シュヴァイツァー3 信仰義認論への挑戦(3)

「『キリスト神秘主義』と『思索』」(信仰義認論に対する根源的な批判)

この聖餐問題(パンとぶどう酒)が端緒となって、彼の著『イエス伝研究史』(1906年)に見られるように、18世紀から19世紀にあらわれた近代自由主義神学の『イエス伝』を研究して批判し、さらに『使徒パウロの神秘主義』(1930年)において、「パウロの教義」(「信仰義認論」)を「キリストとの合一」による「キリスト神秘主義」であるという。この新解釈は正統主義神学(福音主義)に対する根源的な批判である。

「数世紀にわたってパウロの宗教の中核と考えられていた、『信仰によって義とせらる』の教えも、実は、原始キリスト教のイエスの贖罪死についての教義を、『キリストとの結合』なる神秘主義の立場から解釈したものにほかならない。」(著作集2、『わが生活と思想』白水社、260頁)と。

 

シュヴァイツアーは「十字架の贖罪」の意義に関して従来の教説を次のごとく批判する。

「イエスは実際、公的活動全体を通じて、神の国は、罪の赦しとして、あるいは倫理的自己完結的共同体として、すでに存在していることを〔はじめから〕前提しているのであるから、イエスの犠牲によって、べつにまったく新しいものがもたらされるわけではないということになる。したがって神の国はそもそもイエスが登場したそのときからすでに存在する、とせられる。しかし、いやしくも贖罪が果たされた以上は、贖罪の死の効果の意義ともいうべきものが要求せられるのである。古代の教義学に対する近代的教義学の弱点もまたこの点に存する。・・・近代的教義学はこの存在の周辺に言葉をならべたてはする。しかしなに一つはっきりとさししめすことはできず、むしろ自分でこしらえた曖昧模糊とした仮説の雲にくるまっているのである。」(著作集8、『イエス小伝』、126頁)。

このように贖罪死の意義についていろいろ論ずるが、いずれも曖昧模糊であり、近代的教義学の弱点もまたこの点に存するというのである。

イエスがメシヤとして降臨した目的は、神の国の実現である。しかし「イエスの犠牲によって、べつにまったく新しいものがもたらされるわけではない」というのである。「神の国はそもそもイエスが登場したそのときからすでに存在する」。それなのに、「なぜイエスは十字架で死んだのか」と問題を提起しているのである。十字架の予定説への批判である。

 

*シュヴァイツアーが指摘した「十字架の贖罪による救いの摂理」に関する真の意義は、文鮮明先生の神学思想である統一原理(第四章メシヤの降臨とその再臨の目的)によって解明されている。



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