ブルンナー「出会いの神学」(5)
(B)ブルンナーによる「宗教改革の思想」について
ブルンナーは、バルトに反論して、「わたしの主張はトマス主義的でもなければ新プロテスタント主義的でもなく、すこぶる宗教改革的である」(ブルンナー著『自然と恩寵』、154頁)といい、「ブルンナーの自然神学がトマス的であるならば、カルヴァンの自然神学はもっとトマス的である」(同)と主張する。
(1)「カルヴァンの自然神学」(「自然の啓示」と「聖書の啓示」)
ブルンナーは、カルヴァンの自然という概念は近代的な言葉の用い方におけるのとは全く違った意味を持っている。自然は、精神あるいは文化と対立するものではないというのである。
彼は、宗教改革者カルヴァンの「自然観」について、次のように述べている。
「カルヴァンにおいては、自然は存在の規範という概念と同様のものである。そして数え切れないほど、頻繁に次のような表現が繰り返されている。『自然ハ教エル』(natura docet)。『自然ハ語ル』(natura dictat)。それは、カルヴァンにとっては『神が教える』というのとほとんど同じ意味である。詳しく言うならば、天地創造の時以来、世界に刻印せられた神の意志、すなわち神的な世界規則(Weltregel)が教えるということと同じである。それ故に、カルヴァンにとっては、自然法(lex naturae)という概念を、創造の秩序という概念と同様に用い、しかも両者をほとんど同じ価値、同じ意味のものとして用いるということは全く自明的なことである。自然法と創造の秩序というこれらの両方の概念は到るところで頻繁に用いられている。」(『自然と恩寵』155頁)
このように、ブルンナーは、カルヴァンの自然は存在の規範という概念と同様のものであると言うのである。
そして、彼は、キリスト者にとって自然的神認識は不可欠であると次のように述べている。
「聖書から得られる神認識に対する重要な補充である。確かに自然の中での神認識は、たとえて言うならば、われわれは自然の中で、神の手と足を認識するが、しかし神の心を認識しない。神の知恵と全能を認識するし、そしてまた神の正義、否、親切をさえも認識する。しかし罪を赦す神の憐れみを、無条件的に交わりを欲する神の意志を、認識しない。しかし、自然的神認識のこの不完全さは、少しもそれを過小に評価するための理由にはならない。神の言葉によって教えられた者も、そのような自然的神認識を欠くことはできない。神の言葉によって教えられた者は、自然的神認識を必要とするばかりでなく、自然的神認識によってまた特に促進せしめられるゆえに、自然的神認識に対して義務がある。」(『自然と恩寵』157頁)
ところで、バルトは「聖書のみ」と言って、「自然の啓示」を排斥する。この見解に対して、ブルンナーはどのように見ているのであろうか。
彼は次のように述べている。
「自然の啓示は、聖書を通じて明瞭化されると同時に、補充される。聖書は『レンズ』として役立つ。換言すれば、聖書は自然の啓示の拡大鏡として役立つ。別の譬(たと)えを用いて言うならば、聖書の啓示を通じて、自然の啓示の中での神の声は非常に大きくされるので、眠っている人間は、さもなければ聞き過ごしてしまう自然の啓示の中での神の声をきかざるをえなくなる。そして、二番目に、聖書はわれわれに神の心を示す。しかし自然の啓示の中では、少なくともその神の心の最も内面の奥義はわれわれに明らかにされない。いずれにしても、聖書の啓示によって自然の啓示は決して余計なものとなってしまわない。逆に聖書によって初めて、自然の啓示はまさしく効力を発揮する。そしてほかならぬ聖書の中においてこそ、われわれは自然の啓示に注意するよう教えられる。」(同、157頁)
このように、「聖書によって初めて、自然の啓示はまさしく効力を発揮する」というのである。
そして、ブルンナーは、「この関係はなおまた特別に、神的意志の認識について、すなわち律法と自然の秩序についても言える。われわれは、神の律法を理性の中で、あるいは良心の中で、知る」(同)と述べている。
「『殺すな、姦淫をするな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』」(マタイ19・18-19)という戒めは、理性の中で、良心の中で、知るということである。
ブルンナーは、創造の秩序とカルヴァン的な倫理の関係について、次のように述べている。
