ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(20)

(7)「キリストとしてのイエスの事件の普遍的意義」

 

 a. 「キリスト論と救済論の結合」

 

ティリッヒは、キリスト論は救済論の一機能であるという。言い換えると、(ふる)い存在、すなわち実存的疎外と自己破壊から人々を救済することが、キリスト論の職能(しょくのう)であるというのである。

 

「キリスト論は救済論の一機能である。救済論の問題がキリスト論的な問いを生じ、またその答えを方向づける。というのは新しき存在をもたらし、それによって旧い存在すなわち実存的疎外と自己破壊から人々を救済することがキリストの職能であるからである。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、192頁)

 

近代神学においては、シュライエルマッハー以来、キリスト論と救済論の緊密な結合が主張されるのが通例であった。しかし、キリスト論と救済とは分離できないことは明瞭であるが、パネンベルクはキリスト論と救済論のこのような結合に含まれている危惧もまた同時に現われると、次のように述べている。

 

「ほんとうにイエス自身について語られているかどうかという点である。そこでは、人間の救いと神格化への願望の投影が、むしろ問題の中心になっていないであろうか。そこでは、神に似た者になりたいという人間の努力、犯した罪を償わねばならぬ人間の義務、自らの罪責をおぼえて、破滅にとらわれている体験の投影といったものがあるのではないのか。また、新プロテスタント主義において最も明瞭に表れているように、完全な宗教性・完全な道徳性・純粋な人格性・積極的な信頼といった理念をイエスの姿に投影しているのではないのか。ここで、単に人びとの憧憬のみが、イエスに具現されたり、投影されたりしているのではないのか。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、40頁)

 

そして、次のように述べている。

 

「キリスト論は、私たちにとっての有意義性、つまりそれを直接には宣教が供する有意義性から出発するのではなく、ナザレのイエスから出発しなければならない。イエスの有意義性は、地上のイエスが実際にどのような方であったかということから展開されねばならない。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、41頁)

 

さらに、次のように述べている。

 

「この意図は一般に、キリスト論の伝統の基礎となっていると言ってよい。カント、シュライエルマッハー、ブルトマン、ティリッヒのような例外を除けば、ナザレのイエスの事実に根ざした現実性を犠牲にして、意識的に救拯(きゅうじょう)論的な関心の視野から考えられるようなことはなかった。」(同、41頁)

 

しかし、反論として、「アタナシオスは常に救済論的観点に立って論じている。主は完全なる神であると同時に完全な人間である。そうでなければ救いは成就されない。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、119頁)と解説されていることを指摘しておかねばならない。

 

しかし、次の点は傾聴に値する。

 

「『そもそもキリスト論は救拯論の一機能である』といったティリッヒによるほど無遠慮に表現されたことはない。………ブルトマンと彼の弟子たちにおいても、〈イエス自身、つまり、史的イエスが問題ではなく、新しい実存の可能性の開発として、私たちにとっての彼の『有意義性』のみが重要である〉とはっきり言っているときに、危険は明らかとなる。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、40頁)

 

結論として、パネンベルクは次のように述べている。

 

「彼の人格についての問いであるキリスト論は、イエスの有意義性についてのすべての問い、つまり、すべての救拯論に先行されねばならない。救拯論は、キリスト論の後に続かねばならないのであって、その逆であってはならない。」(同、41頁)

 

統一原理の「キリスト論」は、第一節「創造目的を完成した人間の価値」、第二節「創造目的を完成した人間とイエス」、第三節「堕落人間とイエス」を論じた後に、「救済論」として、第四節「新生(重生(じゅうせい))論と三位一体論」が論じられている。

「創造目的を完成した人間」とは、最初に、神との一体性の問題を論述しているのである。

 

創造原理は、人間の二性性相の実体的な展開として創造したのが被造物であり、人間は天宙を総合した実体相であると論じている(『原理講論』84頁)。創造目的を完成した人間とはキリストのことであり、これは宇宙論的キリスト論である。有形なる宇宙の中心がキリストであると述べているのである。

 

近代神学において、キリストは人類の歴史との関係でのみ問題とされ、キリストの出来事を地球環境や宇宙全体との関わりで理解することはほとんどなかった。それで、現在の環境破壊に対する神学的取り組みを困難なものにしているのである。

「科学的宇宙論との積極的な関係構築を試みるだけの基礎作業が神学の側に欠けているため、本格的な『自然の神学』『コスモロジーの神学』は現在のところ存在しない………現代神学はこれについて本格的な議論を展開する基礎(キリスト論的な)を失っているからである。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、557頁)

