ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(5)
「原理的批評」
「神が命じればすなわち成り、神が要求すればすなわち生じる」と言うが、創造の原理、すなわち科学を無視してなされるのではない。神が創造した宇宙は法則によって運行している。また人間は科学の粋を集めたものと言われている。
したがって天地万物を創造した神は科学者であると言える。「神が世界を無から創造した」「創造思想はユダヤ教においては決して宇宙論的な理論などではなく」というが、確かにユダヤ教は歴史の神であって宇宙論的な理論はない。しかし上述の見解は天地創造の創世記一章に対する非科学的な解釈に過ぎない。
上述のような科学や哲学的な神観に対立した主張を見ると、ブルトマンの神学によって宗教や思想の対立から生じる戦争の危機を解消することはできないといえよう。このような対立をなくして世界平和を実現するために、「今」はギリシャ的な「ヘレニズム」とユダヤ教の「ヘブライズム」の相違を、ブルトマンのように認識して対決することではなく、対立から和解へと一歩前進して、ヘブライズムがヘレニズムを完全に吸収融合して世界を一つにするような、新しい思想が求められているのである。それがすなわち再臨のメシヤ思想なのである。
「宗教紛争の根本原因は本体論の曖昧さにある」(文鮮明師)
「新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一な一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時にこの神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにすることができなければなりません。
それだけではなくその本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと人間が守らなければならない規範も、結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです」(『天聖経』「真の神様」、79頁)
「神性はヘレニズム的な思想」
「神性という思想」はヘレニズム的な思想であるとブルトマンは次のように述べている。
「かくて神自身も神性という思想のもとには観察され得ない。そして神性を獲得するための聖化の禁欲は一切、イエスには当然全く異質でなければならない。というのは神性のようなものはイエスにとっては全く存在しない。これは特にヘレニズム的な思想である。神はイエスにとっては人間を決断の状況におく力、善の要請の中で人に出会う力、人の将来を規定する力なのである」(『イエス』105頁)
神性はヘレニズム的な思想であるという見解に対しては傾聴に値する。キリスト論の考察の一史料となる。
「イエスの死と復活」について
また、ブルトマンはイエスの死と復活について次のように述べている。
「ところで、イエスは自分の死と復活、及びその持つ救いの意味について語ってはいない。たしかに福音書の中では、このような内容をもったいくつかの言葉がイエスの口にいれられてはいるが、それらは教団の信仰からはじめて生まれたものである。しかもそれは原始教団から生まれたものではまったく一つもなく、ヘレニズムキリスト教から生まれたものである。何よりも、これらの言葉の中でも最も重要な贖いと晩餐の二つの言葉がそうである。………イエスが自分の死と復活について救いの事実として語ってはいないことは、ほとんど何の疑いもないであろう。もちろんそれは、他人がイエスの死と復活を救いの事実として語ることもできない、というようなことを意味するわけではない」(『イエス』224-225頁)。
このように、「イエスは自分の死と復活について救いの事実として語ってはいない」とブルトマンが言う時、われわれはシュヴァイツァーの『イエス小伝』を想起する。原理的に見れば、十字架の死と復活は第二摂理であって、神の第一次摂理である天国創建による霊肉の救済ではない。イスラエル民族がイエスをメシヤであると信じないので第一次摂理が不可能となったので、第二摂理である「霊的救済への摂理の転換」(ゲツセマネの祈りによる決断)であったと見るのである。
イエスの公生涯のほとんど最後に十字架への道が語られる。そうすると、公生涯は一体何であったのかという問題が生じる。周知のように、このような疑念はシュヴァイツァーによるものであった。
原理的に見れば、公生涯は第一次摂理を実現するメシヤ運動であった。この第一次摂理(神の国の創建)はイスラエル民族がメシヤであるイエスに対して「絶対服従」していれば実現していた。しかし、イスラエル民族のイエスに対する不信により、イエスを十字架の刑に追いやることで、地上天国の創建は不可能になった。それで神の国の実現は再臨に延長されたと見るのである。したがって、イエスは第一次摂理から見て、自分の死を救いと語られなかったのである。また再臨を約束された所以は、神の第一摂理である天国を実現するためなのである。
「シュヴァイツァー」
「神の国を問題にする聖句と、イエスのメシヤ意識を表言する聖句とは、実際、ともに徹頭徹尾終末論的性格を帯びているのである」(『イエス伝研究史』(上)、白水社、10頁)。
シュヴァイツァーはこのように考察した後で、「イエスは、その死後はじめて、イエスのよみがえりを信ずる信奉者たちの信仰にもとづき、信奉者たちにとってのメシヤとなったのである」(同上、10頁)と述べている。
そして「人々は、イエスのメシヤ性をあくまでもイエスの秘密とし、イエスの死後はじめてこの秘密が知らされる、という仕方でしか、処理できなかったのである」(同上、11頁)という。
このように「イエスのメシヤ性は、じつにイエスの復活にもとづいていたのであって、地上の活動にもとづくものではなかった」(『イエス小伝』、102頁)と断定している。
このシュヴァイツァーの『イエス伝研究史』と『イエス小伝』が、R・ブルトマンに大きな影響を与えていると言えよう。
ブルトマンは「イエスが赦しをもたらすのは、言葉においてであってそれ以外ではない」(『イエス』230頁)と述べて、彼の著『イエス』の最後を締めくくっている。
十字架の死が贖罪であるならイエスは「おし」でよかったことになる。これはイエスの言葉が救いをもたらすという主張と矛盾する。ブルトマンは「イエスにではなくケリュグマに関心を集中する」が、現在のブルトマン学派は「イエスにすでにケリュグマと同じ実存理解が含まれている」(『イエス』237頁、あとがき)とする。
「結婚や家庭の原理」について
ブルトマンは結婚や家庭の価値について次のように述べている。
「イエスは結婚や家族が人格性や共同体に対して持つ価値を語らない。成程結婚した者に対しては結婚の聖なること、解消すべからざることを語る(マタイ5・31、32、ルカ16・18)」(『イエス』107頁)。
ブルトマンは、イエスは結婚や家庭の価値を語らないと言うが、それは彼の主観的解釈である。したがって、そのすぐ後に結婚が聖なること、解消すべきでないことを述べざるを得ないのである。
イエスは「結婚」や「家庭の原理」を次のように語っている。
「創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・4~6)と。
ただし、イエスは独身男性であって、結婚して家庭をもたれなかったが、上述のように「家庭の原理」について語られ、その他に聖書には、新郎新婦の話や小羊の婚姻について記述されている。
カテゴリー: ブルトマン「現代から見た信仰と実存論的解釈学」