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ルターと福音主義(7)

(5)「ルターの歴史的使命」

 

それでは、ルターの歴史的使命と彼の思想のすぐれた点はどこにあるのであろうか。それは救いが「キリストを抜きにしてあり得ない」ことを鮮明にした点にある。この点はいくら褒めても褒めすぎることはない。

 

救いにおいてキリストを強調し、キリストを対象としないそれ以外の教義や諸々の儀式や規範や制度を否定したのは、神の摂理から見て、原始キリスト教を回復し、再臨のメシヤを迎える内外の環境復帰の準備であった。

 

ルターは聖書に根拠を持つ洗礼と聖餐式の二つだけを残した。これは「合同結婚式」における聖酒式として統一教会に継承されている。

 

また歴史的な宗教改革が起った原因は、なによりも、当時のローマが異教時代の帝政期に劣らず、贅沢ぜいたくな食道楽にふけり、「それはまったく退廃し、病毒に冒されており、考えられるかぎりの淫乱、食道楽、詐欺、権勢欲、神を誹謗する冒瀆の混沌である」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、21頁)と言われるほどの腐敗ぶりにあった。それ故に、法王を中心とする復帰摂理の目的が成就できなかった(『原理講論』「宗教改革」、参照、516-518頁)。それで歴史はルターの義認論を動機として宗教改革が勃発し、さらにルターの意図を超えて近代市民社会を形成し、神の国が顕現する前段階まで前進してきたのである。

 

ところで、ルターの義認論が近代市民社会の成立に寄与したことについて次のように述べられている。

 

「ルターの義認論には、のちの修道院制度の否定や職業観にみられるように厭世的性格はなく、現実的、世俗的性格がある。ルターの義認論はこのような独自性をもっていたからこそ、宗教改革運動に多大な影響を与え、間接的にではあるが近代市民社会の成立に寄与することになったのである。」(『ルター』小牧治・泉谷周三郎共著、131頁)

 

さらに、ルターの神学の特徴を述べるなら、ルターほどサタンを意識し、認識していた神学者は少ないといえる。また、霊肉の対立と葛藤を説き「ああ、私の罪、罪、罪」と絶叫し、彼は「原罪」を実在として説いた。しかし現代神学は、個々の罪ではなく、罪の根源である「原罪」を神話であると軽視する人が多いのである。

 

最後にエラスムスが異端者としてカトリックから断罪された点にふれておこう。

彼の死後(1536年)、1554年に、教皇ユリウス三世によりエラスムスの著書『痴愚神礼讃』、『格言集』、『新約聖書注解』が、宗教改革運動への荷担とカトリック体制への批判との関連で禁書とされ、1558年には、教皇パウルス四世により、エラスムス自身が第一級の異端者と断じられた。

宗教改革者の側からみても、人文主義のギリシア、ローマの古典にさかのぼる人間本性の善性の認識(エラスムス)と、聖書を起因とする深い罪認識(ルター)との間に相違があると指摘されている。

 

しかし、〝異端〟と断罪されても、再臨のキリストによって救済されるであろうし、ルターへの批判の諸点はカトリックに継承されているのである。

 

ルターはエラスムスに対して激しく批判したが、最後には次のように述べている。

「訴訟の核心をついたのはただきみだけであって……私は心からきみに感謝する。」(ルター著『奴隷的意志』、松田智雄編、中央公論社、259頁)。

この点が摂理的中心人物であるルターの偉いところであると言えよう。

 

また、ルターの宗教改革に対して、カトリック側も内的刷新と積極的防御(反宗教改革)をせざるを得なかったことは言うまでもないことである。

 

ちなみに、「宗教改革運動に対して、当然、カトリックにおいても対抗の動きが見られた。その先頭に立ったのがドミニコ会である。審問や討論を通じてルターと論戦をした。またカトリック内部にも改革の機運が高まり(→カトリック改革)、1540年にはイエスズ会が托鉢修道会として誕生した。イエスズ会は内部の信仰の革新に努めたばかりでなく、積極的に海外伝道を進めた。日本にもイエスズ会士フランシスコ・ザビエルが1549年に上陸し、キリスト教を伝えた。」(『ルターと宗教改革事典』教文館、143頁)のである。

 

 

「補足」

 

(1)「天国は二人で行く所」 

 

カトリック神学は、「救いの実現は神人の協力による」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、628頁)と言明しており、「救いは人間が我儘勝手わがままかってに『自分は救われた』と思い込むMind Cureではなく……神の愛と人間の道徳的努力との交響楽」(同、629頁)なのであるとし、プロテスタント神学の信仰義認論を批判している。

この伝統主義による聖書解釈は「統一原理」と一致している。ただし、救いについての客観的な定義はカトリックといえども依然として知らず、愛を重視し、至福を説いてはいるものの、それを「四大心情圏」や「三大王権」として概念的に説いていない。これは再臨のメシヤ以外に解けない問題なのである。

 

フランシスコ派の神学者は「至福における『愛』のモメントを重視する」。主知主義的といわれるトマスも「自然本性的な知性の能力の限界」を超えて、「神からの超自然的光を受けなければならない」とし、「神を見つつある至福者の知性は、神の愛によって浸透され、強められ、浄化され、生命化された知性である。」(『トマス・アクィナス』、中央公論社、山田晶編、526頁)と述べている。

 

このように、トマスも愛のモメントを無視していないと指摘されている。だがしかし、最高の至福である愛を「統一原理」を基盤とした文鮮明師の御言みことば(『真の家庭と家庭盟誓』)のように、概念的に、具体的・客観的・存在論的に究明できていない。これが西洋哲学、西洋的思考の限界である。

したがって、完全な神の愛の認識とは如何なることなのかをカトリック側も客観的に知らないといえるのである。

 

文鮮明師は、愛は自分一人(男性だけ、女性だけ)で感ずるものではない。愛する対象がなければならない。愛は対象を通じて、対象から来る。神御自身がそうなのであって、神も愛の対象がなければ愛を感ずることができない。神の愛の対象、それは人間以外ではありえないと語っておられる。

 

最高で唯一・絶対の愛は、相対する「二つの存在」(ペア・システム)がなければ生じないのである。これは驚くべき原理である。したがって、至福は一人ではなく、二人(アダムとエバ)でなければそれに至らないのである。しかも罪ある二人ではなく、「体があがなわれた」無原罪の二人でなければ体得できない。神の真の愛は罪と無関係であり、罪人には顕現しないからである。それゆえ、再臨主による〝祝福〟すなわち新しい人間に再創造された祝福家庭によらなければ、神の真の愛は経験できない。文鮮明師は、天国は一人で行くところではなく、二人で行くところであると語られている。

 

すべてのキリスト者はこの〝小羊の婚姻〟を待望しているのである。すなわち「子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(ローマ、8・24)のである。

 

ただし、繰り返すが、至福、永遠の生命、すなわち神との関係とは、既存神学が説くような個人的な救いの関係ではない。「主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない」(コリントへの第一の手紙、11・11)という二人の関係による真の愛のことである。

 

(2)「ヤコブの手紙」について

 

ギュンター・ボルンカムは、公同書簡の一つである「ヤコブの手紙」に対して、彼の著書『新約聖書』において、「ヤコブの手紙・・・・・・では、キリスト信仰はすっかり背後に退いており、この手紙はそもそも始めからキリスト教文書として記されたのであろうかと、質問を発することができるほどである」(『新約聖書』、ボルンカム著、佐竹明訳、新教出版社、197頁)と言い、さらに次のように批判している。

 

「信仰のみによる義認というパウロの教えを、通俗的に歪曲された形においてではあるが、前提している。……義認の問題に関し、ヤコブがパウロに対抗して、ユダヤ教的と言って差支えない立場を取っているという事実(信仰わざ)を、一切かえるものではない」(同、198頁)。

 

ボルンカムは、「信仰のみ」によって義とされるというパウロの言葉に対するヤコブの理解が「通俗的に歪曲された形」であると言うが、果たして、イエスがキリストであると信じる信仰に、「通俗的」であるか、ないか、などという教義学の入る余地があるのだろうか。

信仰義認に対する理解が、「ああでもない」、「こうでもない」ということ自体、すでに間違っている。

 

また、「行い」を説くヤコブがユダヤ教的立場であると言うが、イエス・キリストが「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」(ルカ、6・46)と言われた言葉をルカは記述しているが、この「行い」を強調するイエスの言葉も、ボルンカムによれば批判すべき「ユダヤ教的なもの」なのであろうか。

 

「ヤコブの手紙」に対するボルンカムのような〝福音主義神学〟の立場からの批判の淵源は、言うまでもなくルターにある。

 

これに対して、代表的なカトリック側からの反論をここで取り上げておこう。

 

「信仰による善業の必要を力説せるこの新約聖書の一篇を、ルターは軽んじて『わらの書簡』と名づけ、使徒の書にあらずと主張せりと伝えられる。公平無私の心をもって主イエズス御自身の御生涯を仰ぎ奉れば、かかる偏見は雲散霧消うんさんむしょうしたであろうに、ヤコボ(ヤコブ)の書簡は、よく神を愛するがためには、人をも愛せざるべからずとせる主の福音の実践を慫慂しょうようしたに過ぎない。しこうしてその活ける模範を、我等は主の御生涯において見出すのである。」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、546頁)

 

「統一原理」も同様に、人類救済のために、全ての人が「イエスの路程」に倣って実践するように説いている。イエスの公生涯は、一口に言えば愛の実践(仕えること)であった。

ところで、福音主義は救いに関して、聖書を義認論の視点から見て、「奇蹟によって生まれ、人々の罪のために贖いの死を遂げ、墓よりよみがえった神の子」にしか関心を払っていない。それは、シュバイツァーが『イエス小伝』で言っているようにイエスの全生涯ではない。

 

ボルンカムの「ヤコブの手紙」に対する解釈は、福音主義の信仰義認という先入観から見た解釈である。それは、カトリック教会が批判しているところの典型的なプロテスタント神学の主観主義的曲解に相当する。

 

ギュンター・ボルンカムは、ブルトマンに師事したドイツの新約聖書の神学者であり、ハイデルベルグ大学の教授(1971年夏、定年退職)である。彼の『新約聖書』は在職中の最後の労作(1971年出版)と言われている。

 

(3)「霊的救いと肉的救い」(ローマ人への手紙、7・7-27)の解釈について

 

ギュンター・ボルンカムは、彼の著書『新約聖書』の中で、ローマ人への手紙7章7節から25節について、次のごとく述べている

 

「この個所では自分自身の失敗に終わった生涯の歴史を語っているのではなく、罪、律法、死の下にある一般人間のほろびについて、それもキリストの出来事の光の下で過去をふりかえって見るという仕方で、語っているのである」(『新約聖書』、ボルンカム著、新教出版社、142頁)という。また、次のようにも述べている。

 

「ローマ七・七-二五は、滅びの勢力に引き渡された人間の矛盾した状況を描いている」(同、178頁)

 

このように、ボルンカムは、パウロの指摘する心と体の葛藤する人間の状態(矛盾した状況)は救われたキリスト者の状態ではないと言うのである。すなわち、「罪と死の下」(サタンの主管の下)にある一般人間のほろびについて語っているというのである。当然、彼にとって、信仰義認による救済観は、救われたキリスト者はそのような矛盾した状態であるはずがないと考えて、そのように解釈せざるを得なかったのであろう。

 

しかし、さらに続けてローマ人への手紙八章を見るなら、ボルンカムの意図した理解と異なることが書かれてある。「キリストがあなたの内におられるなら、体は罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。」(ローマ、8・10)

 

このように、死(罪)と生(義)の自己矛盾の状態にあるとパウロはいうのである。体は「罪のゆえ死んでいても」とあるように、キリスト者の体は死んだ状態であるというのである。つまり、その状態において救われているということ、すなわち「罪あるまま義とされている」状態なのである。

このように、罪と死から解放された恵みの下にあるキリスト者は、矛盾した状態にあり、聖書にはボルンカムの意図する解釈と相違する聖句が多くあるのである。

 

