ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(9)

(四)神の実在

 

(A)「神」の意味

 

(1)「現象学的記述」

 

神とは何か。現象学の視座からみると、「『神』は人間の有限性に含まれている問題に対する答えである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、268頁)という。

 

ティリッヒによると、「『究極的に関心する』という語句は、………実在の領域にせよ、想像の領域にせよ、具体的に出会わないものには関心がよせられ得ない。普遍的なものは、それが具体的経験を代表する力を通してのみ初めて究極的関心の事柄となり得るのである。ものはそれが具体的であればあるほど、ますますそれに対する多くの関心が可能になる」(同、268頁)というのである。

 

また、「究極的関心は予備的ないかなる有限的具体的関心も超越していなければならない。それは有限性に含まれた問いに対する答えとなるために有限性の全域を超越していなければならない。しかし有限なるものを超越する際、宗教的関心は一つの存在対存在の関係の具体性を失う。それは単に絶対的となるのみならず抽象的となり、具体的要素の反撥(はんぱつ)を誘発する傾向にある。これは神観念における不可避的な内的緊張である。宗教的関心の具体性と究極性との衝突は、神が経験されまたこの経験が表現される場合には、原始的祈祷から最も複雑な神学組織に至るまで常に現実である。これは、宗教史の原動力の理解への鍵であり、また最も初期の祭司的知恵から三一神論の最も精錬された論議に至るまでの、あらゆる神論の根本問題である」(同、268-269頁)というのである。

 

このように、神観念の不可避的な内的緊張関係、すなわち究極的関心に関する「具体性と究極性との衝突」が叙述されるのである。

 

また、神聖に関して次のように述べている。

 

「神々の領域は聖の領域である。」「神聖は経験される現象である。」「神聖は宗教の本質理解のために非常に大切な認識的『入口』である」「神聖の範疇(はんちゅう)を含まない神論は単に神聖でないのみならず真理でない。」(同、273頁)と。

 

(2)「類型学的考察」(神論の統合)

 

ティリッヒは、「神観念を理解するためには、神観念の歴史を観察しなければならない。」「神の意味を終極啓示の光に照らして明白にしまた解釈しなければならない」(同、277頁)という。

 

a 「多神教の諸類型」

 

ティリッヒは、神観の歴史として「多神教の諸類型」を述べる(同、281-285頁)。

彼は、宗教的関心の具体性と究極性は、それぞれ多神教と一神教を生み、両者の均衡は三一神(三位一体の神)を生むと述べている。下記の説明は、大島末男氏の要約に基づくものである。

 

多神教は、多数を超えて統一する究極的なものを欠くので、神的な諸力が、具体的状況において各自の究極性を主張するので対立し、統一に対する脅威となる。他方、ロマン主義と汎神論は、この多神教の普遍的類型の末裔であり、充分な具体性にもまた充分な究極性にも到達しえない。神話の神々は、人間の具体的関心に対する宗教的創造力によって神的な諸力の人格化を促す。神々の人格化は人間が自分より以下のものの、非人格的なものに対して究極的関心を抱けないことによる。二元論的類型の神話は善悪二元論的な歴史解釈を生むが、一神論は神観念の究極性の強調により神話を破壊する(『ティリッヒ』大島末男著、140頁を参照)。

 

大島末男氏は、いろいろな神観について、さらに次のごとく解説している。

 

「人格神は人間が抱く究極的関心の具体性に基づくが、神は人格以下でも超人格的でもありうる。動物神は、人間の究極的関心を、動物が所有する超人的なエネルギーによって表現する。反面、人間が平伏(ひれふ)し祈る神は究極的な神なので、君主的類型の一神教を生み、さらに神々も服従する宿命は抽象的類型の一神教を生む。二元論は、神の中の破壊性と建設性、善と悪を区別することにより、神の秘義的性格を克服するが、マニ教では究極的関心を表現する善神は悪神に勝るので、悪神の力は限定される。またゾロアスター教では究極的原理である善は、善と悪を包摂するので、二元論的一神教が成立し、キリスト教の三位一体論を予示する」(『ティリッヒ』大島末男著、140-141頁)と。

 

b 「一神教の諸類型」

 

「一神教と多神教の境界に立つ君主的一神教の天帝は、神々を支配するギリシアの神ゼウス、また天使達や諸霊を支配する万軍の主エホバによって例証される。さらにインドの神秘主義的一神教は、具体的な神々を超越する究極的な深淵によって例証されるが、具体性を抑圧できず、多神教に対して開かれている。他方、排他的一神教は、具体性と究極性を統合するイスラエルの預言者の宗教の系譜に属す。イスラエルの神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神といわれるように具体的な神であるが、普遍的正義によって自己を批判し、利己的な有限的存在者の魔的要求を排除する。しかし究極の関心は具体的要素を必要とするので、キリスト教の神は三一神となる」(『ティリッヒ』大島末男著、141頁)

 

究極の関心は、「具体的要素を必要とするので、キリスト教の神は三一神となる」と論述されている。

また、聖書には究極的関心(神)に関して父と子と聖霊に関する具体的記述があるので、バルトは神を「三位一体の神」というのである。もし、具体的存在の記述がなければ「三位一体の神」は存在しないという。ティリッヒは、すべての神論は「三位一体の神」に収斂(しゅうれん)されると述べている

 

大島末男氏は、「諸宗教の神論(啓示の答え)の現象学的考察を通して、キリスト教の三一神は具体性と究極性を統合するので、自己矛盾に悩む実存の問いに対する答えを形成する事実を示す。象徴論の視座からみれば、ティリッヒが諸宗教の神論を統合する最終的で最高の形式としてキリスト教の三位一体論を指示する方法論………を形成する」(同、141-142頁)と述べている。

 

多神教から一神教までいろいろな宗教のいろいろな神観があるが、ティリッヒは結局のところ、すべての神観は「三位一体の神」に統一されるというのである。

 

「新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一の一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時に、この神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにできなければなりません。

それだけではなく、その本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと、人間が守らなければならない規範も、結局、この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。」(八大教材・教本『天聖経』「真の神様」、79頁)

 

c 「宗教紛争の根本原因は本体論の曖昧さにある」(文鮮明師)

 

原理的な見解では、ティリッヒの存在論的な神観から、さらに発展させて、すなわち「神とアダムとエバ」の三位一体論と「神とイエスと聖霊」の三位一体論の類比から、「アダムとエバ」、「イエスと聖霊」は〝人類の父母〟であるといえるのである。

アダムとエバは堕落して〝偽りの父母〟になったが、イエスと聖霊は神の顕現であるので、神は「天の父母」であるとえるのである。

 

また、聖書に「男は、神のかたちであり栄光である」(コリント1・7)とあるので、「神は性相的な男性格主体」(『原理講論』47頁)であるといえるのである。そして、その神をキリスト教は「天の父」と呼んで、その格位を表示しているというのである。

 

神論に関して、聖書に「わたしたちは、今は、鏡に映してみるようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう」(コリントⅠ、13・12)とある。

 

以上のように、すべての宗教の神観は、統一原理の神観(「天の父母」様)に収斂され統一される。

 



カテゴリー: ティリッヒ「弁証神学」