ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(15)

『組織神学』第2巻――(実存とキリスト論)――

 

(一)「実存と、キリストへの問い」

 

ティリッヒは『組織神学』第2巻の緒論で、次のように述べている。

 

「神を存在自体と定義することから神論が始められると、哲学的な存在概念が組織神学のなかに導入される。このことはキリスト教神学の初期においてなされたし、キリスト教思想史全体においてもなされて来た。この書においては、存在概念は三つの個所で現われる。すなわち、神が存在としての存在、存在の根拠、また存在の力、と呼ばれる神論において、また、人間の本質的存在と実存的存在との区別が貫かれる人間論において、最後に、キリストが神の霊の働きによって実現された新しき存在の顕現と呼ばれるキリスト論においてである」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、新教出版社、12頁)

 

このように、ティリッヒの哲学的な存在概念は、神論、人間論、キリスト論の三つの個所で現われるのである。この三つの個所がティリッヒの『組織神学』体系の中心なのである。

 

ティリッヒは、神論について次のように述べている。

 

「この存在の力としての存在概念は、いかなる神学もこれを排除することができない。存在と神とを引き離すことはできない。神があるとか、神は存在するとか言われる瞬間、神と存在の関係がどう理解されるかが問われている。この問いに対する唯一の答えは、神は存在の力、ないし非存在を克服する力、としての意味において存在自体である、ということである」(同、13頁)

 

このように、神を存在の力と捉え、統一原理と同様に神概念を存在論的に論述している。

 

統一原理の神論も、「万有原力」、「授受作用」、「三対象目的」、そして「四位基台」など、哲学的な存在概念で論述されている。

ティリッヒの「存在の力」とは、統一原理の「万有原力」のことである。万有原力とは、神が永存し、すべての存在が存在するための根本的な力のことである。ティリッヒによると、この存在論的な神論はいかなる神学も排除できないというのである。

 

以上のように、ティリッヒの神論における存在概念は、統一原理の神概念を受容可能にする天的使命を持った洗礼ヨハネ的な神学であるといえるであろう。

 

『組織神学』第3巻の訳者である土居真俊氏は、「訳者後記」で次のように述べている。

 

「彼(ティリッヒ)の神学は哲学、文化、心理学、社会科学、自然科学のあらゆる領域を包括しており、極めて多面的である。

彼は聖書からの引照を余り用いないので非聖書的であるような印象を与えるが、そうではない。内実的には極めて聖書的である。彼は、『キリストとしてのイエスに現われた新しき存在』を彼の神学の中心に据えるという意味において、私は彼をバルト、ブルンナー、ニーバー兄弟と共にネオ・オーソドキシーに加えることを躊躇(ちゅうちょ)しない」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、新教出版社、536-567頁)

 

(A)「実存と実存主義」

 

ティリッヒは、神と人間の堕落した状態を、次のように実存哲学を用いて語る。

 

「神においては、本質的存在と実存的存在との区別はない。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、28頁)

「神は本質と実存との対立に従属しない。神は諸存在に並ぶ一存在ではない」(同)

「神のみが『完全』であり、『完全』とは正確には、本質的存在と実存的存在との間隙(かんげき)を越えた存在を意味する語である。人間とその世界は完全性を持っていない。人間と世界の実存は、『堕落』におけるように、本質の外に立つ。」(同)

 

ティリッヒは、実存主義に関して次のごとく評価している。

 

「実存主義は、『(ふる)い世』すなわち疎外(そがい)状況の人間と世界の窮境(きゅうきょう)を分析した。その点で実存主義はキリスト教の味方である。」(同、33頁)

「実存主義は、人間実存の古典的キリスト教的解釈の再発見を助けた。」(同)

 

ティリッヒは、メシヤの使命に関しても次のように実存哲学を用いて語る。

 

「キリスト教は、イエスがキリストであることを主張する。『キリスト』なる語は、著しい対照によって人間の実存的状況を指し示す。というのは、キリスト、すなわちメシアは、『新しい(アイオーン)』・宇宙の更新・新しい現実、をもたらす人であるからである。新しい現実は、(ふる)い現実を前提とする。旧い現実とは、預言者たち・黙示文学者たちの記述によれば、神からの人間と世界の離反〔疎外〕の状態である。この離反の世界は、『魔的諸力』として象徴される悪の諸構造に支配されている。悪の諸構造は個人の魂を、民族を、また自然界をさえ支配している。それはあらゆる形態の不安を生じさせる。これを克服して、魔的諸力すなわち破壊の諸構造が撤廃(てっぱい)される新しい現実をもたらすことが、メシアの仕事である」(同)

 

このように、ティリッヒは「神からの人間と世界の離反〔疎外〕の状態」(内部に矛盾性を持つ「破壊の諸構造」)をメシヤが撤廃して「新しい現実」をもたらす、と実存哲学を用いて語るのである。

