ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(8)

(2)「有限的なものと無限的なもの」

 

「非存在によって限界づけられた存在は有限性である。非存在は存在の『いまだ』と存在の『すでに』として現われる。それは存在するものを一定の終末(finis)をもって脅かす。このことは存在自体――これは『もの』ではない――以外のすべてのものに妥当する。存在の力としての存在自体には始めと終りとがない。そうでないならばそれは非存在から生じたことになる。しかし非存在は、存在との関係を除いては文字通り無である。存在は語そのものが示しているように、存在論的妥当性において非存在に先行する。存在は始めのない始めであり、終わりのない終りである。それはそれ自身の始めであり終末であり、存在するあらゆるものの根源的力である。しかし、存在の力に関与するものはすべて非存在と『混合』している。それは非存在から出て非存在へと向かう過程にある存在である。それは有限的である」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、239頁)

 

ここで、有限性について原理的に反論しておきたい。

 

原理的見解では、神によって創造された被造物は有限ではない。天体や原子の円運動は永遠である。植物(種子)も生物も繁殖を通して神に似て永遠性を保持している。人間は子供を産むことによって継代(螺旋運動)を保ち、死によって人間の肉体は土にかえるが、霊人体は霊界で永生する(コリントⅠ、15・44)。人間は有限ではない。

 

生物も個体は死によって消滅するが、繁殖によって自己の種を保存し発展させ、代から代へと螺旋運動によって永遠性を保つのである。このように、愛による繁殖活動によって、人間も万物も神の永遠性に似ている。

 

ティリッヒは、「聖書記事はキリストと呼ばれた彼における死ななければならない深刻な不安を示している」(同、245頁)というが、イエスは霊界で霊の体となって生きておられるのである。

「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26・39)という祈りは死に対する人間的な弱さからそのように祈られたのではない。

 

イスラエル民族が、メシヤとしてのイエスを不信している状況下で、「この杯」すなわち第二摂理である十字架の死による救い(贖罪)ではなく、生きて第一摂理である「神のみ旨」(神の国)を成就せんがために、その願いから、もう一度、第一摂理にチャレンジさせてくださいと、そのように神(父)に祈られたのである、と解釈すべきなのである。

 

ティリッヒは、「有限性は人間の運命である」という。「死ななければならない不安がある。………非存在は『内部から』経験される」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、244頁)と。しかし「それは疎外性と罪性とから全く別個に存在の被造性に属している」(同)という。

 

正統主義は、人間が死ぬようになったのは罪を犯したからであると信じている。しかしティリッヒは、死は「罪性や堕落と全く別個」であると見ている。この見解は首肯できる。

 

不安は確かに有限性を根拠としている。有限性の主張は、「被造物は永遠ではない、人間は必ず死ぬ」という見解からくる。しかし人間の肉体は死ぬが、「霊のからだ」は霊界で永生するのである。このことを知っていれば、死からくる不安は解消する。

 

自分の死を無と考え、肉親や友人の死を永別と考えるのは死後の世界があることを知らない人間の悲劇性である。人間は堕落して神から分離し、霊界があること、霊の体があることが分からなくなっているのである。聖書には「肉の体があるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリントⅠ、15・44)と記述されている。

 

偉大なる神学者に対してこのようなことも知らないのかといいたいのだが、ティリッヒは実存的制約下における生に関して「曖昧」であると率直に説いているので敬意を表し、人間の有限性についての彼の教説に耳を傾けたいと思うのである。

統一原理と出合うことがなかったならば、われわれは今でも霊界や霊のからだがあることを知らずにいたかもしれないのである。

 

(D)「人間の有限性と神問題」

 

ティリッヒは先の有限性の問題に続いて、下記の問題を論述している。

 

(1)「神問題の必然性といわゆる宇宙論的論証」について

 

ティリッヒによると「不安として経験される非存在の脅威」が「存在への問いとなる」と次のように述べている。

 

「神の問題が問われうるのは、問題を問う行為自体の中に無制約的要素があるからである。神の問題が問われざるをえないのは、不安として経験される非存在の脅威が、非存在を克服する存在への問いと、不安を克服する勇気への問いへと人を駆り立てるからである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、264頁)

 

ところで、ティリッヒは神の宇宙論的証明に関して、カントの批判を取り上げて次のように不可能であると述べている。

 

「宇宙論的論証の第一形式は有限性の範疇的構造によって規定されている。それは因果の無限の連鎖から発して、第一原因があるという結論に達し、また、すべての実体の偶然性から発して、必然的な実体が存在すると結論する。しかし原因と実体は有限性の範疇である、『第一原因』は因果の連鎖の初めをなす一存在者についての叙述ではなくて、問題の実体化である。このような存在者はそれ自体因果連鎖の一部であり、再び因果の問題を提起するであろう」(同、264~265頁)

 

上述の見解は、カントが『純粋理性批判』で論述している問題で、第一原因の原因は何かと問うなら無限に因果が続くので、カントは因果律によって第一原因を論証することはできないというのである。このカントの主張に対する反論は後で論述する。

 

ティリッヒは目的論的論証に関しても、カントの批判に従い次のように述べる。

 

「宇宙論的論証が存在の根拠の問題を定形化するのと同じように、目的論的論証は、意味の根拠の問題を定形化する。………『論証』の無能性、神問題に答えることの不可能性を暴露することである。それらの論証は、神問題が有限的存在の構造の中に含まれていることを示すことによって、存在論的分析をある結論にまでもたらす。この機能を果たすことによって、それらの論証は伝統的自然神学をある面では受容すると共にある面では拒否し、そして理性を啓示へと向かわせる」(同、266頁)

 

このように目的論的証明(自然神学)についても、肯定と否定を弁証法的に論述して「理性を啓示へと向かわせる」と述べている。結局、人間を神問題へと駆り立てるというのである。

結論として、問いに対する答えは啓示(キリスト)であるというのである。

 



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