ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(34)

(六)「歴史の目標としての神の国」

 

(1)「歴史の目標または永遠の生命」

 

ティリッヒの哲学と神学の相関論は、どの編も難解である。「歴史の目標」(終末論)と「永遠の生命」(神の国)についても例外ではない。

ティリッヒは、終末論のシンボルである〝天変地異〟や〝火の審判〟や〝空中で主に会う(空中掲挙(くうちゅうけいきょ))〟などに関して、彼特有の哲学的表現でそれらを「()神話(しんわ)化」(実存的に解釈)している。

この難解な文章は、統一原理の終末論と対比しながら見れば、理解することができるであろう。

 

(2)「『歴史の目標』と終末」

 

ティリッヒは、終末について次のように述べている。

 

「宇宙の発展の或る時、人類歴史、地上の生命、地そのもの、それに属する宇宙の段階は終わりに到達し、時間と空間に存在をもたなくなるであろう。この出来事は宇宙的時間の過程における小さな出来事である。しかし、endはまた目標をも意味する。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、496頁)

 

このように、歴史のendは、また目標をも意味するという。そして「歴史のテロスの意味における歴史の終わりは『永遠の生命』(eternal life)である」(同、497頁)というのである。

 

彼は、「『歴史の終わり』(end of history)の教説に対する古典的な言葉は『終末論』である。ギリシア語の「エスカトス」(eschatos)は、英語のendのように、時間-空間的意味と質的-評価的意味とを結合している。それは時間と空間における最後のもの、最も遠いもの、最も高いもの、最も完全なもの、最も崇高(すうこう)なものを指すが、時にはまた価値において最も低いもの、極端に否定的なものをも指す」(同、497頁)と弁証法的に述べている。

 

善(積極的なもの)と悪(積極的でないもの)に対する最後の審判、すなわち、その日に起こるすべての出来事は、「最後の事ども」(the last things-ta eschata)と呼ばれる。

「焼き尽す火」(burning fire)は、「積極的であるようによそおって、実はそうでないものを焼きつくすのである。積極的なものは何も焼かれない。いかなる裁きの火も、神の怒りの火さえも、それはできない。なぜなら、神は自己を否定できないし、すべての積極的なものは存在そのものの表現だからである。……存在するものは何も究極的に無化(むか)され得ない」(同、502頁)と述べている。

 

〝最後の審判〟についての原理的見解は、聖書に「舌は火である」(ヤコブ、3・6)とある。したがって、火は舌の審判、すなわち御言(みことば)の審判であり、御言で悪を審判すると解釈している。

イエス様も、「わたしの語ったその言葉が、終わりの日にその人をさばくであろう」(ヨハネ、12・48)と語っておられる。

 

終末に関する多くの出来事の神学的意味について、ティリッヒは次のように実存的に解釈している。

 

「終末論の神学的問題は起こるであろう多くのことからなっているのではなく、一つの『こと』(thing)とは言っても『事』ではなく、時間的なものの永遠的なものへの関係からなっているのである。もっと詳しく言えば、時間的なものから永遠的なものへの『推移(すいい)』を象徴するものであり、それは創造の教義における永遠なものから時間的なものへの推移、堕落の教義における本質から実存への推移、救いの教義における実存から本質への推移に似た隠喩(いんゆ)である。」(同、497頁)

 

このように、「終末論的問題はeschataからeschatonへのこの還元(かんげん)によって、直接的な実存的意義を与えられる」(同、498頁)というのである。

つまり、終末の多くの出来事は文字通りに起こる出来事ではなく、時間的なものの永遠的なものへの『推移』を象徴しているというのである。

 

すなわち、創造の教義における永遠なるものから時間的なものへの推移、堕落の教義における本質から実存への推移や救いの教義における実存から本質への推移に似た〝隠喩〟であるというのである。

ティリッヒは、終末はいつ来るのか、という問いに対して、次のように答えている。

 

「過去と未来は現在において出会う。そして両者は永遠の『今』(now)に含まれている」(同、498頁)。

「エスカトーンは、その未来的次元を失わずして、現在的経験の問題となるのである。われわれは今永遠に面して立っている。しかもわれわれは前方に向かって歴史の終りを見ている。すべての時間的なものの終りを永遠において見ている」(同)というのである。