 

このような問題提起に対し、すでに答えているのが統一原理のキリスト論、すなわち「創造目的を完成した人間の価値」(宇宙論的キリスト論)なのである。

 

 b. 「イエスの普遍性」

 

ところで、ティリッヒは、イエスの「実在的」形象の持つ具体性と唯一性によって普遍性が論証されるという。なぜイエスがすべての宗教を統一する普遍的存在であるのかという問題である。

 

「キリストとしてのイエスはいかなる意味で、またいかなる仕方で救済者であるか。………キリストとしてのイエスの事件は、いかなる仕方で万人にとって、また間接的には宇宙にとって普遍的意味を有するか。これをわれわれは問わなければならない。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、192頁)

 

ティリッヒは次のように述べる。〝聖書におけるイエスの形象は、唯一的事件である。かれの性格、かれの置かれた歴史的状況において、かれは唯一的である。当時の(みつ)()宗教的儀礼(ぎれい)覚知(かくち)主義的洞察(どうさつ)に対する優位は、まさにこのイエスの「実在的」形象の持つ具体性とその比較を絶した唯一性のゆえであった。〟(同、192-193頁参照)

 

「かれのすべての発言と行動を通して一個の実在的個性的生が輝き出ている。これに比すると、密儀宗教的儀礼の神々の姿像は抽象的であり、現実に生きられた生涯の新鮮な色調を欠き、歴史的運命と有限的自由の諸緊張とを欠いている。キリストとしてのイエスの形象は、その具体的実在性の力によってかれらを征服した。」(同、193頁)

 

このように、事実によって普遍性が論証される。

ティリッヒは、実存への服従は「キリストの十字架」の象徴によって、実存への勝利は「キリストの復活」の象徴によって実現されたという。ただし、象徴や神話は字義通り解釈されるとその意義を失うことを、ここでも強調している。すなわち、「非直解化」(非神話化)しなければならないというのである。ただし、十字架の死と復活をどのように非直解化するのかに関しては明確ではない。

 

(8)「救済力としての、キリストとしてのイエスにおける新しき存在」

 

キリスとしてのイエスは新しき存在であり、新しき存在を創造する力である。

 

「キリスト教が出現した世界は、魔的世界に対する恐怖に満ちていた。………魔的諸力は霊魂と神との再結合を阻止(そし)する。それは、人間を束縛(そくばく)して実存的自己破壊の支配下に(つな)ぐ。キリスト教の使信(ししん)は、この魔的諸力の恐怖からの解放の使信であった。だから贖罪(しょくざい)の過程は解放の過程である」(同、218頁)と。

 

ちなみに、再臨主による〝聖酒式〟は原罪清算(サタンの血統を清算する式)である。「イエスの体」と「堕落人間の体」の相違は、原罪があるか、ないかである。「真の父母様」による祝福結婚は、原罪を清算して「新しき存在」に新生(重生(じゅうせい))することであり、「実存的疎外の下」(魔的諸力)からの解放・釈放である。

これがキリストの救済力である。キリストの使信が一切を解放する。

 

「サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応している」(『原理講論』273頁)。したがって、「堕落人間がサタンを分立して、堕落以前の本然の人間として復帰するには、原罪を取り除かなければならない」(同、271頁)のである。

 

パウロは、「神の子たる身分」を授けられるために、「体のあがなわれること」(原罪清算)を待ち望んでいると、次のように述べている。

 

「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体のあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ8・23)

 

ティリッヒは聖化(せいか)に関して、対社会的に次のように述べている。

 

「聖化は、新しき存在の力が教会の内外の個人・団体を改変する過程である。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、227頁)

 

ティリッヒは、キリスト(仲保者、(あがな)い主)が「あらゆる治癒(ちゆ)過程・救済過程の究極的基準である」(同、213頁)という。

また、キリストの使信が一切を解放する。「人類のいかなるところにある救済力も、キリストとしてのイエスの救済力によって判定されなければならない」(同)という。

 

文鮮明師の御言と原理は、イエス・キリストの使信と一致することが判定されるであろう。

イエスは〝個人路程〟の霊的救済を歩み、再臨主はそのイエス様が残した〝家庭路程〟を歩んで、霊肉両面の救済(堕落性とサタン的血統の清算)を成し、成約聖徒と共に天上天国と地上天国を創建していく。

 

