シュヴァイツァー6 信仰義認論への挑戦(6)

「終末論的視座からの解釈」

イエスは、後期ユダヤ教の世界終末の期待およびその後現わるべき超自然のメシヤ王国の期待という観念界の中に生きていたとシュヴァイツアーはいう。また、パウロも同じ終末論的世界観の中に生きていたという彼の終末論的視座からの解釈について次に見てみよう。

「パウロの思想圏研究史の結果、1911年に、私はつぎの結論に到達したのであった。すなわち、当時一般に見込ありと考えられていた、非ユダヤ教的な外見をもつ神秘的なパウロの救済教義をギリシャ思想に持って行こう、とする解決法は不可能である、ただ終末説よりする説明のみが可能である、」(選集2、『わが生活と思想』155頁)と。

このようにシュヴァイツァーは、従来の学説であるパウロの非ユダヤ的と見られる神秘主義を、ギリシャ思想からではなく、終末観の思想から解釈したものと捉え直すのである。

 

「ゆえに、『キリストに内在』し『キリストと共に死し共に復活する』という神秘主義の中には、世界終末を期待する緊張した感情があるわけである。メシヤの国ただちに出現すべし、という信仰より出発して、パウロは、―イエスの死と復活とともに、自然より超自然への転化がもはや真実に始まっている、―と確信した。ゆえに、この神秘思想には宇宙の変動ということがその前提となっている。

この『キリストと結合する』ということの意義、を体得することよりして、パウロの実践倫理は生ずる。」(著作集2、『わが生活と思想』、258頁)と。

 

笠井氏は、シュヴァイツァーの神学的視座について次のように述べている。

「シュヴァイツァーの研究は、のちのバルトのような、イエス・キリストを人間となった神として見、信仰的な基準ですべてを主張していこうとする神学とは方法がまったく異なる。この終末論的・歴史的方法においてシュヴァイツァーは、神学といえども徹底的に歴史的・学問的に誠実であり続けねばならないとしたハルナックやトレルチの自由主義神学の伝統を継承しているのである。」(『二十世紀神学の形成者たち』、笠井恵二、17頁)

 

*シュヴァイツアーの神学(歴史的・学問的に誠実な視座)の影響について

パネンベルクは「救済の出来事と歴史」(1959)と言う論文で次のように述べているといわれている。

「歴史はキリスト教神学の最も包括的な地平である。すべての神学的な問いと答えは、ただ歴史という枠の内部にあってはじめてその意味をもつ。神が人類とともに、また人類を通して自らの被造物全体と共有しているこの歴史は、将来へと向かっている。将来は世界に対してはまだ隠されているが、しかしイエス・キリストにおいてすでに啓示されている」。ここに綱領的な明瞭さで示されているように、パネンベルクは、一方では歴史を『実存の歴史性』へと解消するブルトマンやゴーガルテンに対して、他方では受肉を『原歴史』として解釈するバルトに対して真っ向から反対して、イエス・キリストの出来事の『歴史的な性格』を断固主張する。彼によれば、イエス・キリストにおける救済の出来事は、人類史のただ中において実際に生起したのである。したがって、神学は歴史的・批判的研究の及ばない非歴史的領域に逃避してはならない。『歴史としての啓示』を主張するパネンベルクは、ユダヤ黙示録文学の終末論とそこに成立する『普遍史』の観念の中に自らの拠り所を見だす。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅 日本キリスト教団出版局、525頁)



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