ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(6)

(三)「非神話化」(実存論的解釈)

 

ブルトマンの有名な非神話化は、新約聖書の使信に対する実存論的解釈から生まれてきた。この非神話化論は第二次世界大戦以降に、欧州の神学界において、最大の関心と論議を惹起した。

 

ブルトマンは彼の著『新約聖書と神話論』の中で、「新約聖書の世界像は、神話的世界像である。世界は三階層に編成されているものとみなされる」(ブルトマン著『新約聖書と神話論』、山岡喜久男訳、新教出版社、11頁)という。

 

この三階層の世界とは、神と天使のいる「天界」と、サタンと悪鬼の住む「下界」と、その中間に人間が生活している「大地」があるという神話的な世界像である。このような古い時代の神話的世界像を現代人は信じていない。それでブルトマンは使徒信条の信仰告白の意義はなくなったと次のように述べている。

 

「今日、信仰告白をするものが、この〔使徒信経の〕定式の根底になっている三階層の神話的世界像を、もし信じていないならば、『陰府にくだり』とか、あるいはまた『天にのぼり』ということを、今日告白するのはいかなる意義をもつであろうか」(『新約聖書と神話論』、16頁)と。

 

結論として、ブルトマンは空中にある「天」とか、地下にあるという「陰府」などは存在しない。したがって、文字通りに信じる信仰は終結したと述べている。

 

「いかなる成人も、神を天上にある存在として思い浮かべるものはないであろう。のみならず、もはやわれわれにとって、古い意味の『天』というものはまったく存在しないのである。おなじように、陰府、すなわちわれわれが立っている地表の下方なる神話的下界なるものも存在しない。これをもってキリストが天にのぼり、また陰府にくだったという物語は終結し、天の雲に乗って来るべき『人の子』の待望や、信者が空中に引き上げられて、キリストのもとにゆくという期待も終結した」(同上、17頁)。

 

これはキリスト教信仰から見れば、軽視できないブルトマン問題なのである。

 

歴史的批評的神学に関連して、ティリッヒは、彼の著『近代プロテスタント思想史』の中で、次のように述べている。

 

「特にアルバート・シュヴァイツァーの『イエス伝研究史』を読んで、私は、歴史的問題を真剣に取りあげない聖書主義の不適切さを納得した。この経験のゆえに、私はドイツ教会闘争の期間におけるバルトの影響にもかかわらず、歴史的批評的問題に沈黙したままという態度をとらなかった。バルトは、自己の学派の中でほとんど完全にこの問題を沈黙させた。私がアメリカにきた時、ここの神学者たちもこの問題について心を煩わしていなかった。

しかし真の問題は結局無視しえない。ブルトマンが生み出した爆発は………バルト派がおさえていた問題を表面にもたらしたという事実によるものであった。………爆発が起ったのは、ブルトマンが『新約聖書と神話論』という非神話化に関する論文を書いた時である。もしドイツの神学者たちが――他の神学者もそうであるが――新約聖書の解釈において歴史的研究を無視することができないということを初めから認識していたら、この衝撃はそんなにひどいものではなかったかもしれない」(『近代プロテスタント思想史』、P・ティリッヒ著、佐藤敏夫訳、新教出版社、306頁)。

 

ティリッヒは、1952年に「欧州の神学界の問題は、すでに、バルトからブルトマンに移行した」と講演した。そして、非神話化の議論は今日までより一層の進展と深化を見せ、神学界や哲学界に広汎で深刻な影響を与え続けているのである(ブルトマン著『原始キリスト教』、米倉 充訳、261頁、「解題」より)。

 

原理的に見れば、非神話化は統一原理の終末論、復活論、再臨論を受容可能にする洗礼ヨハネ的使命を担った神学思想であると言えるであろう。

 

この三つの階層とは天界、大地、下界という古代の世界観である。また、そこに住む人間は超自然的な諸力によって支配されていると笠井恵二氏は次のように要約している。

 

