ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(18)
(二)「キリストの現実性」
(A)「キリストとしてのイエス」
ティリッヒは、「キリスト教がキリスト教であるのは、『キリスト』と呼ばれたナザレのイエスが現実にキリストであること、すなわち、かれが事物の新しい状態・新しき存在をもたらす人であることを主張するからである。イエスがキリストであるとの主張が維持されるところに、キリスト教使信がある。この主張が否定されるところにはキリスト教使信はない」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、123頁)という。
また、「実存的疎外の克服者」であるイエスと彼の「死」について、次のように述べている。
「実存的疎外の克服者たるかれが実存的疎外とその自己破壊的諸結果にみずから関与し〔死な〕なければならないという逆理である。これが福音の中心的物語である」(同、124頁)と。
ただし、ティリッヒは説いていないが、福音書から使徒行伝へと続くように、キリストとしてのイエスの再臨も福音の中心である。
上述の「みずから関与し〔死な〕なければならない」とは、イエスの十字架の死と復活を意味し、それは人間の「死」を如何に克服するかという「問い」に対する「答え」(啓示)なのである。
(1)「イエス・キリストの名称」
イエス・キリストとは固有名詞ではない。
「メシア――ギリシア語の『キリスト』――とは、イスラエルと世界における神の支配を確立すべく神より塗油された『受膏者』である。したがって、イエス・キリストなる名称は『キリストと称されるイエス』、『キリストであるイエス』、『キリストとしてのイエス』、『キリスト・イエス』として理解されなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、124頁)
なぜ、キリストとしてのイエスにこだわるのであろうか。
ちなみに、パネンベルクは、次のように述べている。
「イエスを通して啓示されてこそ、はじめて、神を知るのである。神について語る他のどんな語りかけも、せいぜい暫定的な意味を持ちうるにすぎない。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、3-4頁)
このように神学とキリスト論、すなわち、神についての教理とキリストとしてのイエスについての教理とは互いに結びついている。この結びつきを開陳することこそ、まさにキリスト論のみならず、神学自体の目標でもあるというのである。
キリスト教が、ナザレのイエスが指し示す現実的事実に固執するゆえんについて、ティリッヒは次のように述べている。
「もし神学がナザレのイエスなる名称が指示する事実を無視するならば、神学はキリスト教の基礎的主張――すなわち本質的神人性〔神人一体性〕が実存の中に現われ、実存的諸制約に征服されることなしにそれに従わせたとの主張――を無視することになる。実存的疎外が克服された人格的生活がなかったならば、新しき存在は単なる求めであり期待であるにとどまり、時間空間的現実ではなくなる。実存が一点において――実存全体を代表する一個の人格的生活において――克服される場合にのみ、実存は原理的に克服される」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、125頁)
「実存的疎外が克服された人格的生活」とは、福音書に記述されているイエスの生涯それ自体のことである。イエスは架空の人物ではなく、歴史に実在した人物である。
ティリッヒは、キリストとしてのイエスに対する弟子たちの信仰もまた強調する。
この信仰受容がないならば、「もしイエスがかれの弟子たちの上に、また弟子たちを通して次の世代の上に、かれ自身をキリストとして刻印しなかったならば、ナザレのイエスと呼ばれた人間は恐らく歴史的宗教的重要人物として記憶にとどめられただけのことになるであろう」(同、126頁)と指摘する。
信仰の基礎には、イエスはキリストであると宣教した使徒の証言や、地上でのイエスがご自身の権威を主張したこと、さらに、イエスの復活を目撃した証人などの見解がある。
また、「キリスト論」は、イエス自身から着手すべきなのか、それとも教会のケリュグマ(宣教)から着手しなければならないのか、という問題がある。
パネンベルクは、「キリスト者の現在的な経験を神学の出発点として用いることは、……シュライエルマッハーと19世紀のエルランゲンのルター派神学にさかのぼることができる。シュライエルマッハーは彼の信仰論において、現在的なキリスト者の体験による逆推論の方法でキリスト論を構成した」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、9頁)と述べている。
そして、結論として、パネンベルクは次のように述べている。
「新約聖書は、イエスがその高挙によって、地上から、また彼の弟子たちから、取り去られたと証言している。私たちが、挙げられた主としてイエスのいま生きていることを知るのは、現在の経験からではなく、ただその当時に起こった出来事に基づいているのである。イエスの復活と高挙を証言する報告の確かさを信頼することによってのみ、私たちは、挙げられ、そして今なお生きていたもうお方に、祈りにおいて向かうことができるし、しかも現在このお方と交わることができるのである」(同、12~13頁)