「自然法は、まさしく神の創造の意志(Schöpfungswille)だからである。それと同じことが、もろもろの秩序についても言える。創造の秩序、あるいは自然の秩序は同様に、罪によって幾分暗くされており、キリストからして再び、新しく認識されなければならない。しかしまさしく、これらの自然の秩序は、キリストからして、創造の秩序として新しく認識されなければならないのである。創造の秩序の上に倫理を打ち建てようと欲し、しかもカトリック的とならない神学者は、素人であると、もし現代のある一人の神学者があえて主張するなら、この判決を受ける第一人者はカルヴァンである。カルヴァン的な倫理は、創造の秩序の概念なしには全く考えられない。しかしここで、倫理について語る前に、カルヴァンの自然神学に関するもう一つの概念が展開されなくてはならない。その概念は、彼の倫理にとって基本的なものなのである。それはすなわち、神の像の概念である。」(『自然と恩寵』157-158頁)
このように、カルヴァン的な倫理は、創造の秩序の概念なしには全く考えられないという。彼の倫理にとって、基本的なもの、自然神学に関するもう一つの概念、すなわち、それは「神の像」の概念であるというのである。
(2)「神の像」について
ブルンナーは、その「神の像」について、次のように述べている。
「神の像の概念は、カルヴァンの人間論の基本概念である。この神の像の概念の取扱いの中で、カルヴァンはまた、ほかのところではほとんど見られないほどはっきりと、彼の神学全体の関連を、なかんずく自然神学と、その言葉の狭い意味での啓示神学(theologia revelata)との間の関連を明らかにしている。神の像は、一方においてはキリスト論を指し示す、なぜならば、キリストはあの摸像である人間の像(imago)に対する原像であるから。しかし、神の像は、神の像の完全な内容がただキリストと聖霊を通しての『回復』(reparatio)、『再生』(regeneratio)からしてのみ、認識されるかぎり、さらにより明確に、救済論を指し示す。特に好んでカルヴァンは、イエス・キリストへの信仰を通して起こるところの『再生』の内容全体を、『像の回復』(reparatio imaginis)という概念といっしょに結びつけている。『再生』および『回復』というこれら二つの規定でもって言われていることは、『神の像』の概念は、キリスト教神学においては、ただまさしくこの像の喪失としての罪の概念と関連づける時にのみ理解されることができる、ということである。」(同、158頁)
以上のように、「神の像」は人間論の基本概念であり、また、キリスト論と救済論に関連する根本概念であると述べている。
ところで、「神の像」は男だけを指し示すのではない。神は「神の像」としてアダム(男)とエバ(女)を創造されたのである。したがって、統一原理は、神は男性性相と女性性相の「二性性相」であるというのである。
ちなみに、ティリッヒは、女性的要素の排除について次のように述べている。
「キリスト以後5世紀から今日に至るまで聖処女(Holy Virgin)の表象が象徴的能力をもってきたということは、神と人間との間におけるすべての人間的仲保者に反対して戦われた宗教改革の戦において、この象徴を徹底して排除したプロテスタント・キリスト教に対して一つの問題を提起する。この追放によって、究極的関心の象徴的表現における女性的要素はおおむね排除された。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、369-370頁)
今後、神学的に神の女性的性相が、あるのか、ないのか、が問題となるであろう。神概念を存在論的に論述している統一原理は、「自然の啓示」と「聖書の啓示」を根拠とし、神は男性性相と女性性相の二性性相であると述べている。
ところで、「神の像」と救済論との関係で、ブルンナーは「キリストと聖霊を通しての『回復』あるいは『再生』」と述べている。この彼の「回復」「再生」という表現を、バルトから和解によって「新しい人間、新しい被造者となった」ということは「人間の回復能力を全然考慮に入れることのできないようなものである」(バルト著『ナイン!』212頁)と批判されるのである。
ティリッヒは、「回復」「再生」と言わずに「新しい存在」といい、統一原理は「重生(新生)」と表現している。「重生(新生)」とは、新たに生まれるという意味である。
イエスは、ニコデモと次のような対話をしている。
「『だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』。ニコデモは言った、『人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか』。イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。…』」(ヨハネ3・3)