「新約聖書の世界は神と天使のいる天界とサタンと悪鬼の住む下界の中間に人間のいる大地がある、という神話的な世界像である。人間の思惟や行動は超自然的な諸力によって支配される。しかしこの神話的世界像に対応するものが救済の出来事の叙述なのであり、これこそが新約聖書の宣教の本来の内容をなすものである。神話的な世界像は現代人には過去のものであるから、彼らにはこのような神話論的な説話をそのまま信じることはできないし、すべきでもない。大切なことは、新約聖書の宣教は、神話的な世界像に依存しない真理をもっているか否かである」(『二十世紀神学の形成者たち』、笠井恵二著、新教出版社、103頁)。

 

現代人の人間観は内的統一を自己に帰し、自己を統一的存在と見ているのであって、人間の思惟や行動は、サタンや悪霊などの超自然的な諸力によって支配されているのではないと見るのである。

 

ちなみにティリッヒは彼の主著『組織神学』で自律と他律について論述し、堕落して神から分離した実存的制約下で、分裂している啓蒙主義の自律と正統神学の他律は、ともに「理性の深層」(神)に根差さないので、相互に争い、相互に破壊し合う。この両者を再統一するのは啓示(神律=キリスト)によるという。

 

ブルトマンによると、神話的な世界像は本来キリスト教独自のものではなく、単なる過ぎ去った科学以前の世界像に過ぎないのである。それで、彼は新約聖書の神話の「非神話化」を主張し、科学時代に生きる人間に、新約聖書の神話の受容を強要することは、「知性を犠牲」にし、「信仰を業(わざ)にまで低めることを意味するであろう」(『新約聖書と神話論』、16頁)と言うのである。

 

したがって、ブルトマンは科学以前の聖書の世界観を「非神話化」し、それを現代の言語で再解釈すべきだと次のように主張するのである。

「新約聖書の神話論を問題にする場合にも、また、その問は、その客観化する表象内容へと向けられるべきではなくて、この表象のうちに現れている実存理解へと向けられるべきである。この実存理解の真理性が問題であり、そして新約聖書の表象的世界に束縛される必要のない信仰こそ、その真理性を肯定するのである」(ブルトマン著『新約聖書と神話論』山岡喜久男訳、新教出版社、29頁)。

 

このように、新約聖書の世界観(三階層)までも信じることではなく、「神話は、宇宙論的でなく、人間学的に、むしろ実存論的に解釈されること」(同上、27頁)であると言うのである。そして新約聖書は「客観的な世界像を与えることには存しない」(同上、27頁)と指摘する。つまり神話的世界像の排除である。

 

われわれは聖書の世界観を古代の宇宙論としてではなく、聖書でいう「天」とは、「地」とは、とその意味を分析して、それらを概念的に明確化すべきだと主張し、「終末」や「復活」、そして「再臨」に関する統一原理の解釈を、見事な「非神話化」として、ここで想起するのである。

 

しかし、ブルトマンは「神話的世界像をば、全体として採用するか、あるいはまた、破棄する以外に方法はない」(同上、26頁)と二者択一を迫り、「非神話化」することを説く。

 

肯定的に評価すれば、ブルトマンの非神話化論は統一原理の終末論、復活論、再臨論は新しい見事な非神話化論であると欧州の神学界や哲学界において統一原理を受容可能にする洗礼ヨハネ的使命を担った神学思想であるということができるであろう。

 

否定面は神の本質や属性など普遍的真理をイエスは語らなかったという主張にある。ブルトマンが否定するのは既存の観念論の哲学体系や神学であるが、統一原理の創造原理も同類と見做される点は注視しなければならない。

 

 

「イエスの先在性」について

 

ヨハネ福音書にイエスの先在性について神話的に語られているが、ブルトマンは彼の名著『新約聖書神学』の中で次のように述べている。

 

「イエスについて、人となった先在の神の子として、神話的形式において語っているこのような記述は、どの程度まで実際に神話論的意味に理解されるべきなのであろうか。それはもっと詳細な解釈によって、初めて明らかにされるであろう。」(『新約聖書神学』Ⅱ、ブルトマン、川端純四郎訳、新教出版社、280-281頁)

 

 

統一原理の中にある非神話化

 

