シュヴァイツァー4 信仰義認論への挑戦(4)

 

「キリスト神秘主義」(パウロのイエス理解について)

笠井恵二氏は「キリスト神秘主義」について次のように述べている。

「シュヴァイツァーはパウロの思想を『信仰義認』ということにおいてではなく、『キリスト神秘主義』という視点から解明していく。それは『イエス神秘主義』がさらに深められた境地である。パウロはイエスを主体的に主なるキリストとして受けとめ、このキリストと神秘的に合一する体験こそイエスを真に理解することだと考えた。シュヴァイツァーはこのパウロを、イエスを最も正しく理解した人物として、イエスを受容するための最良の導き手としたのである。シュヴァイツァーによれば、イエスの教えとパウロの思想とは、時代史的な相違をこえて最終的には同一のものなのである。そしてある意味で、この『キリスト神秘主義』こそシュヴァイツァーの復活理解であり、ここに彼はキリスト教の中核をみているということもできよう。」(『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二、19頁)

 

 このようにシュヴァイツァーは十字架の死と復活について伝統的な神学的解釈である「信仰義認」を根源的に批判し、独創的な「キリスト神秘主義」を主張し、さらに第一次世界大戦を契機として考究しはじめた「文化哲学」において、「思索を根拠」とし、「信仰に基礎」をおく近代ヨーロッパ思想を次のごとく批判した。

「世界・人生肯定の近代思想が、本来の倫理的性質を失って非倫理的なものになったのは、どうしたわけなのであろうか?これに対する唯一の説明は、の世界観は真の基礎を思索のうちにおかなかった、というにある。その母体である思索は高貴でもあり、情熱にも満ちてはいたが、しかし、深みがなかったのである。倫理性と、世界・人生肯定との関連を、実証したというよりむしろ、感得し、体験したのである。世界・人生肯定と倫理とに帰依しはしたものの、それらの真の本質と相互の内的関係とをきわめようとはしなかったのである。この高貴で、価値ある世界観は、事物の本質をめざす思索にというより信仰に根ざしたものであるから、時を経るにつれてしぼみ始めて、精神を支配する力を失ってしまった。」(選集2、『わが生活と思想』、165頁)。

 

 このように信仰に基礎を置くプロテスタント神学の伝統的解釈(「信仰義認論」)の弱点を厳しく批判するシュヴァイツァーの新しい神学思想は、20世紀の新約学に多大な影響を与えたのである。

 ティリッヒはバルトらの福音主義神学に対し「神を超自然の領域に幽閉している神学」「認識の基礎に信仰をおく不合理な信仰主義」と批判している。

また「世界・人生肯定と倫理」、そしてその「真の本質と相互の内的関係」とは何かに関して「生命への畏敬」を根源とする「文化哲学」を説いているが、文鮮明師の「原理本体論」のような根源的原理を解明し得なかった。それは再臨のメシヤでないので、いた仕方がないことであると言えよう。

 

*神様の「真の愛」の倫理として、統一原理の「原理本体論」は「四位基台の完成」(四大心情圏と三大王権)として根源的原理(神の本体=真の愛)を解明している。

 

1899年、彼の哲学の学位論文は「《純粋理性批判》より〈理性の限界内における宗教〉に至るまでのカントの宗教哲学」であった。学位を取得して以後、彼は哲学科への道でなく、神学科への道を選んだ。この年の暮れ(1899年12月)、旧シュトラースブルクの聖ニコライ教会で説教者の職を得た。シュヴァイツァーは副牧師として説教者の仕事に従事するかたわら、大学において「イエス伝研究」に、再びとりかかった。シュトラースブルク大学の図書館は、イエス伝関係の文献をほとんどそろえていたのである。

 

*バルトもカントを研究したが、自然神学を反キリストであると批判した。しかしシュヴァイツァーは「生命への畏敬」を主張して万物を包含する自然神学の立場に立ち、いち早く環境破壊を警告した。バルトは「シュヴァイツァーの見解において窮極的に危くなっていたのは、キリスト論である。」(『バルト初期神学の展開』T・F・トーランス、新教出版社、108頁)と反論したが、「生命への畏敬」の世界観による環境破壊への警告には同調せざるを得なかった。



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