ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(10)

(B)神の現実

 

(1)「存在としての神」

 

神を「存在としての神」と捉えるティリッヒは、次のように述べている。

 

「神の存在は存在自体である。神の存在は、諸他のものと並ぶ一存在、または諸他のものの上にある一存在の実存としては理解され得ない。もし神が一存在であるならば、神は有限性の諸範疇(はんちゅう)、特に空間と実体の範疇に従属することになる。たとえ神が『最も完全な』また『最も力ある』存在という意味で『最高存在』と呼ばれるとしても、右の状態には変わりはない。最上級の語でもそれが神に適応されると、縮小語になってしまう。最上級の語は、神をすべての存在の上に高めつつ、実は神を他の諸存在と同一水準に置くことになる。………無限または無制約的な力と意味とが最高存在に帰せられる時、最高存在は一存在であることをやめて存在自体となる」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、298頁)と。

 

上述のように、神を他の諸存在と同一水準に置くことにならない神観とは、ティリッヒによると、神を「存在としての神」(「存在自体」と「存在の力」)として捉えることなのである。

 

ティリッヒは、世界内存在としての人間は、実存的諸制約のもとで「存在の根拠」より疎外され、自己の本質を喪失していると見る。したがって、人間は自己と世界の「存在の根拠」と「意味」を問わざるを得ず、すべての実在を在らしめ、根拠づけている「存在自体」(being itself)、すなわち「究極者」に関心を寄せざるを得ないというのである。彼は、究極者(神)を「存在自体」と言い、「存在の力」(power of being)「万物の中に在る存在せしめる力」「万物を目的に導く力」であるというのである。

 

また、「存在自体の構造は、それが他のすべての事物の運命であるように、神の運命となる………神は自分自身の運命であり、『自己自身で』存在し、『aseity(自存性)』を有する」(同、299頁)。

「存在の力としての神はすべての存在と存在の総体(世界)とを超越する」(同、300頁)と述べている。

 

そして、「もし神が何よりも先ず存在自体、また存在の根拠と解されるならば、神論における多くの混乱と多くの弁証論的弱さとは除去されたであろう。存在の力という表現もまた同一のことを他の仕方で表現する方法である」(同、298-299頁)と述べている。

 

このように、上述のような神観こそ「神を超自然の領域に幽閉している神学」よりも「聖書的である」と断言するのである。

 

藤倉恒雄氏は、彼の著『ティリッヒの「組織神学」研究』の中で、「存在自体」としての神概念を擁護しながら、カント的原理による神認識に対して次のように批判している。

 

「超自然主義は万物の内的原理としての『存在自体』を認識不能とし、………神認識はカント的原理の上でのみ可能とされ、神を道徳的規範理念(一存在)にするか、認識の基礎に信仰を置く不合理な信仰主義(fideism)によって超自然的な啓示を成立させる。ティリッヒはこのような解釈が神の中に意志の優位を措定し、究極的には神の自由と主権を保障するものの、『存在自体』としての神概念を見失うものでしかない」(『ティリッヒ「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、63-64頁)というのである。

 

したがって、ティリッヒは存在に基礎を持たない一切の観念の偶像を(しりぞ)ける、と藤倉恒雄氏は解説する。このように、ティリッヒの存在論を根拠とする神の捉え方は、諸宗教の神観念を統一することを可能にするのである。

 

ティリッヒは、われわれのように「存在自体」を四位基台、「存在の力」を万有原力(縦的な力)と授受作用の力(横的な力)として解明していないが、彼のこのような神を存在論的に捉える神論は「統一原理」の神論と一致するものである。

 

ところで、現代人の生を支配している人間中心主義、実証主義的諸思想は、神を存在論的に叙述する可能性を否定し、合理性を超えた一切の実在を許容せず、究極者の概念を斥ける。そのことがキリスト者にも反映し、人格的な分裂を経験せしめている、とティリッヒはいうのである。

 

この「合理性を超えた一切の実在を許容せず」とは、実在する神に関してカントが因果の法則による神(第一原因)の存在論的証明を「独断論の妄想」(『純粋理性批判』(中)、カント著、岩波文庫、164頁)とし、経験の「対象の領域外」(同、158頁)と批判したことによる。

そして彼は、「神の実在を、最高善を可能ならしめる必然的条件として要請されなければならない」(『実践理性批判』、カント著、岩波文庫、250頁)と主張した。

 

このカント哲学は、自然神学(神の存在論的証明)を否定し、〝神認識は信仰から〟と捉えようとする福音主義の哲学化である。カント哲学と同様に、福音主義神学における客観的に根拠をもたない〝信仰による神認識〟は、神を、心情の枠内(家庭的四位基台に根拠をもたない個人が信じる主観的観念)に幽閉して、自然界をもっぱら無神論や唯物論の独壇場にするのである。これは、知性の怠慢であるという他はない。

 

周知のように、カール・バルトはカントの側に立って彼の神学の基礎を確立する。

 

『カール・バルトの生涯』を書いたエーバーハルト・ブッシュは、バルトは「彼(バルト)は、『カントとシュライアーマッハの綿密な研究によって彼自身の神学の基礎を確立しよう』としていた」(『カール・バルトの生涯』、E・ブッシュ著、小川圭治訳、新教出版社、68頁)と述べ、「『神の存在に関する宇宙論的証明』(もちろん、すでにカントとヘルマンにおいて片づいた問題であるが)について論文を書いた」(同、68頁)と述べている。

 

このように、バルトはカントの影響を受け、自然神学、自然哲学による「神の存在に関する宇宙論的証明」はカントの批判によって決着したのだと見て、存在論的な究極者の概念を斥けて、「神認識は信仰から」という立場に立つのである。

 

しかし、藤倉恒雄氏は、ティリッヒの観点から次のようにカントを批判する。

 

「合理性を超えた一切の実在(リアリティ)を許容しない実証主義的()()が究極者の概念を(しりぞ)け、その結果、相対的な文化の営みを絶対化するか、逆にすべてを相対化し、キリスト者にも聖書の提示している究極者の概念に基づいた統一的な世界解釈を困難にさせている」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、2頁)と指摘している。

言うまでもなく、ティリッヒは相対主義の絶対化に反対している。

 

われわれも統一原理の視座から、カントが果たした一時代的なアベル的使命を評価してはいるものの(『原理講論』523頁)、存在論的な究極者の概念を斥け、「神認識は信仰から」という立場に立つカント哲学、および福音主義神学を論破しなければならないと見るのである。

 

カントは、彼の著『純粋理性批判』や『判断力批判』の中で因果律による神の存在証明や創造目的、そして宇宙論的証明を否定している。

このカントの見解はいまだ論破されず、各界において支持されている。それゆえ、各界から統一原理の神観(存在論)が、既存の観念論哲学や自然神学と同類のものと誤解されてしまい、排除されることを懸念するのである。

 

統一原理(『原理講論』)は、性相と形状の二性性相という新しい概念で無形なる存在自体(神)の存在構造を「性相的な存在構造」として解明している。それは、精神や物質に関する既存の観念論や実在論の諸概念と区別するためである。

唯物論を生み出したのは、唯心論(観念論哲学)が間違っていたからである。しかしながら、唯物論と唯心論とを批判克服する二性性相の概念が、いまだによく理解されていない現実がある。

 



カテゴリー: ティリッヒ「弁証神学」