ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(14)

「補足理論」

 

(4)「垂直的関係」と「平面的関係」

 

無限なる存在と有限なる存在の「アナロギア」(類比)は「在らしめる存在」と「在らしめられる存在」との間に成り立つ「存在の関係」であり、最も根源的な意味での存在の〝因果の関係〟である。

ただし、神は諸々の存在者と同一平面において諸々の存在者の原因になるのではない。それは、垂直的に個々の存在者の存在原因としてかかわるのである。

 

科学的世界観を持つ現代人に、「存在のアナロギア」を説明できるのは「統一原理」(『原理講論』第二節、「万有原力と授受作用および四位基台」)以外にないであろう。

 

統一原理は、縦的関係(垂直的関係)と横的関係(平面的関係)を、万有原力と授受作用の原理として解明している。

カントの「無限因果の系列理論」を論破したという統一原理は、神と被造物との関係を如何に捉えているのかという問題である。具体的に言えば、生命、作用、存在の原理とは何かという問題である。

すべての存在者は「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)のである。「人間の在り方」(四位基台)は「万物の在り方」(四位基台)なのである。

 

カントの論難(ろんなん)とは、「自存性」を前提とする因果律からの解放〔自由〕は第一原因と現象界との連続性の切断である。もし、連続しているなら、その自由の介入によって〝自然法則〟は混乱するというのである。

上述の統一原理は、縦的な万有原力の介入と横的な授受作用の原理によって、自然法則は混乱しないと説いている。カントの「無限因果の系列理論」は神と被造物との平面的関係のみを見て、より根源的な垂直的関係を見ていないのである。神は諸々の存在者と同一平面において、諸々の存在者の原因になるのではないというのである。

 

カントに影響されている知識人は、現代においても非常に多い。バルトもそうである。彼らはカントが次のごとく言うことに追随(ついずい)する。

 

「自然学が、原因の系列を用いてかかる第一の始まりをどのように説明しようとしたところで、すべて失敗に終るのである」(カント著『判断力批判』〔下〕、篠田英雄訳、岩波文庫、122頁)と。

 

そこで、反対派は、統一原理に対し次のように問うのである。「第一原因の原因は何か」と。

神論における多くの混乱と多くの弁証論的弱さの除去は、ティリッヒがいうように、神を存在論的に捉えることであり、問題とされている〝因果の系列〟の問いに対する答えの鍵は、「神は無形実在である」(真の愛を中心とした二性性相の中和的・統一体)と捉えるところにある。

 

ティリッヒは、存在者と神との関係を「有限なるもの」に対する「無限なるもの」と捉えたが、「有形なるもの」に対する「無形なるもの」という概念を想起できなかった。それで、カントのいう無限の因果の系列という「無限」を批判し得なかったのである。

 

カントの哲学は、その時代的社会的背景の反映である〝機械的唯物論〟の世界観に影響され、制約されている。また、彼にはプロテスタントの福音主義の影響が強く、彼の批判哲学はその信仰を基盤とした〝福音主義〟の神学の哲学化であるといえよう。

理論理性による神の存在論的な証明はすべて失敗する、神認識は信仰(道徳的実践の要請)による、という彼の哲学体系は、福音主義と一致する。

 

しかし、時代的に制約されているとはいえ、彼の三つの『批判書』(『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』)の影響は、現代にまで及んでいる。「すべての哲学は彼に流れ、彼から出発する」といわれるが、そのことをわれわれは改めて認めざるを得ないのである。

 

カントの先験(せんけん)的認識論や善意志、あるいは道徳的法則は「人間の意識の主体性、能動性」の論証に不可欠であり、レーニンが彼の著『唯物論と経験批判論』でいう「精神は脳髄の機能である」と精神を物質に従属させる唯物論的見解(精神は物質の所産)に対する批判において、カント哲学は不可欠である。

 

そのことを、カントはすでに次のごとく言っていたのである。

 

思惟(しい)する存在者の行為と内感の現象とは、唯物論的には何ひとつ説明され得ない」(カント著『判断力批判』〔下〕、187頁)と。この偉大なる哲学者に敬意を表する。

 

(5)「日本共産党の批判」

 

日本共産党は、「カントも批判する『神』の『宇宙論的証明』」と題して、次のように統一原理を批判する。

 

「神の存在の『宇宙論的証明』は、ヨーロッパの古代や中世の神学や哲学で、ごく普通にもちいられてきた議論のすすめ方である。この考え方は、自然界におけるすべてのものごとが因果関係によって制約されている事実にもとづいて、この原因―結果の系列をさかのぼって、もはやいかなるものの結果でもない端的(たんてき)な原因(第一原因あるいは自己原因)に到着し、これを世界の創造者つまり神とみなす議論である。

古代のアリストテレスをはじめ、中世のアウグスチヌス、アヴェロエス、トマス・アクィナスなどの考え方はこのような証明法にもとづいていた。近代においてもロックやライプニッツたちの機械論的自然観の場合、基本的にはこれと同じ考え方に立っていた。………運動・変化の原因を因果の無限連鎖(れんさ)として考え………この無限系列に区切りをつけようとすれば『第一原因』を考えざるを得なかったのである。」(『原理運動と勝共連合』、日本共産党中央委員会出版局、138頁)