このように、パネンベルクは「キリスト論は、単に教会のキリスト告白の発展に関わるだけでなく、何よりも、地上におけるイエスの活動と運命にその基礎をもっていることを問題にするのである」(同、13頁)というのである。
(2)「史的イエスの研究」
ティリッヒは、歴史研究の科学的方法が聖書文書に応用され始めて以来、それ以前は背後に潜んでいた〝神学的諸問題〟が、教会史上未曽有の重大性を持つようになったという。
今日、歴史的研究全体を「歴史批判」とか「高等批評」(高層批評)とか、あるいは「形式批判」などと呼ばれている。
彼は「史的イエスの研究」の動機について次のように述べている。
「歴史的批判は信仰そのものを覆えすかの如くに思われた。………古い諸伝統による着色や被覆の背後にあるナザレのイエスなる人物の事実を発見しようとする熾烈な〔宗教的〕欲求が働いていた。いわゆる『史的イエス』の探求が始まったのはこのようにしてであった。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、129頁)
D・F・シュトラウス(1807-1874)の『イエスの生涯』や、アルベルト・シュヴァイツァーの『イエス伝研究史』、そして、ブルトマンの『新約聖書と神話論』などがそうである。ナザレのイエスなる人物の事実を発見しようとする熾烈な〔宗教的〕欲求なのである。
ティリッヒは、ブルトマンの大胆な新約聖書の非神話化は「神学の全分野に嵐を捲き起こし、歴史的問題に関するバルト主義のまどろみに驚愕的覚醒を与えた」(同、130頁)と述べている。
歴史的研究に対し、特に聖書文書の歴史的研究を神学的偏見によるものとして攻撃する見解があるが、これに対してティリッヒは次のように反論する。
「かれらはかれら自身の解釈もまた偏見によるものであること、すなわちかれらのいわゆる信仰の真理によるものであることを否定しえないであろう。しかるにかれらは歴史的方法には客観的科学的基準があることを否定する。しかしそのような主張は、普遍的研究方法の使用によって発見されまたしばしば経験的に検証された膨大な史料を思い見るとき、とうてい維持されがたいものである」(同、131頁)と。
これは、歴史的研究に対するバルトらの批判を意識して書かれたものであろう。
(3)「歴史的研究と神学」
しかし、ティリッヒは「歴史的研究によってキリスト教信仰および神学を基礎づけようとする企てが失敗である」(同、136頁)という。しかし、他方で歴史的研究を次のように偉大なできごととして評価している。これは、彼の文脈によく見られる対立的見解を統一しようとする〝否定〟と〝肯定〟の弁証法的思考である。
次の本文は肯定面である。
「聖書文書の歴史的研究なるものはキリスト教史上における、否、さらに宗教史・文化史上における一つの偉大な出来事である。それはプロテスタント主義の誇りとするに足る一要素である。神学者たちがみずからの教会の神聖な文書を歴史的研究による批判的分析にかけたことは、プロテスタント的勇気の一つの表われであった。人類史上、他のいかなる宗教も、このような大胆なことを実行し、このような危険性をみずからに引き受けたことはなかったと思われる。イスラム教にも、正統ユダヤ教にも、ローマ・カトリック教にも、そのようなことはなかった。この勇気には報賞が与えられた。というのは、ひとりプロテスタント主義のみがよく一般の歴史的意識の流れに参加し、みずからを精神生活の創造的発展への影響力なき狭隘な孤立的宗教界のなかに閉じこめることをまぬがれたからである。プロテスタント主義(根本主義のグループは別として)は、歴史的研究の結果を、証拠に基づくのではなく、教理的偏見に基づいて拒否する無意識的不誠実性へと追いこまれなかった。………プロテスタントのグループは、徹底的な歴史的批判によってさまざまの危機状態に投げ込まれたにもかかわらず、なお生き続けた。イエスがキリストであるとのキリスト教的主張は、最も厳しい歴史的誠実性にも矛盾しないことが、ますます明白となった。」(同、136-137頁)
上述の「狭隘な孤立的宗教界のなかに閉じこめる」とは、他宗教に対する排他的狭隘性を批判しているのである。また「教理的偏見に基づいて拒否する」とは、統一原理と文鮮明師に対して教理的偏見(根本主義などの見解)で拒否しているキリスト教の現状に一致する。
ところで、ティリッヒは「歴史的研究によってキリスト教信仰および神学を基礎づけようとする企が失敗である」というが、下記のごとく今日「歴史への復帰」という現象が顕著になって来る。パネンペルクは、「信仰は史的イエス自身に根拠」を持たねばならないことを強調する。
「バルトをはじめブルトマンやティリッヒなど、一九六〇年代頃までをその活躍の時期としていた二十世紀の神学者たちは、近代自由主義神学における不毛な『史的イエス』の探求や人間主義的なキリスト解釈に反対して、おしなべて歴史学的地平からの後退を宣言し、『原歴史』や『実存の歴史性』や『キリストの象徴』などに新たな活路を求めたが、これに対して一九五〇年代半ば頃から、『歴史への復帰』という現象が顕著になってくる。一九五三年、ゲーゼマンは『史的イエスの新しき探究』の必要性を叫び始め、その三年後にはボルンカムが『ナザレのイエス』Jesus von Nazareth(1956)を上梓する。新約学者たちのこういう動きに対応するかのように、やがてヴォルフハルト・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg,1928- )が、『パネンベルク・グループ』と称される仲間たちと共同で、『歴史としての啓示』Offenbarung als Geschichte(1961)を著わす。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、524頁)