繰り返して言えば、上述の聖句にあるごとく、キリスト者は「体は罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きている」とあるごとく、信仰義認は罪あるまま義とされているのであって、体は「あがなわれていない」ということである。つまり、信仰によって霊は神にあって生きているが、体は死の状態にあるということである。そして御霊みたま(聖霊)によって弱いからだを助けられながら、矛盾のあるままで霊の思いと肉の思いが対立(分裂)しながら義とされ、神の内に生きているのである。自己矛盾のこの状態を率直に告白して、パウロはさらに次のごとく述べている。

 

「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(ローマ、8・23)と。

 

この状態がイエスと御霊(聖霊)によって新生(重生じゅうせい)したキリスト者パウロ(最初の実)の姿なのである。ボルンカムは救いの完全な基準を知らないのである。信仰義認は、サタンの支配の下にある人間が、イエスをキリストと信じることによって霊的に解放されている状態なのである。

つまり、まだ完成して「完全な者」(マタイ5・48)になっていないので、完全に救われた状態ではないというのである。しかし、サタンの支配(罪と悪と死の恐怖)からの解放が、どれほどの恵みであることか、計り知れないのである。

 

ここまで聖書を見ると、つまりボルンカムのごとく七章で止まるのではなく八章まで読むならば、初臨時の救いと、再臨を待ち望む救いが何であるかが分ってくるのである。

すなわち、初臨時に信仰によって義とされた〝霊的救い〟が、再臨によって肉(体)があがなわれて〝霊肉両面の救い〟がなされ、神の子たる身分が授けられる完全な救いがなされるというのである。

 

ペテロ第一の手紙にも、次のごとく述べられている。

 

「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」(ペテロⅠ、3・21)

 

罪に仕えていた人間が、信仰義認による恵みによって救われ、罪から解放されて、キリストの光の下で明らかな良心によって神に仕える者となるということである。しかし、「からだの汚れを除くことではなく」と明言している。「からだのあがなわれること」は、なお再臨を待たねばならないのである。

 

(4)「神の恵みと自由意志肯定論」について

 

自由意志論争は、AD411年ごろアウグスティヌスとペラギウスとの間に最初に展開された。アウグスティヌスは、自分の救いの体験より、「自分の力では罪の状態から抜け出られなかったし、自分が救われたのは<不可抗の恩恵>――抵抗できない神の全能の恵み――によると信じた」(『キリスト教組織神学事典』東京神学大学神学会編、教文館、178頁)。

 

このアウグスティヌスの神の恩恵による救いは、再び宗教改革者ルターによって取り上げられ、エラスムスとの間の自由意志論争となった。ルターは、自由意志を認めることは「キリストを空しくし、全聖書を全滅せしめるであろう」(『ルター』、松田智雄編、「奴隷的意志」より、中央公論社、249頁)と主張している。

 

カルヴァンも同じように自由意志を否定した。アウグスティヌス、ルター、カルヴァンたちが自由意志を否定したのは、「自由意志を肯定することにより、人間の救いが神の恵みと人間の自由意志による行為との協力となってしまい、神の恵み<のみ>によって救われるという救いの深い体験が看過されるのを、彼らが一様に恐れたからであった」(『キリスト教組織神学事典』179頁)というのである。

 

そして、その後、「アルミニウス、特にその弟子たちは、当時のカルヴァン主義者たちの二重予定論や不可抗の恩恵の主張に反対し、人間には神の恵みを受け入れたり退けたりする自由意志のあることを主張したが、彼らの意図は、救いが神の恵みのみによることを否定するところにはなかった。彼らは体験的に、神の恵みのみよって救われるということと、人間には神の恵みを受け入れたり退けたりする力があるということとが並存することを言った」(同、179頁)とし、カルヴァンの予定論における決定論は信者の体験に反すると主張したのである。

 

二重予定論とは、予定説とほとんど同じ意味であって、救われる者と救われない者が、神によってあらかじめ定められているという教説である。

 

アルミニウス主義の側に立つウエスレー兄弟について、野呂芳男氏は次のように述べている。

 

「カルヴァン主義者メソジストであったホイットフィールドに反対して、ウエスレー兄弟がアルミニウス主義に立ったのも、まったく同じ理由によったのである。当時のカルヴァン主義者たちにより、ウエスレーたちはローマ・カトリック主義に教会を売り渡すものであると非難されたが、カトリック主義的な自由意志の主張と異なる自由意志肯定が存在しうることに、カルヴァン主義者たちは気づいていなかった。

世界の教会の主張は19世紀以来、アルミニウス主義の人々やウエスレーの主張した仕方での自由意志を認めている。カトリック主義のように神の恵みと自由意志の行為との協力による救いでもなく、宗教改革者たちの奴隷的意志でもない道を教会はえらんできたし、今日の大勢もそうである。すなわち、神の恵みのみによる救いの体験が、それを受け入れたり退けたりする人間の自由と矛盾しないのである。」(『キリスト教組織神学事典』、野呂芳男、教文館、179頁)

 

バルトと自然神学論争をしたブルンナーは、「二つの啓示」(「キリストの啓示」と「自然を通しての啓示」)を主張し、「神のかたち」(言語受容能力と応答責任性)は形式的には罪によっても破壊されていないと言う。

応答責任性とは「人間の5%の責任分担」(自由意志の肯定)のことである。この主張は、上述の『事典』と同じ見解である。「キリストの啓示」、すなわち神の恵みのみによる救いの体験が、それを受け入れたり退けたりする「人間の自由」肯定論と矛盾しないというのである。

 

以上のごとく、神の恩寵と人間の自由意志は対立しないというのである。今日の大勢もそうであると言うのである。

このように、現在のキリスト教は、カトリックもプロテスタントも統一原理の予定論を受容する方向に進んでいるのである。

 

 

「主要な参考資料」

 

『ルター』松田智雄編、中央公論社

『エラスムス』斎藤美洲著、清水書院

『ルター』今井晋著、講談社

『宗教改革の精神』金子晴勇著、中公新書

『カトリックの信仰』岩下壮一著、講談社学術文庫

『ルター』小牧治・泉谷周三郎共著、清水書院

『ルターと宗教改革事典』日本ルーテル神学大学ルター研究所編、教文館

『キリスト教史』(5信仰分裂の時代)上智大学中世思想研究所編訳/監修、平凡社

『トマス・アクィナス』山田晶編、中央公論社

『キリスト教組織神学事典〈増補版〉』、東京神学大学神学会編、教文館

 

ルターと福音主義(6)

「原理的批評」

(1)「二つのプロセス」(新しい人間に再創造する過程)

 

選民について、次のような文鮮明師の御言みことばがある。

 

「今日、歴史的路程において最も重要なことは何かというと、選民圏が生じたということです。この時代になり、世界的途上において、蘇生、長成、完成の三段階の基盤を連結させようというのです。イスラエル民族は蘇生級、キリスト教は長成級、そして統一教会は完成級です。イスラエル圏を中心としたものが旧約時代ならば、キリスト教は新約時代であり、統一教会は成約時代です。」(八大教材・教本『天聖経』、「真の家庭と家庭盟誓」2259頁)

 

「ですから、何度も接ぎ木しなければなりません。それで旧約時代があり、新約時代があり、成約時代があります。二千年、二千年、そのように三度、接ぎ木したならば、その位置がどの時なのかという事実を知らなければなりません。」(「ファミリー」2006年2月号、第三十九回「真の神の日」の記念礼拝の御言、37頁)

 

このように文鮮明師(真のお父様)は「三度、接ぎ木したならば」と指摘し、その位置が、つまり現代が、「どの時なのか」という事実を知らなければならないと語っておられるのである。

 

完全な救いは再臨の時による。霊的救いは「信仰のみ」で「行い」を必要としないが、完全な霊・肉両面の救いは信仰だけによるのではない。「行い」も義とされなければならない。最後の審判においては、各自の「行い」が裁かれるのである。

 

救いの摂理に時間的プロセスがあり、初臨時に十字架による霊的救いが、再臨時に原罪清算されて〝小羊の婚姻〟による霊・肉両面の完全な救いがなされるのである。

聖書に対する解釈の対立・矛盾の主要な原因は、この二つのプロセスを認識しないところにある。

信仰義認論が完全な救いだと信じ、その立場から聖書を解釈すると、「信仰によって義とされる」という聖句に対立する聖句に出会う。そうすると、ルターのごとくヤコブの手紙を「藁(わら)の書簡」といって軽んじることになるのである。「聖書のみ」という自分の信条にも反する結果になってしまうのである。信仰義認論による聖書解釈が偏った主観主義に陥る危険性がここにあるのである。

 

(2)「霊の救いのみ」(霊・肉分離の状態)

 

イエス・キリストは結婚されなかったが、復活後、「霊的イエスと聖霊」(霊的な真の父母)となって信徒を霊的に重生じゅうせい(新生)し、霊的な家庭(教会=共同体)をつくったのである。

 

完全な人間とはイエスのごとく「心」と「体」が一体である。信仰義認による霊的な重生(新生)は、心と体の分離状態であって霊だけの自由であり、肉はいまだ罪の支配の下にあり、「完全な救い」の状態ではない。先に取り挙げたが、パウロは「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ、8・23)と述べている。また、ペテロの第一の手紙には「からだの汚れを除くことではなく」(ペテロⅠ、3・21)と記述されている。

 

このように、イエスと御霊(聖霊)によって重生(新生)したキリスト者は、「心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」(ローマ、7・25)とあるように、自己矛盾の状態にあるのである。言い換えると、霊的に救われているが、からだのあがなわれることを待ち望んでいる状態で、霊肉両面において完全に救われた状態ではないのである。

 

パウロの研究によって、ルターは彼の著『キリスト者の自由』の中で、霊と肉の「二つの原則」を述べ、霊(心)の義と自由のみを説き、身体の善行を無益だと言い、「霊肉分離」のままの状態で義とさる十字架の恵み(霊的救い)を説いているのである。

 

キリスト者の自己矛盾について、ルターは『キリスト者の自由』の中で次のように述べている。

 

「相反する二原則……どのキリスト者も霊と肉という二種類の性質を持つ……霊の面から見れば、彼は霊的な新しい、内なる人と呼ばれ、肉の面から見れば、身体に属する、古い、外なる人と呼ばれる。」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、53頁)

 

このように、「内と外」、「霊と肉」、「新と旧」の矛盾をもつ存在がキリスト者である。肉体は古いままで罪の中にあるが、信仰によって罪あるまま義とされ、この矛盾のある状態で救われているというのである。

つまり、この救いの状態は、心は罪から解放されている状態ではあるが、まだ体のあがなわれることを待ち望まなければならない状態なのである。したがってキリスト者は、肉体は罪の律法に仕え、心に戦いをいどんでくる状態なのである、すなわち心と体の分裂状態なのである。

 

この点をさらにルターの言葉で検証してみよう。

 

「ローマ書七章やガラテア書五章でパウロが、聖徒や敬虔な人々において、霊と肉との戦いはまことに激しく、霊肉のいずれかがおのれの欲するところをなしえないほどである、と教えていることをさしている。

この事実から私は、もし人間の本性が、み霊によって再生させられた人々においても、善に向かって努力しないばかりか、かえって善に対して反発し逆らうほど悪であるとすれば、いまだ再生もしておらず、ふるき人としてサタンのもとに仕えている人においては、どうして善へと努力するであろうか、と断定したのである。」(『ルター』松田智雄編、中央公論社「奴隷的意志」、252頁)

 

このようにルターは、「み霊によって再生させられた人々においても、善に向かって努力しないばかりか、かえって善に対して反発し逆らうほど悪である」と言う。

この文章は、「恵み」(十字架の救い)が「霊的な救い」であって、み霊(聖霊)によって「再生」したキリスト者ですら霊と肉が熾烈に戦っているというキリスト者の実存(自己矛盾の状態)を率直に認めたものなのである。

 

統一教会に反対する一部の牧師は、ローマ書(7・22~23、7・25)のパウロの「心と体の葛藤」について、罪、律法、死の下にある一般人間のほろびについて、それもキリストの出来事の光の下で過去をふりかえって見るという仕方で、語っているのであるといい、「統一原理」の聖書解釈は間違っている、聖書を自分の都合のよいように引用し、解釈していると批判する。しかし、パウロはローマ書8章23節で、「御霊(聖霊)の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、……からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」と言っているのである。パウロの見解と上述のルターの見解は一致している。