ティリッヒの『組織神学』第2巻(1957年刊)は、第1巻(1951年刊)の6年後に現われた。第3巻(1963年刊)は、それよりもさらに6年後に出版された。

 

 

「補足」(「神の本体」)

 

「三位一体」と「天の父母」という神概念の同一は、統一原理の「キリスト論」と「神の成長」という概念によって存在論的に論証される。

(1)「『神様の成長』という概念について」

 

文鮮明師は、「幼児が成長したのちに結婚をするということ、これは、夫婦の位置を尋ね求めていくことであり、父母の位置を尋ね求めていくことです。神様と一体になる位置を尋ね求めていく道です」(八大教材・教本『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」、2336頁)と語っておられる。

 

このように、「人間の成長と人生の目標」に関して、それは、幼児が成長して結婚し、父母となり、神様と一体になることであると簡潔・明瞭に語っておられるのである。

 

次に、「神様の成長と人間の成長の関係」について、それがいかなる関係にあるかを知らなければならない。

 

文鮮明師は、この点について、次のように語っておられる。

 

「神様も赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、そのように創造されたのです。」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」、1591頁)

「人間創造とは、神様ご自身が成長してきたことを実際に再度展開させてきたものです。」(同、1590頁)

 

このように、文鮮明師は、「神様ご自身が成長してきた」といわれている。今までの神学は、神様は永遠・不変、唯一・絶対なるお方であると捉えてきたが、「神様の成長」「神様の発展」という概念を知らなかった。これは驚嘆すべき御言(みことば)である。

 

聖書を見れば分かるように、イエス様は、幼少期、青少年期、成人、と成長していかれた。したがって、「神様の成長」という概念が出てきていると言える。しかし、イエス様は、結婚されなかった。上述の文師の御言により、神様とイエス様の願いは、さらに結婚して、「真の父母」になることであったと理解することができる。

 

「神様の願いは『天の父母』になること」

 

アダムとエバは神様の真の相対であると、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「神様の心中にある無形の子女、兄弟、夫婦、父母として、真の愛の実体完成を望んでアダムとエバの二人を創造したのです。それは、神様が実体として子女の真の愛の完成を願い、実体家庭の兄弟として、実体の夫婦として、実体の父母として、神様の真の愛の相対として完成を願われたからです。」(同、「真の家庭と家庭盟誓」、2336頁)

 

このように、アダムとエバは神様の実体として成長し、完成していくというのである。

 

ところで、文師は「アダムとエバの結婚式は神様の結婚式である」と、次のように語っておられる。

 

「横的な父母であるアダム・エバは神様の体であり、縦的な父母であられる神様が心なのです。神様は、アダム・エバの心なのです。ここで心と体が一つになって愛するとき、アダム・エバの結婚式は『体』的な父母の結婚式であると同時に、『心』的な神様の結婚式になるのです。」(『ファミリー』1999年1月号、21~23頁、第39回「真の子女の日」記念礼拝の御言)

 

そして、真の父母になる意義について、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「アダムとエバが真の愛で完成することは、まさに神様が実体を身にまとう願いが成就するのです。………アダムとエバが善なる子女をもって真の父母になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』、29頁、「救援摂理史の原理観」)することなのです。

 

このように、アダムとエバが「真の父母」になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定することであると言われているのである。

神様が「天の父母様」になられるという意義が、ここにあるのである。繰り返して言えば、アダムとエバが「真の父母」として完成すれば、無形なる神様も完成した「真の父母」になるということである。そして「真の父母」の体を用いて、有形なる天地万物を直接主管されるというのである。

 

このように、「真の父母」になることが神から見れば〝創造目的〟であり、人間から見れば〝人生の目的〟なのである。

 

ティリッヒが、次のように言っていたことを想起していただきたい。

 

「『ロゴスが肉となった』というヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、118頁)

 

以上が、神に〝成長〟という概念があるのであり、その「神の成長」という概念から見た「神の自己顕現の原理」に関する解説である。

 

(2)「三位一体と天の父母という神概念の同一」について

 

聖書には、「神の定義」はないという神学者がいるが、聖書によると、神の()姿(すがた)として、無形なる神の有形なる分立実体対象としてアダムとエバが創造されたと定義されている(創世記1・27)。

同様に無形なる神の分立実体対象が、イエスと聖霊(霊的実体)である。したがって、「神―アダム―エバ」と「神―イエス―聖霊」の関係は〝類比関係〟にある。この類比から、三位一体論を再考察する必要性があるのである。

