ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(24)
「補足」:「進化論に対する批判」
近代になって、正統派キリスト教を悩ました二つの科学の学説がある。それは、ニコラウス・コペルニクス(1473-1543)とチャールズ・ダーウィン(1809-1882)のそれである。
それまでの中世の世界観は、地球が宇宙の中心(天動説)であり、そこに人間が君臨しているということであった。ところが、コペルニクスは〝地動説〟を主張し、宇宙は広大で地球は浜辺の砂のように小さいと言った。この事実は人々の発想に大転換をもたらし、「もし神が実在したとしても、この地球と人間が、特に神にとって重要な意味を持っているとどうして言えるであろうか」と考え出させるまでに至ったのである。
また、ダーウィンの〝進化論〟は、人間と動物の間に引かれていた一線を取り去り、人間は単に高度に発達した動物にすぎないというのである。
〝進化論〟の影響を受けたハーバード・スペンサー(1820-1903)は、人はアメーバーから現代の発達した状態に進化したと言い、さらに、自然法則によって、より完全なものへと向って発展していくと説いた。
そして、正統神学の〝創造神話〟は、ばかげているという。人間は堕落しなかった、人間は単なる動物の一つにすぎないと言うのである。
また、宇宙の年齢に比べると、問題にならないほど短期間に、今日の文明を築き上げ、人間の前には無限の可能性が約束されていると力説した。
この進化論に関して反論しておかねばならない。
「ダーウィンの進化論は依然として仮説にすぎない」
〝進化論〟とは、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)の出版によって一躍有名になった学説で、その学説(自然淘汰、適者生存)によると、生物は大腸菌のような単純なものから、次々と枝分かれして出現し、最も複雑で高度な存在である人間まで次第に連続的に移行してきたというものである。
今日の進化論者はおおむね、生命が神の力を全く受けずに、無生の物質から発生したと考えている。
生物は、どのようにして地球上に発生したのか(生命の起源)、生物の中に多様な種類が存在するのはなぜか(種の起源)。この二つの問題は、そっくりそのまま哲学的な問題となる。
それでは、ここで「進化論」について、いくつかの疑問点(批判)を論述しておこう。
①「生命の起源」について、――現代何も理論と呼べるものはない
進化論者は、最初の生命はよどんだ水、あるいは大洋の中で「自然発生」したという。つまり、水たまりに自然に虫がわいたという表現で代表されるように、〝無〟から〝有〟が生じたというのである。しかし、よく殺菌消毒すれば何も出てこない。したがって、自然発生ではない、というのが科学上の事実なのである。
米国のプリンストン大学の生物学教授エドウィン・コンクリンは「生命が偶然に発生する確率は、印刷工場の爆発によって大きな辞典ができる確率に等しい」と言っている。
②「突然変異」について
多様な〝種〟は、如何に生じたかということであるが、現代の進化論では突然変異は、宇宙線その他イオン化を起こさせる放射線、細胞内での物質交代、あるいは遺伝子の複製上の誤りなど、環境的な要素によって起きたという。
しかし、遺伝子に突然変異的な変化が起きるのはまれで、遺伝子は普通、正確な自己複製を行うのみである。また、突然変異によって新種が生じると言うが、遺伝子の突然変異の99パーセント以上は機能障害をはじめ、何らかの有害な作用を持つことが、今日科学的に明らかにされている。
新種を発見したとよく聞くが、「種」という概念が曖昧で、構造や形態に何の変化もないものを、ただ少し大きいか小さいかだけのものを、あるいは色が変わっただけのものを、新種と言っている場合が多い。
聖書では、種子を生ずる草とか、這うもの等、その「種類にしたがって」それぞれの生物を創造されたとある(創世記1章)。
その「類」の中に、いろいろな「種」があり、これらは同類のものから変化したと見られる。科学が証明できないのは、一つの類が他の類から進化したということである。
生物学はそのことに関して「突然変異」というが、それを裏付ける決定的な事実はない。したがって、人間は決して他の下等動物から進化したものではないと考えられる。聖書がいうように、人間はもともと種類の一つとして創造されているのではなかろうか、ということである。
だだし、神の新しい創造の力が加わることによってAからBに、すなわち、ある種類を基にして、そこから他の種類に突然変異していったと考えられる。しかし自然に、ではない。
③熱力学の第二法則について
熱力学の第二法則によれば、孤立系の中ではエントロピーは増大し、この増大は、秩序が減少する方向へと不可逆的に進行する。つまり、すべての自然の過程は、無秩序が増大する方向へと進むというのである。
換言すると、この大自然の秩序は徐々に崩壊しながら混沌へと進んでいくというわけである。
この法則を進化に関連させて考えると、彼らが言うように偶然の作用のみならば、事物はむしろ、ばらばらの方向へ、無秩序、非組織化の方向へ進行するはずである。
このことは、無神論的進化論が自然に単純なものから複雑なものへ、秩序化の方向へと進化していったというのであるが、そのことを、自然法則自体が否定しているということを意味する。
したがって、この絶対的なエントロピーの法則に反して、「偶然」が生命を発生させ、それが、より組織化され秩序化されたものへと進化してきた、とは言えないのである。