この聖句を反対派牧師らは曲解しているのである。彼らこそ、聖書を自分の都合のよいように引用し、偏った聖書解釈をしているのである。

信仰義認論を説く本家本元であるルターが、上述のごとく「統一原理」と同じ聖書解釈をし、救われた後のキリスト者、すなわち聖徒や敬虔な人々の霊肉分離とその激しい葛藤を述べているのである。

 

ところで、ルターはこの肉から出てくる「悪い欲望」(邪心)を抑えるために、断食や労働などの「行い」の必要性を消極的ではあるが、次のように説かざるを得なかったのである。

 

「行ないは、ただ身体が従順になり、悪い欲望から清められ、また目が悪い欲望に向かうのはただそれらを追い出すためという考えでなされなければならない……自分のわがままな心を抑えるために、身体が必要と思うだけ断食し、徹夜し、労働すればよいからである。」(同、67-68頁)

 

このように、「わがままな心を抑える」ために、信仰だけでなく行いが必要であることを説いている。それは肉を打つことによって邪心を弱らせ、本心(神に向かう心)の志向する目的に体を従わせようとするために他ならない。

 

統一原理の創造原理で説いているように、霊の浄化と悪化は、肉体の「行い」(善行か、悪行か)によることをルターは知らないのかもしれないが、『キリスト者の自由』の中で、「悪い欲望」を抑えるために、身体が必要と思うだけ「行い」を実践するように説いていることは原理的であると言えよう。

 

(3)「結婚」について 

 

結婚について、修道士の独身制は、ローマカトリック教会とルターの論争点の一つである。カトリックでは、聖職者に結婚を禁じているが、祭司や修道僧であった〝宗教改革者〟たちはほとんどみな結婚したのである。

 

ルターは、「結婚に独身や修道生活よりもより大きな価値を認めた」(『ルターと宗教改革事典』教文館、111頁)のである。

 

1525年6月、ルター(42才)はカタリナ・フォン・ボラ(26才)と結婚した。結婚した理由は、「結婚が神のおきてであり、司祭や修道士の結婚が正当である」(『ルター』小牧治・泉谷周三郎共著、清水書院、99頁)と主張し、「両親を喜ばせること、教皇と悪魔とを困らせること」(同、100頁)と述べている。しかし、ルターは平和で敬虔な家庭を作った。それはプロテスタントの家庭生活の模範となった。

 

さらに、ルターは次のように述べている。

 

「わたしは全世界のすべての教皇の神学者よりも富んでいる。なぜなら、わたしは満ち足り、そのうえ結婚によってすでに三人の子どもを与えられたが、教皇の神学者たちは子どもを与えられていないからである」(『ルター自伝』藤田孫太郎編訳、新教新書、111頁、『ルター』小牧治・泉谷周三郎共著、清水書院、101頁)と。

 

一夫一妻制の結婚は「創造の秩序」と呼ばれた。家庭が近代市民社会の基盤となった。ただし、その結婚の原理的な意義と価値については誰も明らかにしていない。それは再臨のメシヤ以外に解きえない問題なのである。

 

キリスト者の最大の願いは祝福結婚によって「14万4千」(最初の復活)に参与することにある。現代までローマ教会の聖職者は独身を守ってきたが、それは再臨のキリストに出会い、天の初穂として選ばれることに他ならない。

 

ローマ法王を中心とするカトリックの聖職者や、すでに結婚しているプロテスタントの牧師らも、再臨主(真の父母様)に祝福されて原罪清算し、サタンの支配から解放・釈放されて「神の下の一家族」となり、地上天国と天上天国を創建し、世界平和を実現することに参与すべきなのである。

 

4)「救いの客観的な定義」(四大心情圏と三大王権)

 

ところで、ルターが、「身体が必要と思うだけ断食し、徹夜し、労働すればよい」と「行い」を説いたが、この労働や清貧の倫理に対して、カルヴァンは、さらに徹底した貯蓄・禁欲・勤勉の精神(労働観)を説いたのである。

 

マックス・ウェーバーによると、このプロテスタントの倫理(世俗内禁欲)が資本主義社会を形成し、発展させる原動力となったというのである。カルヴァンの思想が近代市民社会の形成に寄与したということである。

 

カルヴァンは、ルター以上に積極的に「業」(「行い」)を肯定し、職業を神の召命として受けとった。事業の成功者は、内的に信仰と聖霊によって新生(重生)した者の外的な救いの「しるし」であるというのである。「神の救い」(予定)の中に自己が選ばれた者として、如何に自覚するのか、その確証がない。その「しるし」を「行い」の結果によって見ようとしたのである。

 

だが、「行いの結果」と言っても、やはり救いに対する客観的な絶対的な判断の基準がなく、依然として主観的で、漠然としており、単なる確信(思いこみ)にすぎない。経済的に豊かなものが救われた状態で、貧困は救われていない状態であると断言できるのであろうか。

それでは、完全な救いとは、どのような状態をいうのであろうか。完全な救いの位置と状態を客観的に定義しなければ、予定論で絶望したルターのごとき「心の不安」は、いつまで経っても解消することはないのである。

 

ルターは信仰義認で救われていると言うが、信仰によって義とされることで救いが完成したのではなく、罪から霊的に解放されて完全な救いを目指して信仰の旅路を出発したに過ぎないのである。「その終極は永遠のいのちである」(ローマ、6・22)とあるが、「永遠のいのち」(永生すること)とは、神の真の愛の圏内(天国、新エデンの園)に入ることである。

 

それでは、いかにして神の愛と人間の愛が一体化して神の真の愛の圏内に入るのであろうか。

 

完全な救いとは、既存神学がいうように、神と人との個人的な人格的関係に止まることではない。再臨のメシヤによって原罪清算して、神の完全な愛を完全に体得して「完全な者」(マタイ5・48)となり、天国に入籍することである。

 

どうすれば「愛の完成者」(完全な者)になるのであろうか。愛は一人で現れない。文鮮明師は、愛は必ず相対から現れると述べておられるのである。

神の似姿として造られた人間は、孤立して存在するのではなく、アダムとエバに区別され、関係存在として造られている。アダムは他者(エバ)のために存在しているのであり、エバも他者(アダム)のために存在しているのである。したがって、神によってアダムは隣人愛を実践しなければならない関係存在として造られているのである。エバも同様である。人間は一人で存在するのではなく、隣人愛を実践する社会的存在として造られているということである。

 

文鮮明師は、天国は一人で行くところではなく、二人で行くところであると言われている。言い換えると、天国とは、完成したアダム(男性)とエバ(女性)が神によって祝福されて結婚し、夫婦となり、真の家庭を形成し、心身統一、夫婦統一、親子の統一を成して、神の愛を完全に体得(体恤)して行くところなのである。

 

したがって天国とは、完成したアダムとエバが真の神によって祝福されて結婚し、真の父母となり、真の家庭を形成して、氏族、民族、国家、世界、天宙へと、真の神の真の愛を中心として、真の家庭が繁殖した世界のことを言うのである。

 

文鮮明師は、真の神の本質は愛(心情)であると言われている。しかし、愛とは何か、愛は目に見えない。形がなく無形である。しかし、誰もが愛は存在すると言うのであるが、これまで愛は概念的に表現できないと言われてきた。それでは、一体どのように愛を論証し、認識可能にするのであろうか。

 

文鮮明師(真のお父様)は下記のごとく、神の真の愛を「四大心情圏」として概念的に論述し、原理的な結婚の意義と価値を次のように解明している。

 

「本来、神様の本然的な真の愛、真の生命、そして真の血統で連結された真の家庭の中で、祖父母、父母、孫、孫娘を中心として、三代の純潔な血統を立て、父母の心情、夫婦の心情、子女の心情、兄弟姉妹の心情を完成するときに、これを総称して四大心情圏の完成と言います。ここにおいて、父子間の愛は、上下の関係を捜し立てる縦的な関係であり、夫婦間の愛は、左右が一つとなって決定される横的な関係であり、兄弟間において与えて受ける愛は、前後の関係として代表されるのです。

このように、観念的で所望としてだけ残る夢ではなく、神様の創造理想が家庭単位に、真の血統を中心として、四大心情圏の完成とともに実体的な完成をする。」(「ファミリー」2004年、5月号、「平和王国時代宣布」9頁、2004年3月23日、米国ワシントンDC連邦議会上院)

 

また、「四大心情圏」と「三大王権」について次のように述べられている。

 

「エデンの園のアダム家庭は、神様が理想とされた真の家庭の典型でした。無形で存在された神様の存在を実体で現すための四位基台の創造でした。

創造主であられる神様は、主体の位置で人間を対象の位置に創造され、神様の心の中だけに存在していた無形の子女、無形の兄弟、無形の夫婦、無形の父母を、アダムとエバの創造を通して、実体として完成しようとされたのです。

アダム家庭を中心として、実体の子女としての真の愛の完成、実体の兄弟としての真の愛の完成実体の夫婦としての真の愛の完成、そして実体の父母としての真の愛の理想完成を成し遂げ、無限の喜びを感じようとされたのです。

したがって、真の家族主義の核心は、人間関係の最も根幹となり、真の家庭を成すにおいて、絶対必要条件となる「四大心情圏」の完成と「三大王権」の完成です。

四大心情圏とは、子女の心情圏、兄弟の心情圏、夫婦の心情圏、父母の心情圏を言います。

皆様、人間は、この地上にだれかの子女として生まれ、兄弟姉妹の関係を結びながら成長し、結婚して夫婦となり、子女を生むことによって父母となる過程を経ていくようになっています。したがって四大心情圏と三大王権の完成は、家庭の枠の中で成し遂げることができるように創造されています。」(「ファミリー」2005年、6月号、第46回「真の父母の日記念礼拝の御言」37頁、八大教材・教本『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」2336頁参照)

 

また、次のように簡潔に述べておられる。

 

「四大心情圏は、夫婦によって愛の一体をなしたところで結実し、三大王権は、アダムとエバが息子、娘を生むことによってはじめて完成する。」(八大教材・教本『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」1342頁)

 

次の御言は、人間の完成点について明確に語られたもので、結婚による「初愛の結合」(定着点)に関するものである。

 

「四大心情圏を知っているでしょう? 結婚する瞬間、初愛が結ばれるその瞬間は、息子、娘の完成であり、兄弟の完成であり、夫婦の完成であり、未来の父母の完成です。四大心情圏完成の焦点となっているのです。」(八大教材・教本『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」2336頁。分冊『真の家庭と家庭盟誓』、光言社、176頁)

 

また、結婚に関する原理的な意義と価値について、次のように述べておられる。

 

「完成基準(神の直接主管圏)に立った『初愛の結合』は、四大心情(子女の心情、兄弟姉妹の心情、夫婦の心情、父母の心情)が完成していく定着地となります(『一点で結実完成する』)。完成したアダムとエバの結婚式は、神様ご自身の結婚式です。」(『続・誤りを正す』、世界基督教統一神霊協会、67-68頁)

 

このように、文鮮明師は「四大心情圏はいつ完成するのでしょうか。……それは結婚する時です」(八大教材・教本『天聖経』2340頁) と語っておられるのである。

 

以上のように、文鮮明師(再臨のメシヤ)は、真の家庭の中で神の真の愛を経験され、その「経験内容」(愛)を科学的に分析し、概念的に「四大心情圏」と「三大王権」として解明されたのである。言い換えると、文鮮明師は四大心情圏と三大王権として、神の真の愛とは、何であるかを、万人に認識可能なものとして解明されたのである。救いの客観的な基準とは、この四大心情圏を完成し、三大王権を完成することに他ならない。

 

上述のごとく、父子間の愛は上下の関係、夫婦間の愛は左右、兄弟間の愛は前後の関係なのである。この家庭の枠の中での真の愛の秩序は「創造の秩序」であり、「家庭の原理」(規範)なのである。文鮮明師は、上下・左右・前後の愛が「一点を中心として完全に一つになるとき、理想的な球形を造る」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』、49頁)と語っておられるのである。

 

この「愛の秩序」の球形運動は宇宙の球形運動と一致する。カルヴァンが言うごとく、「家庭の原理」(規範)は自然の「存在の原理」(規範)と一致するのである。この創造本然の「家庭の原理」(家庭の倫理)が天国の原型なのである。

 