 

日本共産党は、上述のごとく論述した後に、神の存在証明を批判するカントの「無限因果の連鎖」を取り上げ、宇宙論的証明は18世紀に「打ち破られてしまったもの」と言って、次のごとく統一原理を揶揄(やゆ)する。

 

「出来事には必ず原因があるはずだとする因果律は、結果から原因へ、そしてまたその原因へと無限にさかのぼることを要求する性格をもっている。この『証明』はそのような因果律の性格にもとづいて究極の原因たる『第一原因=神』を導きだすのだが、しかし同時にこの因果律の性格はその『第一原因』の背後にもまたその原因を追求せずにはいない。『第一原因』はもはやそれ自体、原因をもたない最初の原因であるはずであるが、因果律はそれにとどまらず、さらに『第一原因』の原因をも要求せずにはいない。これはこの『宇宙論的証明』が自分自身の()りどころである因果律によって自己矛盾に陥っているのである。『第一原因』を求めていけばいくほど、それは無限のかなたへと遠のき、もはやそれは『第一原因』ではないものと化してしまう。こうして『第一原因』は消滅し、つまり『宇宙論的証明』はなんら証明とはなりえないのである。

観念論者カントによる実に見事な批判ではないか。勝共連合=統一協会のいう『第一原因=神』論は、このようにすでに十八世紀にカントたちによって打ち破られてしまったものであったのだ。」(同、139頁)

 

このように批判を展開した後に、結論として次のように()めくくる。

 

「なおこの神の存在の『宇宙論的証明』に対するカントをはじめとする批判に直面して、その後の宗教哲学は大きく転回せざるを得なかったという宗教思想史上の事実をもつけ加えておこう。まともな宗教思想家であるならば、その後、宗教を心のなかの問題として論ずることはあっても、宇宙の『第一原因』などから論ずるということはしなくなったのである。」(同、140頁)と。

 

以上のように、日本共産党は、カントの無限因果の連鎖を無批判的に用いているのである。

また、「宗教を心のなかの問題として論ずることはあっても、宇宙の『第一原因』などから論ずるということはしなくなった」というが、ティリッヒが、神を「存在自体」、「存在の力」であると存在論的に論じていることを知らないのであろうか。

 

神を心の中の問題として捉えて、〝神認識は信仰から〟という福音主義神学は、神を心の枠内に幽閉(ゆうへい)し、自然界をもっぱら無神論や唯物論の独壇場(どくだんじょう)にさせているのである。この見解は、知性の怠慢(たいまん)であるという他はない。

統一原理は、既存の新正統主義神学や新自由主義神学ではないのである。

 

(三)「カントの目的論批判に反論する」

 

カントは、目的論を次のように批判している。

 

「完全無欠な目的論があるにしても、それはけっきょく何を証明するのだろうか。かかる目的論は、このような知性的存在者が現実的に存在するというようなことでも証明するのだろうか。いや、そうでない、この目的論といえども、その証明するところは次のこと以上に出ないのである、即ち――我々の認識能力の性質にかんがみ、従ってまた経験と我々の理性とを結合したうえで、意図を持って作用するような最高の世界原因を思いみるのでなければ、この種の世界の可能を絶対に理解することはできない、ということだけである。それだから我々は、『知性的な根原的存在者が存在する』という命題を客観的に証明することはできない、ただ我々の判断力を使用して自然における目的を反省する場合に備えて、この命題を主観的にのみ証明し得るにすぎない。」(カント著『判断力批判』〔下〕岩波文庫、79-80頁)

 

しかし、今日では、動物と植物に目的意識があることが証明されている。植物が音楽に反応することまで分かっている。存在者の存在目的は、カントのいうような認識主体である人間の〝主観的〟な目的意識の投影ではない。

 

カントは、神(知性的な根源的存在者)を「客観的に証明することはできない」、「主観的にのみ証明し得るにすぎない」というが、統一原理は神を存在論的に捉え、客観的に論理的科学的に証明している。

「キリスト論」で、イエスは神の実体対象である(ヨハネ14・9-10)と述べている。したがって、神と「真の人」(イエス)との「存在の類比」から神認識が可能であり、神は人格神(天の父)であると捉えている。

 

また、カントは存在者の存在目的を、次のように否定する。

 

「我々が究極目的を物のなかへ持ち込むのであって、物の知覚から究極目的を取り出してくるのではない」(カント著『判断力批判』〔下〕、岩波文庫、271頁)

 

このように、カントによると、自然における客観的な存在者は「意図をもつもの」「目的をもつもの」と科学的に論証できない、神によって創造された存在者は創造目的があると演繹(えんえき)的に目的存在であると断定される、というのである。

 

