ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(33)

(C)「歴史解釈と神の国の探求」

 

(1)「歴史解釈の本質と問題」

 

歴史の意味についての問いに対する答えは、いかにして可能であろうか。

 

ティリッヒは、歴史的行動に対する召命意識のみが、歴史の解釈に基礎を与えるといい、その召命意識は歴史解釈への鍵であると次のように述べている。

 

「鍵を決定し、歴史解釈の道を開示するものは、前に述べた召命意識である。たとえば、アリストテレスの『政治学』(Politics)に示されたような、ギリシア人の召命の自己解釈は、ギリシア人と未開人との対照の中に、歴史解釈の鍵を見出し、ユダヤ人の召命についての自己解釈は、預言文学に示されているように、ヤㇵウェによる世界の国々の支配の確立の中に、そのような鍵を見た。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、440頁)

 

ここで問題なのは、いかなるグループが、またいかなる召命意識が、全体としての歴史への鍵を与えるのかという問題である。

 

ティリッヒによると、「鍵と答えとが発見されるのはキリスト教である。キリスト教の召命意識においては、歴史は歴史的次元の下における生の曖昧(あいまい)性の中に含蓄(がんちく)された諸問題は、『神の国』(Kingdom of God)のシンボルによって答えられるような仕方で把握されている」(同、440-441頁)というのである。

 

「歴史の解釈は歴史の問題に対して、一つ以上の答えを含蓄している。歴史は生のすべてを包括する次元なるがゆえに、歴史的時間はそこにおいて、すべての時間の他の次元が前提されている時間なるがゆえに、歴史の意味についての答えには、存在の普遍的意味に対する答えが含まれている。歴史的次元は、ただの従属的次元としてではあっても、生のすべての領域に存在する。人間の歴史において、それは本来の歴史となる。しかし、それが本来の歴史となった後も、それは、それ自身の中に、他の次元の曖昧性や問題を抱え込む。神の国のシンボルについて言えば、それは『国』(Kingdom)がすべての領域の生を包み込む、またはすべて存在するものは、歴史の内的目的、すなわち成就または究極的昇華へ向かっての前進に参与することを意味する。」(同、441頁。注:太字は筆者による)

 

このように、歴史の意味について、その答えである「神の国」のシンボルは、「すべての生の領域」を包み込むと断定しているのである。

しかし、これは一つの解釈を含んでいる。そこで問題なのは、歴史の内的目的についての特殊な理解は、いかにして記述され、正当化され得るかという問題である。

 

ティリッヒは、「人類の救済の理念」が正当化の根拠となるというのである。

 

(2)「歴史の意味の問題への答えとしての『神の国』のシンボル」

 

 a. 「『神の国』のシンボルの特質」

 

歴史の目的と意味とは、救済史(再創造史)であり、霊的現臨とキリストによる「神の国」の創建である。ティリッヒは、これまで論述した結論を次のように述べている。

 

「生の曖昧性の3つのシンボルについての章において、われわれは『神の国』のシンボルの『霊的現臨』(spiritual presence)および『永遠の生命』のシンボルに対する関係について論述した。われわれが発見したことは、それらの一つ一つは他の二つを含んではいるが、象徴資料の相違のゆえに、霊的現臨を人間精神とそれの諸機能の曖昧性に対する答えとし、神の国を歴史の曖昧性に対する答え、そして『永遠の生命』を生一般の曖昧性に対する答えとすることが正当であるということであった。」(同、449頁。注:太字は筆者による)

 

このように、霊的現臨の啓示である「神の国」と「永遠の生命」という人類救済の理念が、歴史の意味の正当化の根拠であるというのである。

 

この神の国のシンボルの特徴は、政治的、社会的、人格主義的であり、普遍性であるという。ただし、それは「人間のみの王国であるのみではなく、すべての次元における生の成就を含蓄している」(同、451頁)というのである。

 

ティリッヒは、「パウロはこれを『神はすべてにおいてすべてである』(God being all in all)というシンボルで表現し、また歴史の動態が終結した時は『キリストは歴史の支配を神に帰する』(the Christ surrendering the rule over history to God)と言う」(同、451頁)と述べている。

 

「真の父母様」(文鮮明師夫妻)は、摂理を「完成・完結・完了した」といわれ、「すべてを成した」と公言された(2012年天暦8月8日〈陽暦9月23日〉、真のお父様が聖和されてから21日目の早朝の真のお母様の御言(みことば))。

そして、「既に神の直接主管圏時代に進入している」と宣言された。(天一国経典『天聖経』、「平和メッセージ」〈天地人真の父母定着実体み(ことば)宣布天宙大会〉、1451頁)

 

上述のごとく、 「歴史の動態が終結した時は『キリストは歴史の支配を神に帰する』」とあるように、人間始祖の堕落によって始まった罪悪歴史の縦的なすべての蕩減条件を、真の父母様が一時に、横的に蕩減復帰され、天宙の支配を神に帰されたので、「既に神の直接主管圏時代に進入している」というのである。