だが彼らは、事実は進化してきたと言う。しかし、それは彼らの進化に対する理論的説明が虚偽であり、虚構であることを科学的に暴露されたことに対する反論ではなく、ただ進化してきたという事実確認にすぎないというのである。
〝なぜ〟という問いに対する答えではない。われわれは、エントロピーの法則に抗して何か他の創造的な力が常に働いて、秩序化の方向へと進んできたと見るのである。AからBに進化する新しい力は、いずこより来るのであろうか。新たな進化する力は、生物自体の内にはない。外から内に入ってきたと考えざるを得ないのである。
④中間型の不在について
進化は、微妙な突然変異の連続的移行であり、生物の化石も類と類の間の変化を表わす連続的なものが発見されなければならない。
けれども、実際において、中間の化石はいまだに発見されていない。
キリンの首がだんだん長くなっていったというのは、人間の妄想によるイラストレーションであって、漸次的に進化していったという科学的根拠としての化石はない。
進化は、何万年という長い年月がかかって漸次的に進化するといわれるが、化石でなくても、現代の生物は何万年と生命を継代して現代に繋がっているのであるから、その中にAからBになりつつある生物が一つぐらいあってもよいはずである。
しかし、海でも陸でも空でも、世界にある現代の生物において、種類(類)に従いAからAが、BからBが生じ、AからBになりつつある中間の存在者は、一つも存在しないのである。
すべて完成した個性体である。つまり、AからAであって、AからBへの進化の連続性は、化石においても、現代の生物においても、見られない。
聖書に、神の創造は終わった(創世記2・2)とあるが、このことと関係があるのだろうか。それにしても、進化する力はいずこから来たのであろうか。
⑤「目」について
文鮮明師は「目の先祖」と表現してユーモアたっぷりに語っておられたが、まだ物を見たことのない生物は、〝目〟があれば便利であると、どうして知ることができたのであろうか。
目は、角膜、瞳孔、虹彩、神経、筋肉、血管など、多くの複雑で繊細な部分が互いに連結してできているが、これらはすべて、同時に進化しなければならないのである。そして、部分的に発達した〝目〟はむしろ大きな障害となるのである。
文鮮明師は、〝目〟について、次のごとく述べておられる。
「動物世界では、生まれると時に、まず目が最初に生ずるようになっています。目自体は物質です。目は生まれる前から、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。物自体である目は何も知らずに生まれてきましたが、太陽を見られるように生まれたということは、目が生まれる以前から、太陽のあることを知っている存在があったことになります。すなわち、目は太陽があることを知っていて生まれたのです。
目自体は、空気があることも,埃が飛び散っていることも、蒸発による乾燥があることも知らなかったとしても、既にそれを知っている存在があって、目を守るために、瞼が準備されたり、涙腺をもって防備させたりするのです。
結論を言えば、このように、私たちは思惟と存在、精神と物質、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論、等々の問題を解決することができるのです。したがって、すべては確実に、神によって創造されたということを否定することはできません。」(『祝福家庭と理想天国(1)』、86-87頁)
ダーウィンも「種の起源」の中で、こうした点に触れ、彼は、目は多くの「過渡的」な段階を経て進化したと説明している。
しかし、現実の〝目〟を有する動物を調べても、「過渡的」なものは一つも見いだせない。これと同じことは〝耳〟や、無性生殖の生物から有性生殖の生物の進化における〝生殖器〟の発生に関しても言えることなのである。
⑥「種の起源」
海や陸に棲息する生物、また、空を飛ぶ生物等に〝多様な種類〟があるのはなぜか。
同じ環境の中にあるのに、なぜタコやエビや魚貝類など、無数の形態の相異ができたのであろうか。
馬と牛は、同じ環境のもとにあって草を食べるが、なぜ牛の爪は割れ、馬はそうでないのか。
獲得形質は遺伝しないといわれているが、これらの多様性は単に要不要説、適者生存説、種族保存の本能だけで説明できない。
ゆりやバラや蘭などの草花に、なぜ無数の形と色が存在するのであろうか。人間以外の動物が、それらを鑑賞し愛でるであろうか。人間以外にないのである。
同じ環境のもとにある鳥の形と大きさ、色彩等の美しさ、その鳴き声等々の多様性についても、同じ問いが生じるのである。
⑦『新創造論』による無神論的進化論に対する指摘
統一思想研究院から無神論的進化論に対して、次のような問題点あると指摘されている。
「①DNA、RNA、リボゾーム等からタンパク質合成のシステムがいかに発生したか?
②生物のエネルギー源としての光合成のメカニズムや酵素呼吸のメカニズムはいかにして発生したか?
③生物に必要な約2000種の主要な酵素いかにして発生したか?
④細胞分裂のメカニズムはいかにして発生したか?
⑤有性生殖はいかにして発生したか?
これらは、どれ一つをとってみても、自然に発生したとは、とても考えられないものばかりです。」(李相憲監修『進化論から新創造論へ』、統一思想研究院、光言社、61-62頁)
以上のごとく、進化は事実であるが、その客観的な事実に対する解釈において、ダーウィンの進化論は、科学的な「事実」と一致しない〝虚偽の解釈〟であるというのである。
このような憶測や曖昧な〝仮説〟である進化論を、多くの人々は学校で教育され、信じさせられているのである。
―「補足」の項、以上―
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