「我々はもともと自然における目的を、意図をもつものとして観察するのではなくて、この〔目的の〕概念を判断力に対する手引として、考えのなかでつけ加えるにすぎないからである。要するに自然における目的は、対象によって我々に与えられたものではないのである。」(カント著『判断力批判』〔下〕、80頁)

 

このように、目的は〝主観的〟な判断力の手引きとして、考えの中でつけ加えられるに過ぎないというのである。

さらに、目的論を次のように批判している。

 

「自然における合目的性を説明するために自然科学の組織のなかへ神の概念を持ち込み、今度はまた神の存在を証明するためにこの合目性を使用するとなると、この(ふた)つの学〔自然科学と神学〕のいずれにおいてもその内的自存性が失われることになる。そればかりでなくかかるごまかしの循環(じゅんかん)論証は、両者のいずれをも不確実なものとする、両学は互いにその限界を混雑(こんざつ)させる結果になるからである。」(カント著『判断力批判』〔下〕、49頁)。

 

このように、カントは自然の中に神の概念を持ち込むと、自然科学の内的自存性が失われると断言する。これは、神やサタンなどの超自然の力によって干渉されるという〝前近代的〟な人間観や自然観から、啓蒙主義によって解放された〝近代的〟な人間観や自然観の反映である。

超越神は、自然と無関係であるとされる。この見解は、ティリッヒのいう実存的制約下にある理性が容易に陥るわなである。自然科学と神学は、相互補完関係にあると捉えなければならない。それで両学の内的自存性が失われはしない。逆に両学が発展するのである。カントのように、「両学は互いにその限界を混雑させる結果になる」と判断して、伝統的な教理的偏見に基づいて〝信仰の真理〟と〝科学的真理〟の相違を主張し、自然科学と神学の相関論を拒否して、神学が狭隘(きょうあい)な孤立的宗教界のなかに閉じこもることは、神のみ旨ではないと思われるのである。

 

ところで、カントは「自然の中に神の概念を持ち込むと、自然科学の内的自存性が失われる」というが、失われはしない。統一原理はティリッヒがいう「万物の中に在る存在せしめる力」を「授受作用の力」として説いている。

この授受作用の力によって、すべての存在者は、「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)というのである。

 

ちなみに、レオン・レーダーマンは次のように言っている。

 

「物理学者も天文学者も、単純にして首尾一貫した包括的モデルをめざして進んでいる。そのモデルがすべてを説明してくれるだろう――物質とエネルギーの構造も、途方もない超高温、超高密度の宇宙が生まれた初期から、われわれが今日見ているような、かなり冷えきってすきまだらけになった世界にいたるまでの、あらゆる状況における力のふるまいについても。」(『神がつくった究極の素粒子』レオン・レーダーマン、草思社、48頁)

「われわれはできるだけ理論に統一性をもちこもうとしています。大統一理論は、いまわれわれが夢中になっているものです。」(同、73頁)

 

このように、自然科学は、「物質とエネルギーの構造」とは何か、「あらゆる状況における力のふるまい」とは何か、という問いを提起し、その「答え」(統一理論)を求めているのである。

 

ところで、存在者に目的があることを、統一原理は次のように述べている。

 

「心と体は、各々性相と形状に該当するもので、体は心に似ているというだけではなく、心の命ずるがままに動じ静ずる。それによって、人間はその目的を指向しつつ(せい)を維持するのである。」(『原理講論』45頁)

 

「このように、いかなる被造物にも、その次元こそ互いに異なるが、いずれも無形の性相、すなわち、人間における心のように、無形の内的な性相があって、それが原因または主体となり、人間における体のようなその形状的部分を動かし、それによってその個性体を、ある目的を持つ被造物として存在せしめるようになるのである。それゆえ、動物にも、人間の心のようなものがあり、これがある目的を指向する主体的な原因となっているので、その肉体は、その個体の目的のために生を営むようになるのである。植物にもやはりこのような性相的な部分があって、それが、人間における心のような作用をするので、その個体は有機的な機能を維持するようになるのである。そればかりでなく、人間が互いに結合するようになるのはそれらの中に各々結合しようとする心があるからであるのと同様、陽イオンと陰イオンとが結合してある物質を形成するのも、この二つのイオンの中に、各々その分子形成の目的を指向するある性相的な部分があるからである。陽子を中心として電子が回転して原子を形成するのも、これまた、これらのものの中に、各々その原子形成の目的を指向する性相的な部分があるからである。」(『原理講論』45頁)

 

カントは、「自然における目的は、対象によって我々に与えられたものではない」と断定するが、上述のごとく統一原理によって論破(ろんぱ)されている。

 

文鮮明師は、創造目的(存在目的)に対して、次のように述べておられる。

 

「主体と対象があれば、必ず目的があり、方向性があります。」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」1614頁)

「今日では、物理学が発達し、『すべての原子にも意識がある』という……この論理は、統一教会の二性性相の原理と同じです。」(同、1615頁)

 

人間や動物、植物、鉱物など全ての存在者は、主体と対象のペア・システムとして、「(つい)」として存在し、主体と対象があれば、必ず目的性と方向性があるのである。

―「補足理論」の項、以上―

 



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