われわれはヨハネ福音書のイエスの先在性に対する非神話化をブルトマンに求めるのであるが、この問題は解かれていない。「詳細な解釈」は「明らかにされるであろう」という指摘にとどまる。

 

イエスの先在性とは、イエスが「アブラハムの生れる前からわたしはいた」(ヨハネ8・58)とか、「世が造られる前に、わたしが(神の)みそばで持っていた栄光」(ヨハネ17・5)とか、「初めに神と共にあった」、「世は彼によってできた」(ヨハネ1・9)と聖書に記述されているこの問題である。

 

この問題は、統一原理(『原理講論』)で次のように解明されている。

 

「世は彼によってできた」とは、ロゴスとしての完成人間、すなわち彼(アダムあるいは第二アダムであるイエス)を“標本”として、「人間は神の形象的な実体対象、万物は象徴的な実体対象」(『原理講論』、48頁)として創造されたという意味である。

 

上述のごとく、人間は無形なる神の形象的な実体対象である。すなわち「神の像」(神の似姿)として創造された。それに対して万物は無形なる神の「象徴的な実体対象」として創造されたのである。言い換えると、万物は人間をモデルとして形象的に創造された。したがって神から見れば万物は象徴的な存在である。しかし人間から見れば万物は形象的な存在であるという意味なのである。

 

「世が造られる前に、わたしが(神の)みそばで持っていた栄光」とあるごとく、イエスは世がつくられる前に存在していたというのである。伝統的神学はこの聖句を字義的に解釈するが、その原理的な意味は被造物を創造する前に、神は構想理想(設計図)を持ち、神はご自身の似姿としてアダム(第二アダムであるイエス)を「言」によってイメージされ、すなわちロゴスによって設計され、そのごとくに造られたという意味なのである。それで、イエス(アダム)は「世が造られる前に」存在していたと啓示されているのである。言い換えると、イエスは無形なる神の実体として顕現されたと解釈するのである。しかしイエスは神自身ではない。

 

「世は彼によってできた」という「 彼」とは第二アダムであるイエスのことである。第一アダムは成長過程で堕落したので神の構想理想は具現化しなかった。それで、言による構想理想を具現化させたのが第二アダムであるイエスである。すなわちロゴスの受肉、言による「理想の完成」(個性完成)である。先に解説したごとく、イエス(アダム)は天地を創造する前に、神の構想理想の中に言として初めからあったのである。それで「言は初めに神と共にあった」(ヨハネ1・1)と啓示されているのである。しかし先に指摘したように、イエスは神自身ではない。

 

ところで、聖書に次のように記述されている。

「どうして人々はキリストをダビデの子だというのか。………このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」(ルカ20・41-44)

 

この聖句に対して統一原理は次のように解明している。

「イエスは血統的に見れば、アブラハムの子孫であるが、彼は全人類を重生させる人間祖先として来られたので、復帰摂理の立場から見れば、アブラハムの先祖になる」(『原理講論』「キリスト論」、259頁)。

 

このように、伝統神学が解釈するように、イエスが神御自身であるという意味から言われたのではないのである。

 

同じプロテスタントの信仰義認論から見たバルトとブルトマンとの間に相違がある。バルトはイエスの啓示を神側から、ブルトマンは人間側から解釈しているのである。

統一原理は主体(神)と対象(人間)の授受法からすべての使信を解釈する。聖書の使信を正しく解釈できる人は、罪人(堕落人間)ではなく、第三アダムである再臨のメシヤである。

 

聖書にイエスは「最後のアダム」(コリントⅠ、15・45)とある。したがって文鮮明師を第三アダムであると言えないのではないかという疑念がある。しかしイエスはモーセとエリヤが霊界にいるのを知りながら(ルカ9・30)、個体の違う洗礼ヨハネをエリヤだと言われた(マタイ17・12)。それは洗礼ヨハネがエリヤの復活体であるという意味である。

 

同様に文鮮明師とイエスは、個体は違うが文鮮明師は「最後のアダム」であるイエスの復活体であると言えるのである。またイエスを「第二の人」(コリントⅠ、15・47)とあるので「第三の人」すなわち「第三アダム」とも言える。

 



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