 

(B)「本質から実存への移行と『堕落』の象徴」

 

ティリッヒは堕落の神話について、文字通りの解釈の弊害(へいがい)を次のように実存主義哲学によって批判する。

 

「『堕落』の象徴はキリスト教の伝統の一つの重要な部分である。それは普通はアダムの堕落に関する聖書物語と関連づけられているが、しかしそれの意味はアダムの堕落の神話以上の普遍的人間学的意義を有する。聖書の直解主義は、キリスト教的堕落神話の強調と創世記物語の直解主義的解釈とを同一視し、そのためキリスト教に著しい害を与えた。神学は今日直解主義を真剣にうけとる必要はないが、しかしそれがいかにキリスト教会の弁証論的課題を妨害したかをわれわれは知らなければならない。神学は『堕落』を『昔々あるときに』起こった出来事としてではなく普遍的人間状況の象徴として、明瞭かつ明白に説明しなければならない」(同、36頁)

 

ちなみに、統一原理は、エデンの園の〝蛇〟や〝善悪を知る木〟を文字どおりに解釈しない。それらを、何かの比喩であり、象徴であるとする。

ところが、直解主義者は非直解主義的解釈に対して、狂信的に反対する。しかし、ティリッヒは「文字通りの解釈」はキリスト教に著しい害を与えたというのである。

 

「『直解主義』(Literalism)の語は翻訳できない。それは象徴を文字通りにとることによって、それを迷信的不条理に変えてしまう神学的態度を意味する」(同、36頁)

 

ブルトマンは、聖書の神話を「非神話化」すべきであると言って問題となったが、ティリッヒは「非神話化」という言葉を避けて「非直解化」という言葉を用いる。

 

上述のように、ティリッヒは、堕落神話の「直解主義」(文字通りの解釈)の弊害(へいがい)を排除し、堕落神話は「『昔々あるとき』起こった出来事」としてではなく、「普遍的人間状況の象徴」であると捉え、人間の堕落を「本質より実存への移行」であると実存主義的に論述するのである。

ただし、ティリッヒは、「普遍的人間状況の象徴」というだけで、神が「取って食べてはならない」(創世記2・17)と言われた「善悪を知る木の実」とは何か、また、言葉を話す「蛇」とは何か、に関しては解明していない。

 

(1)「自由と堕落」について

 

ところで、なぜ堕落したのかという問題に関して、ティリッヒは「堕落の可能性は、統一としての人間的自由のあらゆる性質から来る。………神の似像(にすがた)である人間のみが自己を神から離間(りかん)する力を持つ。」(同、41頁)と述べ、この自由のために堕落したというのである。

 

しかし、この見解には問題がある。「神が堕落するような人間をつくったのか」、「罪の気質がどのようにして『夢心地の無垢(むく)』なアダムの性質の中に入りこんだのか」、さらに、「神が悪を創造したのか」という神義論の問題にまで至るのである。

しかし、ティリッヒは、何も解明していない。彼はメシヤでないので、仕方がないのではあるが…。

 

a 「ルタ-の疑念」と「ザビエルへの問い」

 

マルティン・ルター(1483-1546)は、「どうして神は、アダムが堕落するのを許したもうたのか。また、神は彼を堕落せぬように保つか、あるいは私たちをほかの(すえ)からか、または清められた第一の裔から造ることができたもうたであろうのに、どうして私たちすべてを同一の罪にけがされたものとして造りたもうたのであるか」(『世界の名著18ルタ-』松田智雄編、中央公論社、223頁)と述べている。

そして、ルターはその問いに対して「このような神秘を探ることは、私たちのなすべきことではない。むしろ、この神秘を畏敬すべきなのである」(同)という。

 

フランシスコ・ザビエル(1506-1552)に対して、鹿児島の住人が次のような疑問を提起したという話がある。

 

「確かに悪魔が存在し、それが悪の原理であり人類の敵であることはわかるが、それなら創造主を認めることができなくなる。何故なら、万物を造ったといふ善なる創造主が悪を造り出したといふのは矛盾だからである………もし創造主が人間を造ったと言ふなら、自分が造った人間が悪魔に誘惑された時、何故人間を保護せず誘惑されるのを黙認したのか」(小堀桂一郎著『国民精神の復権』、PHP研究所、65頁)と。

 

これらの論難(ろんなん)は、誰も解明していない。しかし、文鮮明師が解明した「堕落論」を知っている人なら、難なく答えることができる。

 

小堀桂一郎氏は、先の問いの最後を次のような言葉で()めくくっている。

 

「これから日本に派遣される宣教師は特に哲学、論理学を修めてこなくてはならない、日本人は非常に手ごはい相手である、トマス・アキナス、ドン・スコトスほどの学者でも日本人の質問にはよく答へられまい、といふのがサヴィエルの正直な感想だったのです」(同、67頁)

 



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