カルヴァンの『キリスト教綱要』でいう自然とは、現代人の自然科学的な自然観ではない。存在が規範であるというのである。『原理講論』の宇宙観と一致する。

ブルンナーは「カルヴァンにおいては、自然は存在の規範という概念と同様のものである」(『カール・バルト著作集2』、ブルンナー著『自然と恩寵』より、新教出版社、155頁)といい、「カルヴァン的な倫理は、創造の秩序の概念なしには全く考えられない」(同、158頁) と述べている。また彼は、「正しい自然倫理(ethica naturalis)は自然神学と同様、ただキリストにあってのみ完成される」(同、161頁)と述べている。

 

以上のように、文鮮明師(真のお父様)は、神の心情(真の愛)を真の家庭の枠の中で誰でも体験(体恤たいじゅつ)できると説かれているのである。これは驚くべき内容である。真の神と罪人とは天地の差があるというのに、これが真実であれば、われわれは祝福家庭の意義と価値を再認識しなければならない。

 

また、文鮮明師は、次のように言われている。

 

「皆さん夫婦は四大心情圏、三大王権を成しとげなければなりません。そのようになれば、霊界から地上まで、いつでも思いのままに往来することができるのです。」(八大教材・教本『天聖経』、「真の家庭と家庭盟誓」2342頁)

また、統一原理には「創造目的を完成した人間は、神を中心として、常に球形運動の生活をする立体的な存在であるので、結局、無形世界までも主管するようになるのである。」(『原理講論』57頁)と述べられている。

 

このように真の家庭における「愛の秩序」(球形運動)の完成は無形世界までも主管できるというのである。

 

次の御言には、家庭が天国の土台であると言われている。

 

「本然の真の理想家庭を通して、真の国、真の世界、真の天国が建設されます。家庭における真の父母を中心とする四大心情圏と三代王権の基盤が天一国の土台になるのです。」(天一国経典『天聖経』、「平和メッセージ」1420-1421頁)

 

このように、家庭の倫理(愛の秩序)が社会の倫理であり、国家の倫理なのである。

 

今までの神学のような「おぼろげな神」でなく、文鮮明師の御言によって、真の家庭の中で「神が人と共に住み」(ヨハネの黙示録、21・3)、「顔と顔を合わせて見る」(コリントⅠ、13・12)ごとく、鮮明に神認識が可能となると言うのである。今まで神学はイエスが結婚されなかったので、家庭の規範を解きえなかった。それで家庭の意義と価値がわからなかった。しかし、再臨のメシヤの説く「真の家庭の規範」(真の愛の秩序)が、今まで神学者が解こうとしても解きえなかった「真の家庭の倫理」であり、「創造の秩序」なのである。この真の神の「真の愛の秩序」(家庭の倫理)が天国の基礎となのである。この真理によってこそ天国が創建され、世界平和が実現していくのである。

 

心情圏(愛)の完成は重要なので、繰り返して言うなら、四大心情圏と三大王権は救いの客観的な絶対的基準なのである。したがって、ルターの苦悩、すなわち、救われているのか、救われていないのか、分からない、という予定論による「心の不安」は、これで解消され、救われたと思いこむ主観主義も、これで克服されるのである。

 

ルターと福音主義(5)

(六)「カトリックの反論」

 

ここで、プロテスタントに対するカトリック側からの反論について述べておかねばならない。

 

(1)「福音主義は粗野な主観主義にすぎない」

 

カトリック側は、ルターが「伝承(聖伝せいでん)」を否定し「聖書のみ」(聖書主義)を主張する〝福音主義〟は、「仮面をげば結局主観主義の粗野そやな哲学にすぎない」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、645頁)と批判する。

 

つまり、宗教改革の当初からこの主観主義の混乱があり、自己の聖書解釈をもってカトリックの伝統に代え、己の個人的権威を法王とカトリックの教権とに替えたと批判するのである。

 

また、岩下壮一氏は「ローマ法王の権威にかえうるに幾多の小法王の権威をもってし、世界的大教会の教権のかわりに群小教会の教権を樹立する滑稽こっけいな立場に陥る事になる」(同、394頁)と批判する。そして、個人主義の行きつくところは、独裁専制であるというのである。

 

これに対して、カトリックは聖伝と教会法によって限定された言わば立憲的なものであると次のように述べている。

 

「プロテスタント教会の実状は……信者はやはり牧師のおしえる所に従い、長老は事実教会を統率とうそつしているのではあるまいか。しこうしてローマ法王の権威や世界的教会の教権は、外部より規定し得ざる個人の体験のごとき独断的なものではなく、聖伝と教会法によって明らかに限定された言わば立憲的なものであるに反し、小法王等の権威と群小教会の教権に至っては、全然暴君の独裁専制にまで堕落し得るものである。」(同、394-395頁)

 

「伝承(聖伝)」に関しては、原始教会内で最初の福音書の著述に先立って、既に使徒たちによって説かれていたものであると、次のごとく述べている。

「聖書だけを採用して、聖書の基礎となった聖伝を捨つるに至っては、最も滑稽こっけいである。

キリスト教の信仰が原始教会内における最初の著述に先立って既に説かれたのは、疑う余地もなき明白な事実で、新約聖書自身がそれを証している。福音書は使徒等のキリストの生涯と奇蹟きせきと教訓とについての説教の一部を書いたものに過ぎず、かつ、これ等の事蹟は、文字に書き表さるる以前に一定の解釈を附されていた。そうしてその解釈は使徒の権威によって真なるものとして教えられ、かつ、受容うけいれられていたことは、彼等の書簡がまた明らかに示している」(同、395頁)と。

 

例えば、「テサロニケ後書中にも『我等の福音』と言い、「兄弟等よ、毅然きぜんとして我等のあるいは談話、あるいは書簡によりて習いしつたえを守れ」(第2章14)と戒めているが、その福音と伝の内容に至っては、もちろん世の終りに関する僅少きんしょうの事のほか、この短き書簡には何事も物語られていない。聖伝を認めずして、いかにしてこれ等の態度や事実が説明し得られようか。」(同、396頁)と述べている。

 

「使徒伝承」は「聖書」として文章化される以前に、生きた活動の形態で伝えられていたというのである。

 

以上が、カトリック側から見た「伝承(聖伝)」と「聖書」あるいは「教権」批判に対する反論である。

 

(2)「十二使徒団と教権」(ペテロに鍵を渡す)

 

キリストがその生存中、弟子の中から使徒となるべき人物を選び、育て、ご自分の使命が何なのか、ご自分の真意がどこにあるのかを言葉で、あるいは親しく交わり、あるいは行動の模範をもって教えられたのは事実である。

 

また、ペテロを中心とする12使徒団は、イエスの教えを他の人びとに伝える使命を受け、「彼らは宣教活動をもって、また殉教において頂点に達する生活態度と、礼拝などの共同で行う宗教生活上の諸制度をもって、またその啓示を文書化することによって、その使命を果たした。この十二使徒たちの指導下にある共同体の生命が『使徒伝承』である」(『私たちにとって聖書とは何なのか』、和田幹男著、女子パウロ会、78頁)ということである。

 

この使徒たちの後継者が司教と言われ、ペテロを中心とした全世界の司教団が受け継いでいると言うのである。これが、ペテロから継承した法王の特権と言われるものであり、「教会の教権」(教会伝承による)と「位階制」の出発点であるということになる。

 

だが、この「伝承」と「聖書」は、「教会が顔と顔をあわせてあるがままの神に相まみえるに至るまで」(同、76頁)、すなわち〝終末〟まで地上を旅するものなのであるというのである。

そして、メシヤに再会すれば、そこで一切が終焉しゅうえんするということ、そして再臨主との出会いから、主にならい、新しい生活が始まるということを意味する。つまり、救いのための「宗教生活上の諸制度」(礼拝、断食、巡礼、贖宥しょくゆうなど)が、全面的に見なおされ、新しく変わるというのである。

 

(3)「信仰のみと教義の矛盾」

 

ところで、誰しも〝信仰義認論〟に対して素朴に疑問をいだくことではあるが、信仰が全く真理の承認と無関係な事柄であるならば、教義的問題などはどうでもよいはずである。

しかし、はたしてそうであろうか。この問題に関するカトリック側の次の批判は傾聴に値する。

 

「直接的救済は、必ず彼等の有する恩寵おんちょうや神の前における義、又は予定説プレデスチネーションの観念によって説明される。これは体験的プロテスタンチズムに内在する矛盾に基づくのであって、いくら信仰は真理の承認ではなく神への人格的信頼だとか、愛の関係(智的要素を除外せる人格的関係もあり得ると見える)であると定義しても、少なくともその体験する神とは何ぞや、キリストはいかなる方か、神の前における我は何者か等の教義的背景なしに、上述の関係が成立するはずはない」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、642頁)と。

 

常々、われわれが信仰義認論に対して抱く一つの疑問(信仰と教義の関係)について、明確な見解が上述の文章の中にある。

 

 

(七)「信仰義認論の限界と再臨」

 

信仰義認は、霊的救いであって完全に救われた状態ではないのである。霊的救いの状態(信仰義認)で完全に救われているというのは主観的な思い込みであって、完全な救いへの途上なのである。霊肉の完全な救いは、再臨による。

 

(1)「最後の審判」(行いの審判)

 

イエスの「十字架の死」を贖罪と信じる信仰によって義とされ、救われているということと、再臨による「完全な救い」(小羊の婚姻)との間には、いかなる関係があるのであろうか。

十字架によってすでに救われているにもかかわらず、なお救い主(再臨)を待たねばならないなら、それでは〝信仰義認〟とは如何なる救いなのか。それ自体で完全な救いではないのであろうか。われわれはこれらの問題を徹底的に究明せざるを得ないのである。

 

聖書には、ルターが強調するごとく、「信仰によって義とされる」(ローマ10・4、ガラテヤ3・24)という聖句があるが、他方で、それと全く対立する「人が義とされるのは、行ないによるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブの手紙、2・24)という聖句もある。

 

〝聖書のみ〟と主張する人が、これら二つの一方のみを取り上げて、他方を否定するのは如何なものか、と考えざるを得ない。

 

エラスムスは、「聖書」が「聖霊に鼓吹こすいされて書かれている以上、自己矛盾をおかすはずもないのだから、その両者を慎重に読み合わせなくてはなるまい」(『エラスムス』、斎藤美洲著、清水書院、142頁)と言っていたが、そこに真理に至る着眼点があるのではなかろうか。

 

世の終わりには、「行い」に応じて審判されると、聖書は次のごとく述べている。

「わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙、5・10)。

 

また、「ルカ福音書」には、「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」(ルカ、6・46)と記述されている。

 

このように、ルターのいうごとく、信じるだけで十分であるとは断言できない。「信じて行え」ということであろうか。

ただし、その際、福音では内的動機が問題とされる。「行い」の根柢こんていにキリストと一体となった真の愛が動機としてなければならない。そうでなければ、「行い」は形式的な律法主義となってしまうのである。

 

このように、二つの対立する聖句の一方を肯定し、他方を否定することではなく、双方の肯定であり、その両者の統一が「両者の慎重な読み合わせ」に他ならない。そこに真理があるといえよう。

 

バルトも、ルターと同様に、神や人間や罪について、キリストを抜きにして、神が人となったイエス・キリスト以外のところで何も語れないと言い、救いにおいて、「人間が自分自身からしては自分の救いのためには何もなしえない」(『カール・バルト著作集2』「ナイン!」195頁)といって人間的な努力や行いを否定する。

しかし、先に述べたごとく、信仰と行いは対立するのではなく、聖書は聖霊に鼓吹されて書かれているので、愛によって統一するように、整合性があるように解釈することが求められるのである。

 

ルターの説くキリストの十字架による贖罪は、「霊的救い」なのである。

したがって、信仰義認は「罪人にして義人」と認められること、つまり十字架による贖罪は神の義との和解であって、それは肢体にある「罪の法則」(ローマ、7・23)から解放されたのではない。罪のあるまま〝義〟と認められる「恵み」なのである。しかし、未だ完全な人となっていない。「完全な救い」は再臨を待たねばならないのである。

 

十字架による救いについて、パウロは次のように述べている。

御霊みたまの最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。」(ローマ、8・23-24)

 

このように十字架による贖罪によって救われた「御霊(聖霊)の最初の実」であるパウロですら、「からだのあがなわれること」を待ち望んでいるのである。

そして、彼は「この望みによって救われているのである」と述べている。「この望み」とは、すなわち、「霊的救い」だけでなく、「肉的救い」(からだのあがなわれること)をもたらす再臨のメシヤを待つ望みのことである。