そして、パネンベルクはその3年後には、さらに『キリスト論要綱』(1964)を出版するのである。
(4)「キリスト論的教理の評価」
キリスト論的教理は如何に形成されていったかに関して、ティリッヒは新しき存在の追求とともに始まったという。
イエスは、人の子、神の子、キリスト、ロゴスなどと言われている。
ティリッヒは、初代教会の「キリスト論」について、次のように述べている。
「定形化されたキリスト論は、新約聖書の記者たちが『キリスト』と呼んだイエスにキリスト論的諸象徴を適用した仕方によって基礎を置かれた。」(ティリッヒ著『組織神学』2巻、177頁)
「初期教会がギリシア哲学から得た概念的用語によってキリスト論的象徴の解釈を始めた一つの理由であった。そのための最適の象徴が『ロゴス』の象徴であったのであり、そしてこれはその本性上、宗教的・哲学的に根を張った概念象徴である。その結果、初期教会のキリスト論はロゴス・キリスト論となった。」(同、177-178頁)
このロゴス・キリスト論は、キリストが実体(肉体)として顕現したことを強調するためである。それは「ナザレのイエス」に対して仮現説(仮の現れにすぎない)を主張するグノーシス(ドケティズム)に対抗するためであった。
ドケティズムとは、2世紀以前の初期グノーシス派と神秘宗教からでたもので、受肉と十字架は単なる見かけ、つまり〝仮象〟であるというのである。
初代教会はこの「キリスト論」の教義問題で論争した。
ティリッヒは、これらについて次のごとく述べている。
「初期教会の教理的研究の中心は、キリスト論的教理の創造にあった。他のすべての教理的発言――特に神と人間、聖霊と三位一体についての発言――は、キリスト論的教理の前提ともなり、またその結果である。イエスがキリストであるとの洗礼告白文が、キリスト論的教理が注釈する本文である。キリスト教教理に対する根本的攻撃は、直接的・間接的にキリスト論的教理に対してである。その攻撃のあるものは、この教理の実質すなわち洗礼告白文についてであり、また他のものはギリシア的概念の使用のようなその形式についてである。」(同、178頁)
ティリッヒは、論戦の結果は「キリスト論的教理は教会を救ったが、極めて不適切な概念手段によってであった」(同、179頁)と述べている。
その論争について、次のように評価している。
「一つには、キリストとしてのイエスにおける新しき存在の使信の表現にはいかなる人間的概念も不適切であるからであり、また一つには、ギリシア的概念の特殊的不適切性のためにである。すなわちギリシア的概念は普遍的意義を有するが、しかしそれはアポロやディオニソスの神像に規定された具体的宗教〔的状況〕から由来したものである。」(同、179頁)
受肉は、アポロやディオニソスの神像と同じ偶像ではないかと思われた。福音書には、ナザレのイエスは人間として実存的疎外を克服した人格的生活の模範を示したことが記述されている。
「第六世紀中葉以後におけるカルケドン信条の半-単性論的変質である。この例における本来的使信の歪曲化の原因は、ギリシア哲学の概念の使用にあったのではなく、当時のきわめて強力な呪術的迷信的敬虔の傾向が諸会議に与えた影響にあったのである。概念的形式の不適切性の例はカルケドン信条そのものである。この信条は、その意図としては、キリスト教使信の本来的意味に対して忠実であった。そして事実、この信条はイエスの人間的形象の完全な排除からキリスト教を救った。しかし、この課題を果たすためには、当時手もとにあった概念的手段をもってしてはただ強大な逆理的命題の積み重ねによるのほか仕方がなかった。それは、キリスト教使信に組織的解釈を与えること――これこそが哲学的諸概念導入の本来の理由であったのだが、――はできなかった。神学は、失敗が敬虔心の悪化に起因する場合に神学の必然的概念的手段を非難してはならないし、また概念的手段の不適切性を宗教的脆弱性に帰してもいけない。また神学は哲学的概念を排除してはならない。それは現実には、神学が自己自身を排斥することを意味する。神学は自ら使用する諸概念からまたそれらの諸概念に対して自由でなければならない。神学は、その概念的形式とその実質との混同から自由でなければならない。神学は、教会的伝統から与えられた概念的手段よりも、いっそう適切ないかなる手段を用いてでも、その実質を表現すべく自由でなければならない」(同、179-181頁。注:太字は筆者による)
上述の最後の「いっそう適切ないかなる手段を用いてでも、その実質を表現すべく自由でなければならない」という個所は、統一原理の神論とキリスト論を受容ならしめる洗礼ヨハネ的主張であるといえるのであろう。
その実質とは、キリスト論的実質であって、神の本体は何かである。バルトは〝三位一体の神〟という。統一原理は〝天の父母〟という。キリスト教は、神は〝父〟であって女性的要素はない。したがって、父母とはいわない。それで、父母という神概念に違和感を持つキリスト教徒は少なくないであろう。
「三位一体」と「天の父母」という神概念の同一性を存在論的に説かねばならない。この問題は後で論ずる。
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