ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(8)

(四)「バルトのブルトマン批判」について

 

(1)「先行的理解」について

 

周知のごとく、バルトにとって、神学の大きな主題とは、それは啓蒙主義との対決であり、西欧文化の領域に確立された理性と経験に基づく新しい世界像や人間像、そして人間理性による聖書解釈に対して、それらと、いかに対決するか、ということにあった。

 

バルトはブルトマンの「非神話化」=「実存論的・人間学的解釈」に、鋭敏に、それと感じ、次のように問いを発し対決に挑む。

 

「新約聖書の理解についての私の問いは、次のようなものである。基準的なものとして確定された不動の表象という前提、つまり読者が、可能であり、正当であり、重要であると考えることが『でき』、したがって理解することが『できる』ことについての『鋳型にはめられた心像』という前提の下で、すなわち規準とされた『先行的理解』という前提の下で、新約聖書本文の真の理解というものがありうるのか?そこでは、新約聖書のケーリュグマの理解において、そこで証言されている神の言葉の信仰的理解が問題であるというのに!」(『カール・バルト著作集3』新教出版社、255頁、「ルドルフ・ブルトマン」より)。

 

ブルトマンの自己理解(前理解)に対してバルトの信仰的理解とは、人間の理性や力、人間側からの努力や行いの一切を否定する信仰義認のそれである。過去のそれではなく啓蒙主義以来の理性や経験や人間の主体性を批判し克服せんとする新しいそれである。すなわち、宗教改革者の伝統を受け継いだ新しい信仰的理解なのである。

 

さて、バルトはまた次のように「先行的理解」について述べ、ブルトマンを批判する。

 

「ある本文の自己開示を心を開いて期待し、忍耐づよく追求するかわりに――その理解可能性あるいは理解不可能性についての基準と限界に関する先行的決断をすでに行った上で、この本文に接近するという場合、はたしてわれわれはその本文を古い時代から、または新しい時代から理解するといったことができるのだろうか?………したがってそれを読んでしまう以前にすでに、その本文において、どこまでその本質的内容ではなくて、ただその歴史的表象内容とだけかかわるのかを知っていると考えるとき、われわれはその本文が語り始めるより前にその口を封じてしまうことにはならないのかどうか?」(同上、236頁)と。

 

バルトが指摘する「先行的理解」(不動の表象、鋳型にはめられた心像)とは「前期のマルティン・ハイデッガーの実存主義」の哲学のことである。これが、つまり、ブルトマンが新約聖書に向かわねばならなくなった時、すでに持っていなければならない「先行的理解」と基準であり、しかもそれは「最高の無謬性で支配する」原理の高さまで高められた基準なのだとバルトは鋭く批判する。

そして、それは「新約聖書の本文にとっては最高に異質的な基準ではないか?」と指摘する。さらにブルトマンの思考の本質はこれであると次のように暴露する。

 

「アウグスティヌスは新プラトン主義的に、トマスはアリストテレス的に、F・C・バウルとビーダーマンはヘーゲル主義的に語ったように、いまやブルトマンはハイデッガー的に語るのである」(『カール・バルト著作集3』252頁、「ルドルフ・ブルトマン」より)と。

 

「彼がそれを用いるのは、ただ道具としてのかぎりである」というが、「一つの哲学的道具に身をあずけてしまうといったことができるかどうかは、まったく別の問題である」(同上、252頁)。

 

それにしても、「偶然に、すべての(あるいは、ほとんどすべての)錠を開けうる一つの鍵となった道具というのは、まったく世にもめずらしい道具である」(同上、252頁)と。

 

以上のように、バルトは鋭くブルトマンの思考の本質を暴露し揶揄する。さらにバルトは彼の信仰姿勢を問題とし、キリストへの信仰的理解(キリスト論的集中)にブルトマンを覚醒させようと次のように述べている。

 

「ブルトマンの解釈を、最高の無謬性で支配している基準、つまり彼の『神話』の概念は、新約聖書の本文にとっては最高に異質的な基準ではないのか?その標準が、ブルトマンが述べた現代の教養の世界に周知のものであっても、あるいはそうでなくても――まさにそれを適用することによって、何が新約聖書の本文において表象にすぎず、主題でないものなのかを勝手にきめてよいのだろうか?だがそもそも、聖書注解者は、先ず何よりも先に、だれに対して誠実と真実をささげるべきなのか?だれに対して責任的応答(verantwortlich)をなすべきであるのか?彼と彼の同時代の人たちの思考の前提に対してか?」(『カール・バルト著作集3』、「ルドルフ・ブルトマン」――彼を理解するための、一つの試み、236~237頁)

 

このように、バルト神学の本質は、すぐれてその論争的言辞がキリスト論的集中として表れる。

 

ところで、バルトは「先行的理解」という実存論的解釈の文言の真相を暴露し、ブルトマンを批判するが、バルト自身もそうなのではないかと指摘できる。

 

バルトは、あらかじめ信仰的理解(不動の表象、心像)という人間の理性や人間学などを否定する「信仰義認論の絶対的原理」で武装し、それに身をゆだね、理解可能性、あるいは理解不可能性についての基準や限界に関して、すでに先行的決断を行った上で、その前提の下で、聖書の本文に接しているのではないか。

 

それでは「本文が語り始めるより前にその口を封じてしまうことにはならないのか?」と逆にバルトに反問したくなる。自己の内部の観念(信仰観)を絶対化し、他の神学者も指摘するように、バルトの異端審問官のような態度には賛成しかねる。

 

「先行的理解」や「前理解」という言葉でもって揶揄して批判し、人間の知性や理性による研究の努力を否定することは問題であると言うのである。

 

バルトの指摘はなるほどと思わせるが、だからといって彼の信仰義認論に賛同しかねる。

上述のように、われわれはブルトマンの側に立って既に反論しているが、バルトも信仰義認という『鋳型にはめられた心像』の下で、それを基準に「先行的理解」をなし、それを前提として、本文に接しているのではないか?

 

このようにブルトマンに向けられた批判と同じ批判をバルトにも向けることができるのである。

問題なのは、現代に対応できない神話的な救済の中心的出来事に対する既成の古い観念や概念や先入観をどうするのかという問題なのである。

ブルトマンは「非神話化」(実存論的解釈)という概念で、それらを再解釈して現代人に聖書の使信を受容可能なものにしようとしたのである。

 

ブルトマン著『原始キリスト教』の訳者、米倉充氏は「非神話化」について、次のように述べている。

 

「非神話化論とは、本来キリスト教信仰そのもの、聖書自体の内的要求に由来するものであり、逆説的には、それがキリスト教信仰の本質に深く根ざしていればこそ、非神話化論が現代的重要性を持っているとも言うことができるのである」(ブルトマン著『原始キリスト教』、米倉充訳、現代神学双書、新教出版社、262頁)と。

 

「内的要求に由来するもの」とは、ブルトマンによると、「新約聖書の内部において、非神話化がここかしこに、すでに、行われているという事実が加わる」ということである(ブルトマン著『新約聖書と神話論』山岡喜久男訳、新教出版社、31頁)。統一原理が出現する必然性がここにあるといえよう。

 

すでに論述したように、ブルトマンはバルトと同様に「本来キリスト信仰そのもの」、すなわち信仰義認の観点で本文に接しているのである。ただし、一方は神の側(和解)から、他方は人間の側(実存)からである。

 



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