シュヴァイツァー10 信仰義認論への挑戦(10)
(四)「十字架の贖罪」
アルベルト・シュヴァイツァーは、「十字架を人類の罪の贖いとして受け取ることを拒否し」(注①)、「人が自己犠牲と苦難において自らの使命を遂行するときにこそ、共に生きているイエスを体験できる」(注②)と人間の責任分担論を語り、彼はパウロの思想をルターのごとく信仰義認論(行いによるのではなく信仰によって義とされる)と捉えることに批判的で、「キリスト神秘主義」の視点からイエス・キリストを解明していったのである。
すなわち、「パウロはイエスを主体的に主なるキリストとして受けとめ、このキリストと神秘的に合一する体験こそがイエスを真に理解することだと考えた。」(注③)と言うのである。
このようにシュヴァイツァーは「自己犠牲」による「自らの使命」の遂行(「行い」)によってキリストと合一し得ると言う。合一とは、イエスが自己の内に「共に生きている」という意味である。
また、思索を強調する彼は、キリスト教の本質を次のように語っている。
「イエスによって告知され、思索によって理解されるキリスト教の本質は、われわれは愛によってのみ神との合一に到達できる、ということにある。神を生き生きと認識するとは、結局、神を愛の意志として身うちに体験することにほかならない。」(注④)と。
このように、愛による「神との合一」を強調するシュヴァイツァーは、受肉した神の子が人類の罪を償うために十字架につき、復活したというような、キリスト教が永いあいだ主張してきたことを繰り返すことはなかったのである。
「神の愛」を体験するとは、それがシュヴァイツァーの復活に対する理解でもあるのだが、彼によると、復活信仰とは「キリストの身体的な復活を信ずること」(注⑤)ではなく、イエスと「共にいる」、その時、すでに復活しているということなのである。客観的に霊の体による復活と捉えていないが。
既存の福音主義神学が「イエスの復活」を文字通り「肉体の復活」と信じることを強いるが、そのことからすれば、シュヴァイツァーの復活理解は現代人にとって理解し納得し得るものである。だがしかし、キリストが心の内に生きているといっても、それは内面的な個人的体験でしかない。復活を普遍的に万人の理解可能なものとするためには、復活とは何かを統一原理のごとく概念的に説かねばならない。そうでなければそれは復活という客観的事実を無視したシュヴァイツァーの主観的解釈に過ぎないということになる。
だが、彼の独創性と偉大さは、すでに明らかである。それは十字架の死から復活した「生きているイエス」に重心がシフトし、既存の神学的理解にこだわらず、自分の内なる声(本心)に従って問題を提起し解釈しているからである。
*「キリストの死は、いかにして罪のゆるしを可能にするのか。いかにしてキリストの死が人間に救いと永遠の命をもたらすのか。何からわれわれは救われるのであるか。神はキリストが死ぬべきことを意図したのか。キリストの死において神は苦しみを受けたのか。このような疑問に対して組織的に解答を与えようとしたとき、和解に関する種々の理論が生まれたのである。」(アラン・リチャードソン著『キリスト教教理史入門』、日本聖公会出版部、108頁)。
和解に関する代表的な教義には、賠償説、充足説、刑罰説、道徳説などがある。
注① 『二十世紀神学の形成者たち』(笠井恵二、新教出版社、23頁)②同40頁、③同19頁、④同51頁、⑤同42頁
カテゴリー: シュヴァイツァー「生命への畏敬」