 

原理的に言い換えると、長成期完成級でメシヤに出会い、再臨のメシヤによる〝祝福〟によって原罪清算する望みのことである。パウロはこの望みによって救われていると述べているのである。

 

ちなみにパネンベルクは「死人の復活」について次のように述べている。

 

「パウロにとって、復活とは新しいからだの新しい生命を意味したのであって、まだ腐敗していない死体が生き返ることではない。パウロは手紙の中で、死人から復活させられた者の〈からだ〉がどういう性質のものであるかという問題を印象的に取り上げている(Ⅰコリント15・35-56)。パウロにとって、将来の〈からだ〉は現在の〈からだ〉と異質のものであり、肉のからだではなく、彼のいうように『霊のからだ』であるということは自明のことなのである。」(W・パネンベルク著『キリスト論要綱』、新教出版社、78頁)

 

このように、イエスの復活後、『原理講論』(266頁)で述べているごとく、「霊的イエスと聖霊」(霊的な真の父母)によって信徒を霊的に新生(重生じゅうせい)するのである。

この『原理講論』の「霊的救い」とパネンベルクの主張とは一致している。

 

ルターと福音主義(4)

(五)「恩恵と自由意志」(自由意志論争)

 

1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に、ルターによってラテン語で「贖宥の効力についての九十五ヵ条の堤題(テーゼ)」が貼りつけられた。学者たちが討論するためにテーゼをラテン語で公表するのは、中世以来の慣行であった。

このラテン語の「堤題」は、ただちにドイツ語に訳され、まるで天使が伝達者であるかのごとくに、わずか2週間でドイツ全土に、4週間で全ヨーロッパに広まり、学者間の討議を求めたルターの当初の意図を越えて、さらに大きな反響を呼ぶに至ったのである。そして、これを発端として〝宗教改革運動〟が勃発するのである。

 

宗教改革は、「エラスムスが卵を産み、ルターがそれを孵化ふかした」と言われている。

しかし、エラスムスは、後にルターに対する最大の論敵となるのである。

 

人本主義は、人間の自由を束縛そくばくする形式的な宗教的儀式や規範に反抗し、人間の自主性を蹂躪じゅうりんする封建的階級制度や法王権にも反抗するようになった。すなわち、知性と理性を無視してなにごとにおいても法王に隷属れいぞくしなければ解決しないというような固陋ころうな信仰生活に反発して、自然と現実と科学を無視する遁世とんせい的・他界的・禁欲的な信仰態度を排撃するようになっていった。

しかし、〝神本主義〟は、人本主義のような本心の外的な追求だけでなく、本心の内的な欲望をも追及するようになっていくのである。このように人本主義(ルネッサンス)は、宗教改革に大きな影響を与えたのである(『原理講論』「宗教改革期」510-518頁を参照)。

 

デジデリウス・エラスムス(1466-1536)といえば、一般的に偉大なヒューマニストとして知られ、彼の著書『痴愚神ちぐしん礼讃らいさん』は、ヨーロッパ全土を爆笑の渦にまきこんだ不朽の名作である。また、ルターの宗教改革の前年の1516年には、ギリシャ語の新約聖書(新約聖書のラテン語・ギリシャ語対訳『校訂版・新約聖書』)を出版し、彼はその名声を不動のものとした。

エラスムスの神学思想は、一口に言って、教父きょうふたちがそうであったように、古典主義と聖書研究に基づくキリスト教との統一にある。当時の彼に対する人物評価は、彼ほどギリシャ語・ラテン語の古典の教養を身につけていた人はいないともいわれ、また彼は〝教父学〟の一大権威でもあった。

 

ところで、彼は、ルターの「九十五ヵ条の堤題」に対しては、全面的ではないが、賛意を表明していた。しかし、エラスムスは、教会の道徳や規律の改革運動には好意的であったが、その騒動には巻き込まれたくなかったのである。

ところが、当時の社会情勢は、彼に〝傍観者〟たることを許さず、反ルターを表明する何かを書くようにと、「高貴な人たち」(ヘンリー八世、ザクセンのゲオルク公、ローマ教皇など)からの圧力がかかった。それで避けることができず、エラスムスはルターと論戦する羽目になる。

 

1524年9月、エラスムスは『評論・自由意志』を出版し、「自由意志にはなんらかの力がある」とこれを肯定する。これに対して、ルターは『奴隷的意志』(1525年12月)を書いて反論し、「人間始祖アダムとエバの堕落以後は、人間における選択の自由とは名のみの存在にすぎない」と主張し、人間の意志決定の力は自由自在ではなく、奴隷的であるとして、これを否定した。

 

この両者の論争の中心点はどこにあるかと言えば、すでに論述してきたごとく「信仰」と「行い」、「恩恵」と「自由意志」の問題であり、その双方の対立か、協働きょうどうか、にある。

 

(A)「ルターに対する反論」(エラスムス著『評論・自由意志』より)

 

第一に、エラスムスは、「一つの意見を固執こしつするあまり、それと異なる意見はいっさいこれを許さないという性向は、正直のところ自分の好むところではない」(『エラスムス』、斎藤美洲著、清水書院、140-141頁)と言う。

 

第二に、「ルターは聖書のほかには権威ある根拠をいっさい認めない」と言って、「古来意志の自由を認める圧倒的多数の哲学者、教父たちの所説は不問に付す」が、「それではいったい聖書の述べるところを人が理解し解釈する場合、その正否の基準を何に求めるのか」(同、141-142頁)と問う。

 

第三に、ルター派の人たちが、正否の基準を「その人に宿る聖霊の有無である」(同、142頁)と言うのに対して、「それならば、数名の人びとが相異なる解釈を提出して、おのおのがわれに聖霊ありと主張したならば、どうすればよいのか」(同、142頁)と問題を提起する。

 

第四に、自由意志の問題についてはローマ教会も古来の教父たちも誤りをおかしたことになるならば、「聖霊は1300年の長きにわたって、それをあえて見すごしてこられたのであろうか」(同、142頁)と問題を提起して、ルターの批判は短絡的であると指摘する。

 

第五に、「聖書の中には意志の自由を認める章句が数多くみられる反面、それを否定するかのように思われる章句も若干ある。しかし聖霊に鼓吹こすいされて書かれている以上、自己矛盾をおかすはずもないのだから、その両者を慎重に読み合わせなくてはなるまい」(同、142頁)と述べて、ルターの一面性を指摘する。

 

第六に、エラスムスは、「自由意志は原罪のために傷つけられてはいるが、全く滅びたわけではない。それは一種の麻痺まひにかかり、神の恩寵を受けるまでは善よりは悪に傾きがちだが、全く働かなくなったわけではない」(同、143頁)と言う。

 

第七に、「もしも人の思いなおしがその意志によらずに、すべてがある必然によって神の手で果たされるものならば、何故に人は悔い改めるための猶予ゆうよを与えられたのであろうか」(同、143頁)と問題点を指摘する。

全知全能である神であるならば、なぜ罪悪歴史をこのように長く放置されるのか。すぐに人間を救済し、天国を実現することができるのではないか、という問題がある。

原理的に見れば、神の上よりの一方的な「恵み」だけでなく、人間の5%の責任分担(悔い改めるための猶予)があるのではないかという意味である。

 

第八に、「自由意志をまったく否定し、万事が必然性によって生ずるならば、あるいは人間は神の単なる道具にすぎないならば、聖書のなかの多くの勧告、命令、非難、要求はまったく意味のないものになってしまう」(『ルター』、小牧治・泉谷周三郎共著、清水書院、185頁)と述べて、ルターが聖書を用いて人間の自由意志による「応答責任性」を否定するその聖書解釈(信仰義認論)の誤りを指摘する。

 

エラスムスの「恩恵」と「自由意志」の関わり合いの統一的な理解は、次のたとえ話に明言されている。

「……恩恵によるのでなければ、得ようと努力している目的物を獲得することはできないのであるが、私たちの意志は何もなしていないのではない。……たとえば、激しい嵐の中から船を無傷で港へ導き入れた船乗りが、『私が船を救った』と言わず、『神が救いたもうた』と言うようなものだ。彼の技術と努力が何ら働きをしなかったわけではない。同様に、豊かな収穫を畑から納屋へ運び入れている農夫は、『私がこんなに多量な年収穫高をあげた』とは言わないで、『神がお与えになった』と語る。しかし、そうだからといって、農夫が穀物の収穫のために何の働きもしなかったと言う者があろうか。……しかし神の好意が近づかなければ、人間のわざは何の成果もあげえないから、全体が神の恵みに帰せられているのである」(『世界の名著18・ルター』、中央公論社、229頁、〈エラスムス著『評論』第三部後篇一節〉)。

 

以上がエラスムスによるルター批判であり、恩恵と自由意志との「協働説」である。エラスムスは、教父時代のアウグスティヌスとペラギウスの論争問題、すなわち救いは恩恵のみか、自由意志による功徳の積み重ねか、をここで持ち出してきたのである。

 

(B)「ルターの反論」(ルター著『奴隷的意志』より)

 

(1)「恩恵のみと自由意志の否定」

ルターは、自由意志を肯定するエラスムスに反論し、自由意志を否定するために、まず「人間の意志が何をなし得るか」、「神は何をなし給うか」、という問題を設定し、彼の著書『奴隷的意志』で必然論を擁護するために、次のごとく論を展開する。

 

「神は偶然的にあることを予知したもうのではなく、彼の不変で永遠で誤ることのない意志によっていっさいを予見し、約束し、なしたもうのである」(『世界の名著18・ルター』、松田智雄編、中央公論社、191頁、「奴隷的意志」より)

 

このように、神の予定の絶対性を強調した上で、必然性を次のように述べている。

 

「すなわち、私たちがなすいっさいは、また、生成するいっさいは、たとえ私たちには可変的、偶然的に生じるように見えても、それでも神の意志を注視するなら、逆に、必然的に生じている、ということである。なぜなら、神の意志は活動的で妨害されえない。というのは、それは神の本性の力そのものだからである。」(同、192頁)

 

さらに、「神は全能である。……私たちは自由意志の権利によって何ごとかをなすのではなく、むしろ神が予知したまい、かつ誤ることなく、変わることなき決意と力とによってかりたてたもうとおりに、なすのである。だから同時に、自由意志はないという事実が、すべての人の心にしるされているのが知られるのである。」(同、225-226頁)

 

上述の文章にあるごとく、神の全能性から必然性が措定そていされ、「必然性と自由」という二つの概念が、矛盾の弁証法的論理で捉えられている。

ルターの「可変的、偶然的に生じるように見えても、注視するなら、逆に、必然的に生じている……云々」という論理は、後のマルクス主義の〝唯物史観〟の公式に酷似している。これは驚きである。

 

以上のように、ルターは〝必然性〟を強調して、人間の自由意志を徹底的に否定しようとするのである。それは、救いは〝神の恩恵のみ〟によることを強調せんがためである。

 

最後に、ルターは次のごとく論述して、この問題を締めくくっている。

 

「神がいっさいを必然的かつ不変的に予知し行なうことを疑問視するならば、『どうして君は神の約束を信じ、それをたしかさをもって信頼したり、それに身をゆだねたりすることができるであろうか』」(『ルター』小牧治・泉谷周三郎共著、清水書院、188頁)と。

 

このルターの〝必然論〟は、対抗し難い論理だと言われているが、はたしてそうであろうか。

ルターは、彼の著書『キリスト者の自由』の中では、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属じゅうぞくしていない」(『世界の名著18・ルター』、松田智雄編、中央公論社、52頁)と自由意志を認めている。

 

これは、ルターにある〝自己矛盾〟の一つであると指摘されている。

 

ところで、ルターの必然性に関する論理と表現は哲学的である。カール・バルトは、ルターと同様に「恩恵のみ」を主張し、人間の理性による哲学・人間学を攻撃し、徹底的に排除する。

このようなバルト神学からルターを見れば、イエス・キリストは神の属性、その永遠性や不変性、神の本性の力などについて語ったことはない、とルターを批判することができる。

 