この対話の意味を原理的に解説すると、「水」とは洗礼のことであり、「霊」とは聖霊のことである。それで、下記のごとく『原理講論』では、聖書の「霊」という言葉を〝聖霊〟と言い換えて、「聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない」と述べているのである。
また、新たに生まれるためには父母がいなければならない。したがって、イエスが「真の父」であるなら、聖霊は「真の母」であると述べているのである。
また、ニコデモの問いである「もう一度、母の胎にはいって生れる」とは、いかにして原罪を清算するのかという問題に関するものであって、「生れる」とは、人間は罪人として生まれた堕落の経路と反対の経路を遡行して、再び新しく生み直してもらうことを意味する(重生)。「霊から生まれる者は霊である」とは、十字架の死後、復活した霊的イエスと聖霊から霊的に重生(新生)したキリスト者のことである。
ところで、ブルンナーは、一方において、確かに「人間は聖書の中での、あるいはイエス・キリストの中での、啓示なくしても、自然の中で神を認識する能力を持っているのである」(『自然と恩寵』160頁)と述べている。この主張がバルトの目に留まり、「否!」と批判されたのである。
しかし、他方において、「主観的な自然という意味での自然神学は、われわれがキリストの中で持っているところのよりよい認識によって、全く余計なものとして、効力を失わしめられる。しかしキリストこそは、この不完全であるばかりでなく、また常に不真理によってゆがめられた主観的・自然的神認識の代りに、われわれに真の自然神学、神の業の中での神のまことの認識を取り戻す方である」(『自然と恩寵』、160頁)と述べている。
ブルンナーの言う「正しい自然神学」とは、統一原理に他ならない。
神によって創造された自然は、ペア・システムとして存在する。したがって、統一原理による存在論からの神認識は、神は二性性相(男と女)であると捉えている。
しかし、バルトは「聖書のみ」と言って自然神学を排除し、存在論から創造神を見ようとしない。バルトは、聖書から「三位一体の神」というが、神の女性的性相を捉えることができないのである。聖書には「神の像」として、神はアダム(男)とエバ(女)を創造した(創世記1・27)と述べている。
したがって、神には男性的要素と女性的要素の二性性相があるのである。この神概念は、存在論(自然の啓示)と聖書の啓示の二つの啓示から捉えている。
文鮮明師は「宇宙の根本」の中で、次のように述べておられる。
「力よりも作用が先です。作用は、一人ではできないのです。必ず主体と対象がなければなりません。この宇宙は、ペア・システムの原則、公式に立っています。ペア・システムになっているというのです。結論がそうです。世界がどれほど簡単か見てください。鉱物世界も相対でできています。すべてそのようになっています。植物もペア・システム、動物もペア・システム、人間もペア・システムになっています。神様も二性性相です。それは、永遠の真理であり、公式です」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」1578頁)
さらに、「宇宙の根本は愛である」(同、1583頁)、「人間は万宇宙の愛の中心」(同、1589頁)、「天地をペア・システムで、造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です」(同、1600頁)と述べておられる。
ブルンナーは、「自然の啓示と聖書の啓示との関連性は、最後にカルヴァンが、倫理に関して神の像をどう用いているかということの中で示される。……正しい自然倫理(ethica naturalis)は自然神学と同様、ただキリストにあってのみ完成される。」(『自然と恩寵』161頁)と述べている。
上述の言葉は、文鮮明師の御言をキリスト教会に受容可能にする〝洗礼ヨハネ的な発言〟であるといえよう。
ブルンナーによると、「以上が、大ざっぱに言って、カルヴァンの自然神学である。それはまた、すべての本質的な点において、ルターの自然神学でもある」(ブルンナー『自然と恩寵』162頁)というのである。
ここに至って、争点がより明確になる。宗教改革的というのは、ブルンナーが主張するように、「二種類の啓示」(「自然の啓示」と「キリストの啓示」)から自然神学を肯定することなのであろうか。
あるいは反対に、バルトが「恩寵のみ」「聖書のみ」と主張するように、自然神学を否定することなのであろうか。
これは、統一教会の神学思想と、「統一原理」を批判する日本基督教団の一部の神学者や牧師らとの〝対立点〟でもある。
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