 

統一原理の三位一体論は、「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった」(『原理講論』、267頁)とあり、同様に、「イエスと聖霊は、神様を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(同)と述べている。したがって、三位一体論のエバに対応する聖霊は、〝女性である〟と言えるのである。

 

無形なる「神の本体」は、統一原理によると、真の愛を中心とした「二性性相の中和的・統一体」なのである。神の二性性相とは、神の神的な男性的要素と神的な女性的要素をいう。その無形なる神の二性性相の分立実体対象が、アダムとエバであり、イエスと聖霊なのである。

 

「三位一体」とは、無形なる神様を中心として、有形なるイエスと聖霊が一体となることである。神とイエスが一体であり、神と聖霊が一体なのである。

イエスと聖霊は、アダムに対するエバとの〝類比関係〟にあり、神から分かれた二つは、イエスの復活後、霊的に一つになったのである。これが、伝統的な三位一体論の諸概念の形式から自由な立場で実質を表現した「霊的な三位一体論」なのである。

 

アダムとエバは完成を目指して成長していた。しかし、未成年期でサタンの誘惑によって堕落して人類を繁殖し、「偽りの父母」となった。それで、サタンの支配下で人間は生まれながらにして神から離反(疎外)した存在となっているのである。つまり、人間の疎外は普遍的現実となったのである。

 

第二アダムであるイエス様も、幼少から成長して成人となられ、そして、結婚して「真の父母」となることを願われた。しかし、十字架の死によって肉体を奪われたので、神が実体として父母となることができなかったのである。それで、再臨して実体の父母となる天的使命を果たされることを約束されるのである。

 

アダムの相対がエバである。同様に、霊的イエスの相対が聖霊(女性)である。イエス様は「霊的な真の父母」(霊的な三位一体)になられ、信仰者を霊的に新生されるのである。

イエスの残された〝家庭路程〟を、結婚して歩まれた再臨のメシヤは、実体の神の体として、「実体の真の父母」(実体的な三位一体)として完成された。そして、人類を霊肉両面においてを重生(じゅうせい)(原罪清算)し、サタンの支配圏から人間を解放・釈放されているのである。

 

また、万物の主管者である人間(アダム)の完成は、万物の救いでもあるのである(ローマ8・19-21)。

 

以上のように、イエスの復活である再臨主は、実体の「真の父母」(実体的な三位一体)となられたので、神も「天の父母」になられたのである。

 

結論として、次のように言える。

神を中心とした真の父母は、実体的な三位一体である。無形なる神が有形なる「真の父母」の姿として顕現されているというのである。言い換えると、「真の父母」は神様の体である。

 

存在論から見て、「三位一体」と、神を中心とした「真の父母」は同一である。というのは、「神を中心としたイエスと聖霊」と「神を中心とした真の父母」は同じ様式による「三位一体」であるという意味である。

イエスと聖霊は「霊的な三位一体」となり、真の父母は「霊肉の三位一体」なのである。

 

「霊的な三位一体」と「霊肉の三位一体」の相違について、前者は霊的救いを与え、後者は霊肉両面の救いを与える。

パウロは「神の子たる身分」を授けられるために、「体のあがなわれること」(原罪清算)を待ち望んでいると、次のように述べている。

 

御霊(みたま)の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ8・23)

 

このように、イエスと御霊(聖霊)によって新生した「最初の実」であるキリスト者パウロが、なおも「からだのあがなわれること」を待ち望んでいるのである。

 

したがって、イエスはキリスト者の「からだをあがなわれる」ようにするために再臨されるのである。すなわち、再臨のキリストは実体の神の体として、「実体の真の父母」(霊肉の三位一体)として完成され、そして、人類を霊肉両面において重生(じゅうせい)(原罪清算)し、サタンの支配圏から人間を解放・釈放されるのである。

 

以上が、存在論から見た「三位一体と天の父母という神概念の同一」と「霊的な三位一体」と「霊肉の三位一体」の相違に関する霊的救いと霊肉両面の救いの説明である。

 

無形なる神の有形実体である「真の父母」による霊肉両面の救いは、地上天国(神の国)がそこに現われていることを示している。

 

文鮮明師の八大教材・教本に『天国を開く門 真の家庭』と『平和の主人、血統の主人』がある。この二つの本の表題の意味は深い。「真の家庭」とは、メシヤの家庭のことである。平和の主人、血統の主人とは誰のことなのであろうか。

  ―「補足」の項、以上―

 

 

 



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