ちなみに、統一原理は、神は唯一、絶対、永遠、不変であると述べているが、何の根拠もなく思弁的に言っているのではない。聖書の啓示と存在論的視点から神の概念が導き出されているのである。神を認識可能な〝実体〟として顕現したのが、イエス・キリストである。

キリストは唯一、絶対である。キリストは真理であり、真理は永遠、不変である。このキリストを神の対象として認識し、存在論的に神の概念が導き出されているのである。

 

このように、統一原理で論述されているその他の性相と形状の二性性相、あるいは陽性と陰性の二性性相などの「聖書の啓示」と「存在論」(自然を通しての啓示)を根拠とする諸概念は、無形なる神を哲学的に論述することを可能にしたのである。したがって、統一原理が神学界に与えるこの功績は多大であると言えるであろう。

 

周知のように、バルトは哲学的な神概念を批判するが、ティリッヒは彼の主著『組織神学』の中で、「神学と哲学の相関論」を説き、キリスト教の信仰内容を説明する時には、「いつでも、哲学的なまた科学的な用語を用いなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、68頁)と述べている。

 

(2)「神を侮る知性(理性)」

ルターの次の反論は、「人間の意志は何をなし得るか」「神は何をなし給うか」ということに関する〝信仰義認論〟からの聖書解釈を根拠とする人間観、あるいは救済論に関するものである。

 

ルターは、エラスムスが「人間は神の恩恵の助けによるのでなければ何一つできないのであるが、私たちの意志は何もなしていないのではない」、「神の恩恵を受けるまでは善よりは悪に傾きがちだが、全く働かなくなったのではない」と述べたことを受けて、次のように反論する。

すなわち、「自由意志は悪の奴隷であって、人間のわざは一つとして善ではない」と言うのである。

つまり、自由意志を全面的に否定し、神の恩恵を強調するのである。そのための聖書的根拠として、まずパウロの次の言葉を取り上げる。

 

「義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行うものはいない、一人もいない」(ロ-マ、3・10-12)。

 

この聖句を根拠として、ルターは、自由意志はことごとく無益であり、悪であるというのである。

さらに、次のごとく述べる。

 

「(パウロの)これらの言葉はきわめて明瞭であって、すべての人が神を知らす、神をあなどり、さらに悪へと迷い出て、善に対して無力な者となっている……ここでは食物を求めることの無知や、金銭をさげすむことについて語られているのではなく、宗教や敬虔けいけんに対する無知や蔑視べっしが語られているのである。

そして、こういう無知や蔑視は、疑いもなく、肉や下等で粗野そやな性情に根ざすものではなく、むしろ人間のかの最高のもっとも卓越した力、義や敬虔や神の認識や神への畏敬いけいがそこにこそ支配しているべき部分、すなわち、理性と意志とに、否、むしろ、自由意志の力そのものに、道徳的善の種子そのものに、あるいは人間のうちにあるもっとも卓越した部分に、根ざしているのである。」(『世界の名著18・ルター』、中央公論社、「奴隷的意志」236頁)

一般に、「最も卓越した部分」でこそ、神の栄光を現すものと思われているが、ルターは反対に、そこにこそ神を侮る無知や蔑視があるというのである。このような鋭い指摘は傾聴に値する。

 

結論として、「盲目にして無知なる理性が、どうして正しいことを教えられようか。また邪悪で無益な意志が、どうして善いことを選ぶことができようか」(同、237頁)と言って、ルターは理性と自由意志を全面的に否定するのである。

また、次のように述べている。

 

「『律法によっては罪の自覚が生じるのみである』(ローマ3・20)とパウロは言っている。この言葉で彼は、律法がどれほど、またどの程度まで役立つものかを示しているのである。すなわち、自由意志は自分だけでは罪を自覚しないばかりか、それを教えてくれる教師として律法を必要とするほど盲目なものである。そこで、罪を自覚しない者が罪をとりのぞくために、いかなる努力を払いうるというのであろうか。……人は罪でないものを罪と考え、罪を罪でないと考えている……実際には罪であり誤謬ごびゅうである自分たちのわざや決意を、義であり知恵であると誇り、売りひろめている…」(同、239-240頁)

 

このように、業や自由意志を批判し、自由意志は「恩恵」なしには何一つ善をなしえないと言い、したがって、多くの律法や命令や脅迫や約束が聖書で与えられ、悪い自由意志を否定しようと、〝恩恵〟はしているのであるとルターは言うのである。

 

つまり、人間は神から与えられた律法や命令を守もることができず、それで、神の前で罪が芽生えて苦悩する。ついに人間は、自らの意志による行いでは救われない、何も出来ないと自由意志を否定し、神の恵みにすがる以外にないことを知るに至ると言うのである。

 

このように、同じ聖句(勧告や命令や約束)の解釈において、エラスムスはこのような勧告の言葉が存在するのは、人間に〝自由意志がある証拠だ〟として捉えているが、ルターはこれらの聖句が存在するのは、〝自由意志を否定するためだ〟として反対に解釈しているのである。

つまり、恩恵を受けない人間の意志は、「邪悪で無益な意志」であり、それを勧告や命令が否定していると捉えるのである。これは、ルターの信仰義認論からの独特な聖書解釈である。

 

ところで、自由意志が「あるか、ないか」という問題と、自由意志が「善をなし得るか、否か」という問題は別である。ルターは善・悪という価値観の導入によって、前者の問題に対して後者の問題にすり替えて答弁しているのである。

 

つまり、自由意志が「あるか、ないか」という問題ではなく、自由意志は「善をなし得るか、なし得ないか」という問題に〝論点〟をすり替えているのである。すなわち、「恩恵」と「自由意志」を対立させ、「恩恵」を受けない自由意志は悪の奴隷であって、「人間のわざは一つとして善ではない」と述べ、人間の自由意志を〝価値判断の導入〟によって全面的に否定しているのである。

 

この「論点のすり替え」はともかくとして、ルターの主張には人文主義にみるギリシャ・ローマの人間観(人間の本性は善)とは異なった、深い罪(原罪)の認識がある。この〝罪認識〟によって、人間はあらゆる部分で、むしろ「最も卓越した部分で、神を侮るものである」と鋭く人間の本質をみつめ、人間を糾弾きゅうだんし、罪の自覚を促すのである。

ここに、ルターの天才的な鋭い洞察力があることをわれわれは認めざるを得ないのである。

 

それは、彼が修道院での壮絶な修行(「行い」)の体験から得たものに他ならない。

堕落人間は、如何なる自らの努力(「行い」)によってしても、〝原罪〟から解放(救済)されない(参照:『原理講論』95頁、255頁)。ルターは、ただ恩恵によってのみ、信仰によってのみ救われるというのである。

これは、カトリック教会の業(功徳思想)に対する全面的否定の教義に他ならないのである。

 

ルターと福音主義(3)

(三)「宗教改革の核心」

 

 (1)「サクラメント」

 

次に、カトリックの秘蹟ひせき(サクラメント)とは、という問題に少しふれた後に、〝宗教改革〟の核心に迫っていこう。

 

秘蹟(サクラメント)とは、カトリック教会の用語であって、プロテスタント教会では「聖礼典」といわれ、説教とともに、教会の重要な機能とされている。すなわち、それはキリストの内的な見えない霊的恩恵を、外的な見える形で表現する〝しるし〟と考えられているのである。ローマ・カトリック教会では、洗礼、堅信、聖体、悔悛かいしゅん(告解)、終油(病者の塗油)、叙階、婚姻(結婚)の七つを「秘蹟」と定めている。

 

これに対して、プロテスタント教会では、洗礼と聖餐(聖体)だけを聖書にもとづく聖礼典としている。聖体とは、パンとぶどう酒の中にキリストが臨在していると理解されている(キリストの象徴か、臨在か、の議論があるが)。また、統一教会の合同結婚式の聖水と聖酒式がこれに対応している。

 

(2)「悔悛と贖宥状」

 

カトリック教会の七つの秘蹟の一つである「悔悛」(悔い改め)は、ルターが攻撃した「贖宥状しょくゆうじょう」と深く関わりがある。その悔悛の教義とは、すなわち次のごとくである。

 

「悔い改めはカトリック教会においては教会の定めたもっとも重要な『礼典』(サクラメント)として説かれていた。そこには次の三つの概念によって組織化された制度がたてられている。まず、『痛悔つうかい』(コントリティオ)と呼ばれる、自分が犯した罪に対する心からの悔悟が求められ、第二に『告解』(コンフェシオ)という、罪を衆人の前に告白することが行われ、かかる告白した人に司祭が赦罪しゃざい宣言を下すわけであるが、第三には、犯した罪に対して具体的に賠償をすべく善きわざが求められる。それが十分なる賠償をしなければならないことから『償罪しょうざい』(サティスファクティオ)と呼ばれた。かかる犯した罪を償うわざとして巡礼をしたり、断食をしたり、寄付をしたりするさまざまな規定が定められていた。

この規定は教会が定めた刑罰であって、当時のカトリック教会は地上の生活のみならず、死後の煉獄れんごくに対しても有効な規定を定めたのであった。『贖宥状』というのは、そのような教会が定めたもろもろの罪に対する罰を教会がキリストと諸聖人によって蓄積された徳の宝によって赦免する免罪証書であった。この贖宥状をめぐってルターの宗教改革の運動が胎動し始めるのである」(『宗教改革の精神』、金子晴勇著、中公新書、77-78頁)。

 

教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示して、贖宥状購入者には全免償を与えることを布告したが、贖宥状問題の発生はアルブレヒト大司教がこのサン・ピエトロ大聖堂(聖ペテロ教会)を新築するためにドイツで贖宥状を発行し、その販売をドミニコ派の僧侶であるテッツェルにゆだねたことが契機となった。彼は巧みな弁舌で至るところで成功を収めていった。

 

ルターは、テッツェルが「そもそも、お金が箱の中でチャリンと音を立てさえすれば、たましいは煉獄れんごくほのおの中から(救われ)飛び出してくるのだ」、「教皇の紋印もんじるしで飾られた十字架はキリストの十字架と同じ価値がある」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、22頁)と言っているのを知った。

それで、この際、自分が今までに確信した所信を公開し、討論するために、ヴィッテンベルク城教会の扉に「九十五ヵ条の提題」を貼り出したのである。時に、ルター34才であった。

 

ところで、いうまでもなくローマの聖ペテロ教会を新築することは悪ではなく善いことである。そのためのお金集めにドイツで贖宥状を発行すること自体は悪ではない。問題の本質はお金ではなく、当時のカトリックの教義と世俗化したヒエラルキー(階級制)にあったのである。

 

ちなみに、教皇レオ三世は、紀元800年に、チャールズ大帝を祝福して、金の王冠をかぶせた。彼がキリストのみ言を信奉し、キリスト教理想を実現していたならば、この時代に「信仰基台」と「実体基台」が形成され、「再臨されるメシヤのための基台」も、成就されるはずであった。

統一原理は、「法王を中心として立てられた霊的な王国と、国王を中心とした実体的な王国とが一つとなり、その基台の上にイエスが再び来られて、メシヤ王国をつくることができたはずである」(『原理講論』475-476頁)と述べている。

しかし、国王が神のみ旨を信奉し得ず、「実体基台」を立てることができずに「再臨されるメシヤのための基台」を造成することができなかったのである。

 

このように見て来ると、カトリックの体制そのものが問題なのではなく、宗教改革時代において、この世の権力機関と変わらない法王を中心とした封建的な階級制度が信仰生活の自由を拘束していたことが問題になったのである。つまり、中世封建時代の社会環境は、人間の創造本性を復帰する道を遮っていたのである。それゆえ、宗教改革はメシヤが降臨するための内外の環境復帰のために起こるべくして起こったのである。

 

また、贖宥状とお金の関係について、「お金が箱の中でチャリンと音を立てさえすれば、たましいは煉獄の焔の中から(救われ)飛び出してくる」というが、「霊のからだ」(霊人体)と「肉のからだ」(肉身)の関係、あるいは「霊形体、生命体、生霊体(発光体)の関係」(霊の成長と復活に関する霊界と地上界の関係)について、カトリックの教義は統一原理の「復活論」で説かれているように明解ではない。したがって、救い(たましいの復活)と贖宥状に対して疑念が生じるのである。

 

それでは、次にルターの「九十五ヵ条の提題」に対する批判と反批判を考察していこう。

 

(四)「九十五ヵ条の提題」について

 

