そして実体の父母としての真の愛の理想完成を成し遂げ、無限の喜びを感じようとされたのです。

したがって、真の家族主義の核心は、人間関係の最も根幹となり、真の家庭を成すにおいて、絶対必要条件となる「四大心情圏」の完成と「三大王権」の完成です。

四大心情圏とは、子女の心情圏、兄弟の心情圏、夫婦の心情圏、父母の心情圏を言います。

皆様、人間は、この地上にだれかの子女として生まれ、兄弟姉妹の関係を結びながら成長し、結婚して夫婦となり、子女を生むことによって父母となる過程を経ていくようになっています。したがって四大心情圏と三大王権の完成は、家庭の枠の中で成し遂げることができるように創造されています。」(「ファミリー」2005年、6月号、第46回「真の父母の日記念礼拝の御言」37頁、八大教材・教本『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」2336頁参照)

 

また、次のように簡潔に述べておられる。

 

「四大心情圏は、夫婦によって愛の一体をなしたところで結実し、三大王権は、アダムとエバが息子、娘を生むことによってはじめて完成する。」(八大教材・教本『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」1342頁)

 

次の御言は、人間の完成点について明確に語られたもので、結婚による「初愛の結合」(定着点)に関するものである。

 

「四大心情圏を知っているでしょう? 結婚する瞬間、初愛が結ばれるその瞬間は、息子、娘の完成であり、兄弟の完成であり、夫婦の完成であり、未来の父母の完成です。四大心情圏完成の焦点となっているのです。」(八大教材・教本『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」2336頁。分冊『真の家庭と家庭盟誓』、光言社、176頁)

 

また、結婚に関する原理的な意義と価値について、次のように述べておられる。

 

「完成基準(神の直接主管圏)に立った『初愛の結合』は、四大心情(子女の心情、兄弟姉妹の心情、夫婦の心情、父母の心情)が完成していく定着地となります(『一点で結実完成する』)。完成したアダムとエバの結婚式は、神様ご自身の結婚式です。」(『続・誤りを正す』、世界基督教統一神霊協会、67-68頁)

 

このように、文鮮明師は「四大心情圏はいつ完成するのでしょうか。……それは結婚する時です」(八大教材・教本『天聖経』2340頁) と語っておられるのである。

 

以上のように、文鮮明師(再臨のメシヤ)は、真の家庭の中で神の真の愛を経験され、その「経験内容」(愛)を科学的に分析し、概念的に「四大心情圏」と「三大王権」として解明されたのである。言い換えると、文鮮明師は四大心情圏と三大王権として、神の真の愛とは、何であるかを、万人に認識可能なものとして解明されたのである。救いの客観的な基準とは、この四大心情圏を完成し、三大王権を完成することに他ならない。

 

上述のごとく、父子間の愛は上下の関係、夫婦間の愛は左右、兄弟間の愛は前後の関係なのである。この家庭の枠の中での真の愛の秩序は「創造の秩序」であり、「家庭の原理」(規範)なのである。文鮮明師は、上下・左右・前後の愛が「一点を中心として完全に一つになるとき、理想的な球形を造る」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』、49頁)と語っておられるのである。

 

この「愛の秩序」の球形運動は宇宙の球形運動と一致する。カルヴァンが言うごとく、「家庭の原理」(規範)は自然の「存在の原理」(規範)と一致するのである。この創造本然の「家庭の原理」(家庭の倫理)が天国の原型なのである。

 

カルヴァンの『キリスト教綱要』でいう自然とは、現代人の自然科学的な自然観ではない。存在が規範であるというのである。『原理講論』の宇宙観と一致する。

ブルンナーは「カルヴァンにおいては、自然は存在の規範という概念と同様のものである」(『カール・バルト著作集2』、ブルンナー著『自然と恩寵』より、新教出版社、155頁)といい、「カルヴァン的な倫理は、創造の秩序の概念なしには全く考えられない」(同、158頁) と述べている。また彼は、「正しい自然倫理(ethica naturalis)は自然神学と同様、ただキリストにあってのみ完成される」(同、161頁)と述べている。

 

以上のように、文鮮明師(真のお父様)は、神の心情(真の愛)を真の家庭の枠の中で誰でも体験(体恤たいじゅつ)できると説かれているのである。これは驚くべき内容である。真の神と罪人とは天地の差があるというのに、これが真実であれば、われわれは祝福家庭の意義と価値を再認識しなければならない。

 

また、文鮮明師は、次のように言われている。

 

「皆さん夫婦は四大心情圏、三大王権を成しとげなければなりません。そのようになれば、霊界から地上まで、いつでも思いのままに往来することができるのです。」(八大教材・教本『天聖経』、「真の家庭と家庭盟誓」2342頁)

また、統一原理には「創造目的を完成した人間は、神を中心として、常に球形運動の生活をする立体的な存在であるので、結局、無形世界までも主管するようになるのである。」(『原理講論』57頁)と述べられている。

 

このように真の家庭における「愛の秩序」(球形運動)の完成は無形世界までも主管できるというのである。

 

次の御言には、家庭が天国の土台であると言われている。

 

「本然の真の理想家庭を通して、真の国、真の世界、真の天国が建設されます。家庭における真の父母を中心とする四大心情圏と三代王権の基盤が天一国の土台になるのです。」(天一国経典『天聖経』、「平和メッセージ」1420-1421頁)

 

このように、家庭の倫理(愛の秩序)が社会の倫理であり、国家の倫理なのである。

 

今までの神学のような「おぼろげな神」でなく、文鮮明師の御言によって、真の家庭の中で「神が人と共に住み」(ヨハネの黙示録、21・3)、「顔と顔を合わせて見る」(コリントⅠ、13・12)ごとく、鮮明に神認識が可能となると言うのである。今まで神学はイエスが結婚されなかったので、家庭の規範を解きえなかった。それで家庭の意義と価値がわからなかった。しかし、再臨のメシヤの説く「真の家庭の規範」(真の愛の秩序)が、今まで神学者が解こうとしても解きえなかった「真の家庭の倫理」であり、「創造の秩序」なのである。この真の神の「真の愛の秩序」(家庭の倫理)が天国の基礎となのである。この真理によってこそ天国が創建され、世界平和が実現していくのである。

 

心情圏(愛)の完成は重要なので、繰り返して言うなら、四大心情圏と三大王権は救いの客観的な絶対的基準なのである。したがって、ルターの苦悩、すなわち、救われているのか、救われていないのか、分からない、という予定論による「心の不安」は、これで解消され、救われたと思いこむ主観主義も、これで克服されるのである。