バルト14 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(14)

「原理的批評」

イスラム教から、「神は唯一である。しかしキリスト教には三人の神がいる」と批判されている。

しかしバルトの三位一体論は啓示を根拠とし、時間の中に割って入る歴史的事実を強調する。この教説が他宗教から抜きん出たキリスト教の特徴であるとする。しかし伝統的な三位一体論と同様に、神とイエスと聖霊の関係と一神論の関係に関しては、やはり明解ではない。「位格の問題」「存在の仕方」「数字の一に還元」「神人協力説」など、いろいろな批判に反論しながら、巧みな言葉の言い回しによって、苦心して論じているが、どこか無理がある。「本質において同一である」とか、「神は父・子・聖霊の三位一体においてただひとりの神である」と認識しているので一神論からの離反でないというが、やはり鮮明でないといえよう。

 

三位一体論と存在論と救済論は関連し、整合性がなければならない。聖書には「神の定義」はないという神学者がいるが、聖書によると、神の似姿として、無形なる神の分立対象実体としてアダムとエバが創造されたと定義されている(創世記1・27)。同様に無形なる神の分立対象実体がイエスと聖霊(霊的実体)であると定義される。したがって「神―アダム―エバ」と「神―イエス―聖霊」の関係は類比関係である。この類比から三位一体論を再考察する必要性があるのではないか。

再臨主の「完全な真理」以外はすべて部分的真理である(コリントI13・10)。したがって「完全な真理」である再臨のキリストによって三位一体論の虚構が暴露されるのはバルト神学も例外ではなさそうである。

 

*既存の三位一体論が否定される場合、われわれはキリストと聖霊をどのように理解するのだろうか。無形なる神様の有形実体がイエスと聖霊であると統一原理は見る。イエス様と同様に、霊的実体である聖霊に人格があるのである。

*統一原理の三位一体論は、「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合成一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。」とあり、同様に、「イエスと聖霊は、神様を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(『原理講論』、267頁)と論述している。

統一原理は神様の分立実体対象がアダムとエバであり、イエス様と聖霊であるというのである。イエス様は「最後のアダム」(コリントI15・45)、あるいは「第二の人」(コリントI15・47)といわれている。すなわち、イエス様は人であって、イエス様の体は神様が臨在する神様の体であるという意味である。言い換えると、神様と一体化したイエス様は創造本然の堕落していない「真の人間」であるという意味である。

同様に、バルトはキリストにおいてはじめて、『ほんとうに』人間とは誰であるかが規定され、神が共にいます人間こそが「真の人間」であることが認識されると述べている。このように、バルトは真の人を真の神との類比において理解しているのである。

*真の神認識(三位一体の神)について、大島末男氏は次のように述べている。

「神の真理とは、三位一体の神の交わりの中で、父なる神と子なる神が相互を対象として認識し合うことを本質とする。この神の自己認識の出来事が、われわれの神認識の原型、本質、力なのである。それゆえにわれわれの神認識は、三位一体の神の自己認識の出来事に基づいて真理となるのである。」(『カール=バルト』大島末男、140頁、清水書院)

「父なる神と子なる神が相互を対象として認識し合う」とは統一原理が解明している「三対象目的」(『講論』54頁)、すなわち「神とイエスと聖霊」、「神とアダムとエバ」が相互を対象として認識し合うことであり、その中で、神と神の息子であるイエスの関係のことである。この神の自己認識は、神と神の娘であるエバ(聖霊の実体)との関係における自己認識に関しては論述していない。

「神の本体」の認識とは、神の対象であるイエスと聖霊、あるいはアダムとエバの関係を認識することに他ならない。三位一体とは神とイエスと聖霊が一体であるということであり、同様に、神とアダムとエバが三位一体であるということを意味する。ただし、アダムとエバは堕落して神を中心として三位一体とならなかった。

イエス様が子供から少年、そして成人として成長していかれたように、「神様も成長する」(『天聖経』1590頁、「宇宙の根本」)と捉えることができる。アダムとエバが成長して個性完成して結婚する時、アダムとエバの結婚式は神様の結婚式となるのである。子供が生まれれば、アダムとエバは父母となる。これは、すなわち、神様が「真の父母」になられたということを意味する。

このような視座から、神様(イエス様)の願いは「真の父母」になることであったと捉えることができる。したがって、「神の本体」とは「真の父母」であると認識することができるのである。このように、上述の文鮮明師の見解が、三位一体の神の自己認識の出来事に基づいて真理となるのである。

三位一体の神の本体とは「神様も家庭があり」、「家庭は核である」(『天聖経』2317頁、「真の家庭と家庭盟誓」)ということである。したがって、神様が同居できる家庭的価値を備えてこそ天国に入籍できるのである。



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