「九十五ヵ条の提題」について、まず、その核心部分とルターの言わんとする〝福音〟のなんたるかを明確にしなければならない。

 

(1)「贖宥状(功徳説)の否定と福音」

 

ルターの「九十五ヵ条の提題」の中心は、「悔悛」と「贖宥の効力について」の問題である。

 

ルターは、九十五ヵ条の第二十一条で、「教皇の贖宥によって、人間はすべての罰から放免され、救われると述べるあの贖宥説教者たちは誤っている」と断言する。

そして、ルターは贖宥と福音を対置し、第六十二条では「教会の真の宝は、神の栄光と恵みとのもっとも聖なる福音である」と言明する。

 

教会の宝とは、「一四世紀に教皇クレメンス六世が教書で述べたもので、教会にはキリストと聖者が残した功徳くどくが蓄積されて宝庫をなしており、教皇は適当な時機にそれを信者にわけ与えることができるという考えである。この思想は当時贖宥券販売の有力な理論的根拠の一つであった」(『ルター』、小牧治/泉谷周三郎・共著、清水書院、136頁)と言われている。

 

ルターはこの教皇の教書(功徳蓄積論)を否定し、「贖宥」は「福音」と比較できないほど価値の小さい慣行にすぎないと断言し、真の宝は「福音」であるというのである。

 

第六十八条でも、「それら〈贖宥〉は神の恵みと十字架の敬虔とに比較すると、実際もっとも小さいものである」(同、136頁)と述べている。

 

このように、ルターは教皇の権限と権威を否定し、贖宥は何の聖書的な根拠もないものであると断言するのである。

 

前後するが、ルターは、「人を義とするものは秘蹟ではなく信仰である」と言い、諸聖人の功徳説の根拠である教皇の教書は聖書の前にはまったく権威のないものであると言っている。

 

ルターが最も愛した聖書の一巻が「ガラテヤ書」であるが、その講義案で彼は次のごとく述べている。

 

「キリストの使徒パウロが神の律法やその行ないからとり去ったものを、悪魔の教えや、人間の状態や法則や、教皇の不信仰な伝承や修道士たちの行ないなどに帰することは、恐るべき瀆神とくしんであると、……使徒が言うとおり、神の律法の行ないによってだれ一人義とされないのだとすれば、ましてや、ベネディクト派やフランシスコ派などの会規によってはだれ一人義とされない。それらの規則の中には、キリストを信じる信仰については一音節たりともなく、ただ、『この会則を遵守するものは永遠の生命をもつ』と強調されているだけである。」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、「ガラテア書講義」より、480頁)

 

キリストを抜きにして、神や人間や罪について論ずることは出来ない、律法の行ないによってだれ一人義とされない、キリストを信じる信仰によって義とされるのであるという福音主義の原点をここにも見ることができるのである。

 

ルターは、さらに続けて次のように述べている。

「教皇派の人々における福音とキリストに対する忘恩と蔑視べっし……彼らは、キリストを否定し、キリストをけがして、福音の代わりにさまざまな規則や人間の伝承といった、いとうべきものを尊んで、神のみ言葉以上にとりあげた」(同、481頁)

 

「『いかなる肉も、律法の行ないによっては義とされない』というのは、中心となる結論である。これを幅広く適用し、生の全段階にあてはめてみるがよい。修道士は修道会の会規によっては、修道女は貞潔によっては、市民は正直によっては、君侯は仁慈によっては義とされないのである。」(同、481-482頁)

 

このように、キリストを対象としない教えや、人間のいろいろな業によっては救われないと述べている。そこには、人間に対する深い罪(原罪)認識があり、神と人とは罪によって断絶しており、人は自ら何もなしえない、救いはイエスをキリストとして信じる信仰による以外にないというルターの救済観、すなわち新しい義への転換が述べられているのである。

 

「九十五ヵ条の提題」の三十六条は、「真に悔い改めているならば、キリスト教信者は、完全に罰と罪から救われており、それは贖宥状なしに彼に与えられる」(同、23頁)と宣言している。

 

このように、ルターは「塔の体験」で得た救いへの確かな所信を「九十五ヵ条の提題」で忌憚なく述べたのである。

 

最後に、宗教改革の核心について、キリスト者が最も愛読しているルターの著『キリスト者の自由』の中からも引用してみよう。

 

「だから、司祭や僧侶そうりょのするように、身体が聖衣を着たところで、たましいには何の助けにもならない。また身体が教会や聖所にいても同様であり、聖物を扱っても同じである。また身体で祈り、断食だんじきし、巡礼し、さらに身体によって、また身体においてたえず行われるようなすべての善行をしても、やはり無益である。たましいに義と自由をもたらし与えるのは、それとまったく異なったものでなければならない。」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、「キリスト者の自由」、53-54頁)

 

さらに続けて、次のように述べている。

「きみが信仰においてすでに十分であり、神が信仰においてすべてをお与えになったのだから、きみにはよけいな宝と善行が、きみの身体を治め養うのに、いったい何の役に立つというのか。」(同、76頁)

 

以上が、信仰義認(新しい義の理解)とは何か、ということに対するルターの説明である。

上述のように、ルターは「信仰のみ」、「聖書のみ」を語り、一貫して福音主義の信仰を主張し続けたのである。

 

1517年10月31日、ルターはヴィッテンベルク城内の教会の扉に「九十五ヵ条の提題」を貼り付けたが、それはキリストの福音を純粋にとらえようとする公式的な討論の要請であった。ところが、当時のカトリック教会が社会秩序の基本構造に密接に関係していたことから、必然的に社会改革運動と結びつくことになったのである。

 

ちなみに、ルターの宗教改革の原点ともいうべき著作として、次の三つがある。

 

1)『ドイツのキリスト者貴族に与える書』-教皇庁の堕落と改革を説き、世俗権に優越する霊的権力(教皇権)を否定し、教皇にのみ保留されていた聖書解釈の権利は剥奪され、全信徒に与えられた。そして教皇のみが教会会議を招集しうるという主張を否定し、各信徒は自由な教会会議を招集する権利と義務があると主張した。

 

2)『教会のバビロン幽囚』―サクラメント(秘蹟)を攻撃し、二つの秘蹟、聖餐(聖体)と洗礼以外を排除した。バビロン幽囚の故事にちなみ、真の秘蹟がローマ教会によって奴隷にされていると比喩したもの。

 

3)『キリスト者の自由』―キリスト者とは何かを説く。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」と。教皇を頂点とするカトリックのヒエラルキーを否定し、全信徒が司祭であること主張した。

 

これら三つの著作以外に、ルター自身が最も重要だと言った『奴隷的意志』がある。これは、エラスムスの批判に対して反論(論駁)した労作である。

 

上述のすべての著作は、『ルター』(松田智雄編、中央公論社刊)に収められている。

 

ルターと福音主義(2)

(二)「宗教改革の原理の確立」(霊と肉の葛藤の末)

 

次に、ルターの神学思想(信仰義認論)の形成過程について論述する。

 

(1)「内面の葛藤」

 

ルターは、当初、エルフルト大学で法学を勉強していた。1505年7月、帰省していたマンスフェルトの自宅からエルフルトにもどる道の途中で「雷雨の体験」をする。その時、驚いて「聖アンナさま、お助けください。私は修道僧になります」(ルター著『卓上語録』)と叫んだ。

その後、親しい友人と決別して、7月17日、ルターはエルフルトのアウグスティヌス派修道院にはいった。

この修道院の戒律は厳しいことで有名であった。そこでの厳しい生活ぶりをルターは後に振り返って次のように告白している。

 

「『祈祷、断食、徹夜、耐寒』などによって、拷問の苦しみをなめた」(世界の名著18『ルター』、松田智雄編、中央公論社、18頁)

 

まさに、律法の「行い」に厳格なパウロが自身を称して「パリサイ派の中のパリサイ派」と言ったごとく、ルターも彼に劣らず厳しい「業」の実践を自己に負わせ、その修道生活は壮絶なものであった。

 

「私が敬虔な修道士であり、修道院の戒律を厳格に守ったことは本当である。およそ修道生活によって天国に入れる修道士があったならば、私も天国へゆけると思う。私を知った修道院の兄弟たちはだれでも、このことを証言してくれるだろう。」(『ルターと宗教改革』、成瀬治著、誠文堂新光社、69頁)

 

このように苦行したのは、カトリック教会の教えに従い、ルターが「業」(行い)によって神の義と救いを得て、魂の平安を勝ち取ることが出来ると信じていたからに他ならない。

 

(2)「予定の恐怖」

 

この時代(修道生活)のルターの内面の分析がある。それは、救いと予定に関するすさまじい内容である。

 

「神は神聖であり、完全に正義であるという。もしそうだとすれば、その神は、『わが命ずるところを行なえ』と人間に要求し、行なえなければこれを審判し罰する神である。彼はこの脅かす神への恐怖から逃れるために、修道の生活にはげんで完全になろうとし、また罰を免れようとしたのである。ところが、とぎすまされてゆく良心は、いよいよ彼を責め、神はいよいよ恐怖すべき神として映じたのであった。その悩みの時は長くつづいている。」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、18頁)

 

キリスト者が「完全」になるのは〝再臨の時〟であるが、その時でないのに「完全」になろうとしたルターの苦悩は、救われるか、救われないか、永遠の生命か、永遠の死か、という人生の栄枯盛衰が神の絶対的な「予定」によるという教義に触れると、一層深刻なものとなるのである。

 

罪を告白し、司祭によって赦免しゃめんされても、罪の意識は消えない。次の文章はそういうルターの絶望の心境を語っている。

 

「告解や赦罪しゃざいもなんら救いを保証しない幻覚であって、それは光が闇を駆逐くちくするように罪を駆逐してはくれないので罪は人間にとってどこまでも恐るべき、不断に活動する実在であり続ける。彼の過敏な良心の呵責は、いまや矛盾する苛酷かこくな要求をもって迫る神に対する懐疑と不安とに結びついていた。

このような彼の内面的挫折は『予定』の問題にぶつかりいよいよ深刻となった。神が永遠に滅びに定めたものたちにみずからも属するのではないかという予定の恐怖はルターにとって神に対する呪詛じゅそと憎悪にまで高じるのであった。すなわち自己の行為が自己追求によって毒されている罪人に善行を求めるのは無理である。不可能を要求して滅びに定めようとするさばきの神、報復の神はいかにしても許せない。『この思いにとらわれて、わたしはキリストと神とのなんであるかをまったく忘れ去り、神が悪者ではないかとさえ思う。予定ということを考えると我々は神を忘れ、讃美は止み、誹謗ひぼうが始まる』と苦衷くちゅう吐露とろする彼であった。」(人類の知的遺産26『ルター』、今井晋著、講談社、74-75頁)

神は、律法で裁き、福音でも裁く。この「神の義」を、ルターは憎むまでに至ったのである。

 

(3)「十字架の救い」

 

ルターは、長い苦悩の後に「塔の体験」を通して救いへの確かな希望を見出す。

それは、先に指摘した「神の義」に対する執拗な懐疑を超克するものであり、ヴィッテンベルクの「塔の一室」での出来事であった。それは、救いは「行い」によるのではなく、キリストを信じる「信仰」によって義とされるという「新しい義」の発見であった。その時のルターの心境の変化に関して、次のように述べられている。

 

「要するに『神の義』とは罪人をあくまでも罰し審く神の性質としての『能動的義』を意味するのでなく、無償の贈物として罪人に与えられる義、罪人を罪あるままに義とする恵みとしての『受動的義』であるとの神の義に対する認識の転換がはかられた。……つぐないのわざではかちとることが不確かな、それゆえに、ルターにとって憎しみといきどおりとつぶやきの対象でしかなかった『神の義』が、パウロを導師として、パウロの聖句を媒介に、いまや賜物としての義、最愛の対象となる『神の義』に変貌へんぼうしたのである。久しく求めて悩み続けた『救いの確かさ』の根拠が我々の外、神の内に発見された。それはまた、ルターにとってまさに天国の門を意味したのである。」(『ルター』、今井晋著、講談社、83頁)

 

このように「能動的義」から「受動的義」(新たな義の理解)へと発想の転換がなされ、宗教改革の基本的原理が確立されていくのである。

 