 

 

このように、ティリッヒは終末の出来事について、象徴であるとか、隠喩であることを強調し、実存から本質へ推移するごとく、歴史の「目標」は「神の国」と「永遠の生命」(eternal life)であるというのである。

(3)「個々の人格とその永遠の生命」

 

ティリッヒは、「永遠の生命に対する個人の参与に対して、キリスト教は『不死』(immortality)と『復活』(resurrection)の二つの言葉(永遠の生命それ自身のほかに)を用いる。二つのうち『復活』(resurrection)のみが聖書的である。

しかし、『不死』(immortality)はプラトンの霊魂(れいこん)不滅(ふめつ)の教説の意味において、キリスト教神学の中で、非常に早くから用いられた」(同、515頁)という。

 

彼は、「永遠への参与は『死後の生命』(life hereafter)ではない」(同、516頁)という。なぜなら、永遠への参与は「死後における時間的生命の継続を意味するものではな(い)」(同)からであるというのである。

 

確かに、原理的に見ても、人間は死後、霊界で〝霊人体〟(霊のからだ)で永生するが、再臨のメシヤによって祝福されていない人は、ティリッヒが意味する永遠の生命に参与していない。

 

それでは、「永遠の生命」について、彼はどのように説いているのであろうか。

「霊魂不滅」(immortality of the soul)については、「それはキリスト教の霊の概念に矛盾する。霊は存在のあらゆる次元を包含(ほうがん)し、『肉体の復活』(resurrection of the body)というシンボルと両立しない」(同、516頁)という。なぜなら、「霊魂不滅」は、肉体でもって永遠に生きるというキリスト教の教説と矛盾するからである。

 

一方で、彼は、アリストテレスは形相(けいそう)質料(しつりょう)という存在論の中で「霊は生の過程の形相である」(同、516頁)とするが、この説で理解可能となるのではないかという。

しかし、なお問題が残るという。それでティリッヒは、「死後における人間の永遠の生命への参与は、高度に象徴的な熟語『からだの復活』(resurrection of the body)によってより適当に表現される」(同、518頁。注:太字は筆者による)というのである。

 

「肉体の復活」だと肉体で永生するという教説を信じなければならないのかという疑念が生じる。したがって、ティリッヒは「からだの復活」と言い換える。

そして、この「からだの復活」は、パウロ的シンボルである「霊のからだ」(Spiritual body)と解釈する方が好ましいというのである。

 

神の霊と復活の体について、彼は次のように述べている。

 

「パウロは肉と血とは神の国を()ぐ(inherit)ことはできないと主張する。そして、この『物質主義的』(materialistic)な危険に対して、復活のからだを『霊的』(Spiritual)と呼ぶ。霊、これはパウロ神学の中心概念であるが、人間の精神に現臨し、それに侵入し、それを変容し、それ自身を越えて高める神である。そこで霊のからだは霊的に変革された人間の全人格を表現するからだである。」(同、519頁。注:太字は筆者による)

 

このように、「肉体の復活」を「復活のからだ」と言い換え、この「復活のからだ」を「霊的」(Spiritual)と呼ぶと言い、『肉体の復活』と聖書の「霊のからだ」(コリントⅠ、15・44)をたくみな表現力で一致させる。さらに、「神の霊」(聖霊)との関係で「霊のからだ」(Spiritual body)は霊的に変革されると説明を加えている。

 

このように、肉体で永遠に生きるというキリスト教の教説に疑念を持たれないように、あれこれ叡智(えいち)(しぼ)って説いていくのである。

そして、彼は、キリスト教が「復活のからだ」を強調することは、「個々の人格の独自性の永遠の重要性に対する強い肯定を含蓄(がんちく)している」(同、520頁)と、その意義を述べている。

 

また、「天国」(heaven)や「地獄」(hell)は、「シンボルであって、場所の記述ではない」(同、526頁)と実存論的に解釈している。

 

以上のように、ティリッヒの神学は、現在の最高の実存論的解釈であると言われる所以(ゆえん)が、ここにあるのである。

 



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