ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(7)

「理性と主体性(実存)」

 

ところで、理性に対するブルトマンの理解は福音主義のそれと異なるところがある。

ブルトマンは、プロテスタント的に人間の罪は道徳的なあやまちではなく自己主張にあるという。そして、神は人間に根源的な問いをつきつける。問いに対する決断(信仰)によって神に召されているという。

笠井恵二氏は、次のようにブルトマンの実存の理解について述べている。

 

「人間の認識能力に対する疑いでもなければ、理性の削減でもない。神を非合理的なものとすることは、神について正しく語ることではない。むしろ、理性をどれほど重視してもしすぎることはない。理性は、理性としての道を最後までつき進むとき、人間に自己の意味を深刻に問うことをさせるのである」(『ブルトマン』、笠井恵二著、清水書院、42頁)

 

このようにブルトマンは、神は神話的世界像のような「非合理なもの」ではないと言い、理性を肯定する。そして、「非神話化」を主張する彼であるが、理性を重視することは、ルター以来の〝信仰〟を根拠とする福音主義神学と矛盾しないであろうか。

 

ブルトマンの神学によると、信仰と理性の関係は相補的であり、「彼はルター派の信仰に立つ者として、聖書の伝える使信をなによりも重んずる。しかしその信仰を深めるということは、理性を犠牲にしてあたまからすべてを信じこむことにではなく、むしろ人間の知性の価値を重視し、主体的に『理解する』ということにある」(同上、『ブルトマン』72頁)と言う。

 

キルケゴールやハイデッガーの影響を受けた彼は、主体的に実存的に歴史とかかわり、イエスの言葉と主体的に対決することを迫るのである。これがブルトマンの実存論的な解釈なのである。

 

だが、「理性」や「人間の知性の価値」を少しでも認めることは、それ自体が、ルターの説く「信仰義認論」に対する痛烈な批判であり、プロテスタントにおける既存の信仰観を破壊するに十分なのである。

この点は、信仰と理性を対立的に捉える福音主義神学から見れば、無視し得ない〝ブルトマン問題〟なのである。

 

「ブルトマンの立場は、バルトと違って、啓蒙主義以来の体験の神学の線上に立っていると言うことができるであろう。ブルトマンの思想においては、イエスはわれわれの体験を顧慮しないで、向う側から与えられる存在ではない。イエスとわれわれとの関係は、われわれ生の体験から生まれてくるところの実存的な質問を軸として展開する」(『キリスト教概論』、浅野順一編、創文社、284-285頁)

 

一方的に、「向こう側から与えられる存在ではない」という点に、現代神学としてのブルトマンの実存論的解釈の意義を認め、われわれはそこに注目する。

 

ルターは、エラスムスの「自由意志論」を批判した彼の名著『奴隷的意志』の中で、「理性は神のあらゆる言やわざを取り扱うことには盲目的で、つんぼで、愚かで、不敬虔で、瀆神的である」(『世界の名著18 ルター』松田智雄編、中央公論社、215頁)と言っている。

 

このようにルターは、理性は神の言葉を扱うのに「盲目的」であると断言する。

 

ルターは、人間側の要素である理性を徹底的に否定し、神の一方的な「恵み」のみを強調する。この信仰義認論はこれで、宗教改革という歴史的状況下で、神の摂理と一致したのであるが、しかしそこにブルトマンの言う「神の言葉」を理解する「自己の実存的な在り方」(諸学の備え)や「関心」(神への問い)や「かかわり」(出会い)などの人間の主体性や理性をうんぬんする余地はない。

 

すなわち、救いにおける人間的な力をルターは一切認めないのである。だが、啓蒙主義を経験した以後の人間であるブルトマンは、理性を否定し、近代精神以前の神学思想に逆戻りすることはできないのである。

 

以上のように、現代の歴史的状況を勘案するとき、ブルトマンは聖書の使信(ケリュグマ――問いかけ、そして約束し、裁き、恵みを与える神の言葉)の理解において、主体的に実存的に「関わる」ことを強調し、理性や人間の側の知性の価値を認めざるを得なかったのである。そして、ルターの時代と歴史的状況が異なった時代に、キリスト教の信仰に基づく、新しい聖書解釈の必要性を説こうとしたのである。

 

ティリッヒは、近代精神の諸原理が「神学に対する批判として十分に確立されたのは、十八世紀になって初めてであった」(『近代プロテスタント思想史』ティリッヒ著、佐藤敏夫訳、新教出版社、5頁 参照)と述べている。

 

ブルトマンもこの神学批判として確立された自由主義神学の立場を勘案する時、過去の時代の迷信(神話)をそのまま容認することができなかったのである。

 

「非神話化に対する賛否両論」

 

ブルトマンの非神話化に対して、次のような批判がある。

 

「非神話化は、現代の世界観を聖書とキリスト教の使信に関する解釈の基準としている。」「現代の世界観と相いれない場合は、なに一つ語れないことになるのではないか」「非神話化は、キリスト教信仰を歴史性のない実存哲学に変化させてしまうものである。」と。

 

これに対して、ブルトマンは次のように反論する。

「非神話化が、現在の世界観を一つの基準としていることは、たしかである。非神話化を行うことは、聖書やキリスト教の使信を全体として、拒否することではなく、聖書の世界観を拒否することである」(ブルトマン著『キリストと神話』山岡喜久男・小黒薫訳、43頁)。

 

また、聖書自体が非神話化していると、次のように反論した。

 

いつまでたっても再臨しないので失望と疑いをひきおこすにいたったので、ヨハネは終末論を現在化したというのである。つまり「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている」(ヨハネ3・18)と。

このように、終末は時間の終局という意味での未来に展開されるのではなく、現在的なものとして理解されるように非神話化されたとブルトマンはいうのである。

 

「一方パウロはこれと並んで依然として、キリストの再臨、死者の甦えり、最後の審判の古い黙示文学的希望像を固執しているが、ヨハネは、救拯を徹底的に、現在の過程として叙述している」(ブルトマン著『原始キリスト教』、米倉充訳、新教出版社、247頁)と。

 

「歴史的状況と信仰」

 

保守的な信仰者には、ブルトマンの「非神話化は教会の信仰と宣教の基礎と内容に対する壊滅的な攻撃である」(『ブルトマン』笠井恵二著、清水書院、140頁)と受けとめられた。

 

しかし、ゴーガルテンはブルトマンを擁護して、「(非神話化の)意図するところは、キリスト教信仰とその本来の本質を喚起することにある」(同上、141頁)と言った。

 

このように彼の神学は、「破壊」と「本質の喚起」の両面がある。ブルトマンは、彼の新約学の集大成である『新約聖書神学』(1948~53年)において、「キリスト教の規範的教義学というようなものは存在しない」(『新約聖書神学Ⅲ』、川端純四郎訳、新教出版社、64頁、191頁)とまで言い切る。

 

また、「諸時代を通じて神学の連続性は、かつて一度形成された命題を固守するところにあるのではなく、信仰が常に新しい歴史的状況を信仰の根源から理解しつつ克服していく、その絶えざる活動性にこそある」(同上、191~192頁)という。

 

このように、時代の変化と発展に照応した信仰による解釈と神学のあり方を説き、古い命題に固守すべきでないと力説しているのである。

 

以上のごとく、ブルトマンの福音書研究の「様式史的方法」や「非神話化」(実存論的解釈学)は、完全な真理(キリスト)に対して新しい角度から光が投げかけられており、そこに、現代社会に生きる洗礼ヨハネとしての天的使命を彼が持っていたことを、われわれは知るのである。

 



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