ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(23)

(B)「生の自己実現とその曖昧(あいまい)性」

 

次は、「生の過程」は、いかに運動し、いかに発展するか、に関するティリッヒ式弁証法による解説である。

 

彼は、生の過程は「それは自己同一と自己変化と自己への帰還である」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、37頁)という。

すなわち、「生」は「自己同一」(正)――「自己変化」(反)――「自己帰還」(合)と弁証法的に運動し、発展していくというのである。

 

ティリッヒは「生の過程」を次の三つに分析している。

 

(1)「生の自己統一」とその曖昧性

 

「自己統一において、自己同一の中心が確立され、自己変化へと引き込まれ、それがその中へと変化せしめられたものの内容と結びついて再確立される。」(同、37頁)

 

ティリッヒ式弁証法の特徴の一つは、「すべての生には、実在としても、課題としても、中心性がある。」(同、37頁)という点である。この中心性が実現される運動は、生の自己統一という。

 

(2)「生の自己創造」とその曖昧性

 

しかし、現実化の過程は、単に「自己統一の機能」のみではない。「新しい中心を生産する機能」(自己創造の機能)を含蓄しているのである。すなわち、「生」は「自己同一と自己変化」という弁証法的な二つの存在による「内部矛盾」によって働き、生は新しいものへ向かって進むというのである。

 

彼は、この弁証法の運動を「成長の原理」であるという。

 

「自己創造の機能を決定するものは成長の原理である。その成長は自己中心性をもった存在の円環運動の中で行われるし、その円環を越えた新しい中心の創造においても行われる。」(同、38頁)

 

上述のティリッヒの「自己統一の機能」と「自己創造の機能」とは、統一思想的に表現すれば、「自己同一的四位基台」と繁殖の「発展的四位基台」の原理のことである。

 

(3)「生の自己超越」とその曖昧性

 

さて、「可能的なものの現実化する第三の方向は、円環的な方向と水平的な方向とは対照的な方向、すなわち、垂直的な方向である。この比喩は、われわれが自己超越的機能と呼ぶことによって示唆する生の機能を表わすものである。それ自身において、『自己超越』という言葉は他の二つの機能に対しても用いることができる。自己同一から出て、変化を経て、自己同一へと帰ってくる自己統一は、中心性をもった存在内における、一種の内的な自己超越であり、すべての成長の過程において、後の段階は、前の段階を、水平的な方向に超越する。」(同、38~39頁)

 

このように、「生は、その本性からして、それ自身の中にあると同時に、それを越えている」と自己超越を弁証法的に説く。

そして、この自己を超越する生の高揚に対して、ティリッヒは「崇高なるものへの突進」(driving toward the sublime)という語句を用いる。「崇高な」(sublime)、「昇華」(sublimation)、「崇高性」(sublimity)というような言葉は、偉大なもの、荘厳なものへと「限界を越えていく」ことを示すというのである(同、39頁)。

 

このように、ティリッヒは、「中心性の原理の下における自己統一、成長の原理の下における自己創造、昇華の原理の下における自己超越」(同、39頁)について論述するのである。

 

しかし、ティリッヒの「生の過程」の変化・発展に関する弁証法は、科学的にその論理と実在が一致しているかどうかに関して、疑念が表明されている。

したがって、鶏卵や種子などの具体的な例をあげて、彼の弁証法の「成長の原理」、すなわち、(1)「生の自己統一」、(2)「生の自己創造」、(3)「生の自己超越」を検証しなければならない。マルクスの唯物弁証法が検証されなければならないのと同じである。

 

「生の弁証法的記述」に対する問題点

 

マルクス主義は、事物だけでなく、生物や人間も「運動する物質である」と捉える。これに対して、ティリッヒは無機物も有機物もすべて「生の過程」であるというのである。

「星や岩の発生は、その成長や衰微と同様に、生の過程」(同、14頁)であるという。

 

また、次のように、同じ領域で互いに「闘争」するという。

 

「一つの次元の実現は宇宙史内における一つの歴史的出来事である。しかし、それは時間と空間の特定の一点に位置づけることのできない出来事である。永い時代の推移の中で、もろもろの次元が、比喩的な言い方をすれば、同じ領域で互いに闘争する。このことは、無機的次元から有機的次元へ、植物的次元から動物的次元へ、生物学的次元から心理学的次元への推移に関して明白である。これはまた心理学的次元から精神の次元への推移についても真である」(同、31頁)と。

 

ところで、〝闘争〟は明白であろうか。「勝共理論」は次のように述べている。

 

「種子の発芽はその内部の胚芽と種子の外皮がお互いに………相反して闘争しているとは見られない。かえって胚芽は一定期間外皮の保護のもとに成長して、自ら弱化していく外皮の助けをうけて発芽するのである。」(『新しい共産主義批判』、211頁)

 

このように、種子の発芽において相手を排斥する「闘争」という関係は見られない。相手を必要とする「統一」関係のみしか見られない。

ただし、自然界には弱肉強食という〝食物連鎖〟は存在する。しかし、これらの闘争は、マルクス主義が言う「事物は対立物の闘争によって発展する」という法則とは何の関係もないのである。

 

ティリッヒは、へーゲルの弁証法と同様に、すべての存在は内部に矛盾があり、その内部矛盾によって変化・発展し、神から出で、神に帰る過程であると捉え、この過程を「生の過程」として、ティリッヒ的弁証法で論述しているのである。

 

しかし、堕落しているのは人間だけであって、万物ではない。万物には矛盾構造はないと反論しておく。弁証法的構造ではなく、授受法的構造であると。

 

(C)「曖昧ならざる生の探求とそれの予兆としての象徴」

 

ティリッヒは、「生の曖昧性」について、次のように述べている。

 

「すべての生の過程において、本質的要素と実存的要素、創造された善とそれからの疎外とは、互いに合体していて、そのいずれか一方が排他的に働いているということはない。生は常に本質的要素と実存的要素とを含んでいる。これが曖昧性の根源である。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、135頁)

 

ティリッヒによると、この「生の曖昧性」(矛盾構造)が「曖昧ならざる生の探求」へと発展していくというのである。

 

「精神の担い手としての人間においてのみ、生の曖昧性と曖昧ならざる生の探求が意識にのぼってくる。………自己の内面において、精神の諸機能、すなわち、道徳、文化、宗教の曖昧性として経験する。曖昧ならざる生の探求は、これらの経験から起こってくる。この探求は生がそれに向かって自己を超越する」(同、135頁)

 

この生の自己超越は宗教によってなされ、宗教が曖昧ならざる生を探求するというのである。

 

そして、「曖昧ならざる生の探求」の問いに対する答えについて、次のように述べている。

 

「宗教の象徴性は………三つの主要なシンボルを生産した。それは『神の霊』(Spirit of God)、『神の国』(Kingdom of God)、『永遠の生命』(Eternal Life)である」(同、136頁)

 

この三つのシンボルは、「曖昧ならざる生への探求に対して啓示が与える答えの象徴的表現である」(同、137頁)というのである。

 

第3巻の訳者である土居真俊氏は、訳者後記で、次のように書いている。

 

「ティリッヒの『組織神学』は三巻五部から成っている。第一巻には理性の問題が啓示との相関において、また存在一般の問題が神の問題との相関において取り扱われている。(但し、日本訳では、啓示の問題と神の問題とが上下二巻に分けて訳出されているので、全四巻五部となっている。)更に第二巻においては、実存の諸問題がキリスト論との相関において、第三巻においては生の諸次元の問題が霊との相関において、続いて歴史の諸問題が神の国のシンボルとの相関において取り扱われている。」(同、535頁)

 



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