 

(五)「歴史の中なる神の国」

 

(1)「救済史の理念」

 

ナザレのイエスはキリストであり、歴史における〝新しき存在〟の究極的顕示である。

われわれは霊的現臨とそれの顕示とを、それらの歴史の動態への参加の観点からみなければならない。これは救済史の啓示史に対する関係の問題である。啓示のあるところに救いがある。救いのあるところに啓示がある。

ティリッヒは、歴史の救済史に対する関係の問題は、しばしば進歩主義的歴史観に結びついているという。

 

(2)「歴史における神の国の中心的顕現」

 

歴史における神の国の顕現が、如何なるリズムを取るにせよ、キリスト教はキリストとしてのイエスの顕現を「歴史の中心」と考える。

歴史は、未熟から成熟への運動である。人類は、そこで歴史の中心が現われ、中心として受け入れられる点まで、成熟しなければならなかった(同、459頁参照)。

言うまでもなく、歴史における神の国の顕現の普遍的中心は、キリストに基づいている。

 

(3)「カイロス」

 

神の国の中心的顕示の突入を受容することができる点まで成就した瞬間を、新約聖書は「時間の成熟」(fulfilment of time)、ギリシア語の「カイロス」と呼んだ。

 

「バプテスマのヨハネによっても、イエスによっても、彼らが『近づいている』(at hand)神の国について、時の充満を宣言される時に用いられた。パウロは、神がみ子を遣わされるであろう世界史的な瞬間について語るとき、カイロスを用いた。」(同、465頁)

 

周知のように、カイロスの経験は、教会の歴史においてしばしば起こった。

 

(4)「歴史的摂理」

 

ティリッヒは、「摂理は決定論的な仕方で理解されてはならない。すなわち、神の構想が『世の創造の前』(before the creation of the world)に決定されて、今その過程を走りつつあるが、いつかは神が奇跡的に干渉したもうであろうという意味においてである。

このような超自然主義的機械論ではなくて、われわれは神と世界との関係に対して自由と運命との根本的・存在論的両極性を適用し、神の志向的創造性は被造物の自発性と人間の自由とを通して働く」(同、468頁)と主張する。

 

 

また、彼は、多くの人が「歴史的摂理の具体的構図を描こうと試みた」が、「誰もヘーゲルほどに豊かで具体的ではなかった」(同、470頁)という。

ティリッヒは、「シュペングラーの発生と没落の法則、トインビーの一般的範疇(はんちゅう)、すなわち、『退潮』(withdrawal)と『帰還』(return)、『挑戦』(challenge)と『応問』(response)の場合に例示されているように、歴史の動態におけるある種の法則性に自己を抑制する。このような試みは具体的運動に対する、貴重な洞察を与える。しかし、それらは歴史的摂理の構図を提供しない」(同、470頁)という。

 

上述のティリッヒの見解に対する原理的批評を述べておかなければならない。

ティリッヒのいう「歴史的摂理の構図」とは、統一原理の復帰原理のこととわれわれは理解する。ただし、誰も歴史における「摂理的同時性」に関しては解明できないというのである。

蕩減(とうげん)」あるいは「蕩減復帰」という言葉がわからなければ、旧約時代と新約時代の「歴史的摂理の構図」(歴史の同時性)に関しては、想起することすらできないであろうというのである。

 

彼は上述のように、神の摂理は「人間の自由と運命を通して働く」と主張してはいるが、この教説は、従来からある「自由と必然」の関係を「自由と運命」と言い換えただけのことであり、神の摂理と人間の責任分担に関しては不明瞭である。

 

また、必然とは、神の予定の絶対性を意味しているのである。つまり、人間は自由であるが、その自由は必然的な運命の中での自由であり、結局、絶対的な神の予定通りになるというのである。

 

このように、ティリッヒの教説は機械論的決定論ではないが、「自由と運命」の相関論によって、歴史の前進は究極性へと向かい、「神の国」は必然的に成就するというのである。

 

しかし、今まで終末は何度もあり、神の摂理は何度も延長されてきた。

先に述べたが、「自由と運命」は機械論的決定論ではない。しかし、神の予定は絶対であるとする。イエスが「時は満ちた、神の国は近づいた。」(マルコ、1・15)と宣言されても、神の国が顕現しなければ、まだ終末ではなかったとされるのである。

また、来臨の時は奇跡的に突然顕現するのであるから、その時と場所については知る必要性はないのである。

 

統一原理から見れば、現在が聖書でいう「時間の成熟」した時であり、終末であることを知ることができる。しかし、統一原理を知らないキリスト者は、「終末の時」がいつかに関してはわからないのである。

しかしながら、キリスト者は、神の国は超自然的な力の干渉によって実現されると信じているのであるから、その時を知る必要性はないのである。

 



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