ルターと同様に、生・死をかけて祈祷、断食、徹夜などの苦行をし、善い業に励んだ人や、あるいは霊と肉の分離による対立や葛藤を内的に体験し、罪と戦った信仰者であればあるほど、「信仰によって義とされる」(他力、自分の外)という神の言葉にふれる時、深く霊的に感動させられるにちがいない。

求めもせず、祈りもせず、探しもしない者に、ただ信じるというだけで、そのような霊的な恵みの感動を得ることはないであろう。このルターの心境の変化による「新しい義」の発見の喜びは、新約時代の「イエス・キリストの路程」(個人路程)と成約時代の「家庭路程」を、再臨主と共に世界的に歩む統一教会の信徒らこそが、一番よく理解し得るのではないだろうか。

 

現在から原理的に見て言えることであるが、救いには、初臨の霊的救いから、再臨の霊・肉完全な救い(完全な神の愛の認識)への道がある。

しかしルターの教説は、初臨の霊的救のみであり、再臨による完全な救いは欠けているように思われる。

 

(4)「自力の限界」

 

ところで、ルターが苦悩したのはオッカム主義に従って、キリストを抜きに、自分の内に、自分の力で、罪を克服しようとしたからに他ならない。この点に関して、次のように述べられている。

 

「彼はオッカム主義の修道の精神を厳守し、善いわざに励んでも、内心の平和と良心の慰めが得られず、自己の罪に絶望する。『ああ、私の罪、罪、罪』と彼は絶叫する。かかる絶え間のない罪の意識はオッカム主義によれば、義認の段階にいまだ達していないしるしであり、かかる罪は克服されなければならないと説かれていた。しかし、彼はこのとき人間を裁く『神の義(正義)』は実は信仰によって神から授与される『神の受動的義』であることを発見したのである。これが『神の義』の新しい認識であって、彼の神学の出発点がここに確立された。」(『宗教改革の精神』、金子晴勇著、中公新書、16頁)

 

絶え間のない罪の意識は、信仰者であればあるほどルターと同様に鮮明となる。

だが、それは原罪ゆえに自分の力で克服し得ないものなのである。「キリストの啓示」(恩恵)は行いを必要としない。このことをルターは気付かされたのである。

修道院において、「ああ、私の罪、罪、罪」と苦悶したルターは、個人的な罪や先祖の罪ではなく、もっと根源的な人間存在それ自体の罪を意識していたのではなかろうか。修道院での師である聴罪司祭シュタウピッツに告白しても消えない罪、それは再臨のメシヤによらなければ清算できない罪(原罪)に他ならない。

 

ちなみに、ルターは、「どうして神は、アダムが堕落するのを許したもうたのか。また、神は彼を堕落せぬように保つか、あるいは私たちをほかのすえからか、または清められた第一の裔から造ることができたもうたであろうに、どうして私たちすべてを同一の罪にけがされたものとして造りたもうたのであるか」(『ルター』松田智雄編、中央公論社、223頁)と述べている。

そして、「神秘を探ることは、私たちのなすべきことではない。むしろ、この神秘を畏敬いけいすべきなのである」(同)と言うのである。しかし、再臨主の理性は、この神秘を解かねばならないのである。

 

ところで、十字架による霊的救い、恵みによる信仰義認に関して原理的に言えば、初臨の霊的救いとは、霊的解放圏、すなわち「サタンの支配権」(罪と死と恐怖の地獄)から信仰者を霊的に救い、天国の待合所(再臨を待つパラダイス)へ、信仰者を導く恩恵のことである。

この信仰の道は「個人路程」である。さらに、イエスの再臨による霊肉完全な救い、すなわち神が完全であるように完全な者となる「家庭路程」(愛の完成者になる道)があるのである(マタイ5・48)。愛は人(隣人)を害さない。したがって、イエス・キリストのごとく愛は律法の完成である。

 

以上のように、宗教改革の基本的原理を「心と体の長い葛藤」の末に、ルターは確立するに至ったのである。

このルターの義認論は、パウロの研究(ウィッテンベルク大学でローマ書の講義中の数年間)のうちに、激しい精神的苦闘のあとで獲得されたのである。

その意義は、キリストによる救いをあいまいにする介入を一切認めない、ルターの基本的な姿勢であり、原始キリスト教の信仰を回復しようとするところにあった。

 

 

「原理的批評」

 

宗教改革の起こった要因について、『原理講論』は次のように述べている。

 

「人間は、自由意志によって自分の責任分担を完遂し、神と一体となって個性を完成することにより、人格の絶対的な自主性をもつように創造された。」(『原理講論』515頁)

「元来、信仰は、各自が神を探し求めていく道であるので、それは個人と神との間に直接に結ばれる縦的な関係によってなされるのである。」(同、511頁)

しかし、「中世は、封建制度とローマ・カトリックの世俗的な堕落からくる社会環境によぅて、人間の本性が抑圧され、自由な発展を期待することができない時代であった。」(同、511頁)

 

したがって、信仰の自由を拘束する法王と僧侶の干渉と形式的な宗教儀式やその規範を撤廃しようとする革新運動は起こるべくして起こった。この宗教改革は、宗教面における民主主義を実現し、さらに政治の民主主義、経済の民主主義へと具現化していったのである。『原理講論』(第5章メシヤ再降臨準備時代)によると、宗教改革は再臨主を迎える内外の環境復帰の準備であったと述べている。

 

ルターと福音主義(1)

(一)福音主義とは

 

(1)「信仰」と「行い」の対立

 

プロテスタント神学の中心は何であろうか。それは、「律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる」(ガラテヤ書2・16)というこの聖句に集約されている。

 

「信仰によって義とされる」という、このプロテスタント神学の信仰義認論は、マルティン・ルター(1483-1546)によって定式化された。ルターによれば、「人が理性と神の律法とに従っていかほど知恵がありただしくとも、その行ないや功績やミサや義や儀式のすべてをもってしても、義とされないのである」(『ルター』松田智雄編、中央公論社 「ガラテア書講義」より、480頁)と言うのである。

 

ルターは、エルフルトのアウグスチヌス隠修士会に入り、修道院の厳しい戒律修行を経て、1507年4月、24歳で司祭となった。そして、1508年にヴィッテンベルク大学で教鞭を執ることとなり、1512年10月に神学博士となって、ヴィッテンベルク大学の神学部教授に就任し大学で聖書を講義することになる。詩篇、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、へブル人への手紙などは聴講する学生に深い感銘を与えた。この数年間にわたる聖書研究(修道院の塔の書斎での研究)により、ルターは長い精神的苦悶の末、宗教改革の原点とも言うべき思想を形成するに至るのである。これは、一般的に「塔の体験」といわれているのであるが、その時期は明らかではない。ルターが信仰義認(新たな義の理解)に到達し、彼の神学体系を形成するにあたって、パウロの「ローマ人への手紙」が決定的な役割をはたしたと言われている。

 

この「新たな義の理解」による「救い」(福音)の確かさは、一瞬の閃光のような啓示というものではなく、ヴィッテンベルクの塔の一室の中で執筆活動をしているうちに、次第に確かなものとして確立されるに至ったのである。晩年にルターは〝突然の霊感によって体得されたもの〟と言ってはいるが。

 

ところで、ルター以来のプロテスタント神学、すなわち「行い」を否定する「信仰義認」と、「行い」を肯定するカトリック神学の「功徳思想」とは、今でも、鋭く対立している。

 

「統一原理」も、神のみ旨成就(予定)において、「神の95%の責任分担」(恩恵)に対し、「人間の5%の責任分担」があることを説く。ただし、この「人間の5%の責任分担」は、神の責任分担にくらべて、ごく小さいものであることを表示しているが、人間自身にとっては100%に該当するのである(『原理講論』予定論、243-244頁参照)。

 

『原理講論』は、「神のかたち」として造られた人間に責任分担があるのは、創造への参加と万物に対する主管権の賦与のためである(同、堕落論、113頁)と述べている。これは、人間以外の万物にはない特権なのである。

 

神のみ旨成就(予定)において、このような95%+5%=100%という神と人間の関係における〝責任分担論〟を説くと、プロテスタント神学、特に福音主義神学と鋭く対立せざるを得ないのである。

 

なぜなら、神の恵みを95%であるとして、それを如何に大きく捉えようとも、5%という人間の「行い」がなければ100%にならない。したがって、このように〝人間の行い〟に対してほんの少しでも価値を認めれば、救いが人間の行いを少しも必要とせず、神の一方的な「恵み」であるという「福音」もまた否定されると考えるからである。

 

また〝人間の行い〟によって神のみ旨成就が左右されるなら、神の絶対性、全知全能性、救いにおける予定の絶対性が否定されるのではないかと、彼らは危惧するのである。神の予定が絶対でなければ、神を信じることができなくなるからである。

 

また、仮に、「人間の5%の責任分担」(「行い」)を認めるならば、カトリック神学の「功徳思想」や、神と人間との「協働説」を認めることになり、ルター以来の宗教改革的信仰を、自ら誤りであると認めることになるのである。

したがって、救いにおける「信仰」と「行い」の対立を主張し、罪人である人間の「自由意志」や「業」(「行い」)を完全に否定することは、「福音主義」の何であるかを説かんがための〝生命線〟であり、彼らにとって重大な問題なのである。

 

ルターは、自由意志を認めることは「キリストを空しくし、全聖書を全滅せしめるであろう」(『ルター』松田智雄編、「奴隷的意志」より、中央公論社、249頁)と主張する。

 

ところで、今日では、カルヴァンの〝決定論〟が信者の体験に反すると主張し、ジョン・ウェスレー(John Wesley、1703年6月-1791年3月)の主張した仕方で〝自由意志〟を認める傾向性にある。

「カトリック主義のように神の恵みと自由意志の行為との協力(協働)による救いでもなく、宗教改革者たちの奴隷的意志でもない道を教会はえらんできたし、今日の(教会の)大勢もそうである。すなわち、神の恵みのみによる救いの体験が、それを受け入れたり退けたりする人間の自由と矛盾しないのである。」(『キリスト教組織神学事典』、野呂芳男、教文館、179頁)

 

このように、われわれはプロテスタント神学とカトリック神学の根本的な対立点を知らなければならない。そして、これらの教義の対立点についてどのように統一原理の視点から対処すればよいのかという問題(キリスト教の統一)について考察しなければならないのである。

 

それでは、次に、宗教改革の原点までさかのぼって、これらの諸問題を考えてみることにしよう。

 

(2)「宗教改革の原理」 

 

第一に、ルターによれば、人が神から〝義〟とされるのは、内面的な「信仰のみ」によるのであって、外面的で形式的な道徳的善行やサクラメント(秘跡)の儀式などによるのではないというのである。

救いは、罪のあがないのために地上に遣わされたイエス・キリストを信じることによって与えられる、上よりの一方的な「恵み」であるとルターは宣言する。そして、信仰において、神の前にみな平等であって、祭司のような特殊な身分は不必要であると言うに至る。このような信仰の自由の主張は、カトリック体制への隷属からの解放運動と一体となっていくのである。

ルターは、宗教改革の基本原理について、次のように述べている。

 

「私どもはみな司祭であり、みなが一つの信仰、一つの福音、一つの秘蹟サクラメントをもっている」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、94頁)

 

このように、教会人と一般の平信徒とは何らの差別もないと「万人祭司論」の原理を明らかにした。さらに、教会の特権や習慣はすべて検討し、その多くは廃止すべきだと言う。そして、教皇を頂点とする位階制度を否定する。

これが、ルター思想の基礎であり、宗教改革の基本原理である。ただし、神の言葉の奉仕者としての牧師職だけは認めたのである。

 

第二に、「聖書主義」と呼ばれるもので、信仰の基準を法皇や僧侶におくべきでなく、〝聖書のみ〟が信仰の基準とされ、聖書は神の言葉を啓示した至上のものとされる。これは、カトリック教会における聖書以外の「伝承」(聖伝)や、それによる聖書解釈を否定する立場である。

カトリックは、伝承による教会の伝統的な教義などにも聖書と同じ権威を与え、聖書解釈の権威は教会(教権)にあるという。しかし、プロテスタント教会は「聖書のみ」であって、このような伝統主義を否定する。

 

以上の二つの原理は、カトリックの律法主義的「功徳」思想と対置されるものであって、「福音主義」と呼ばれ、先に論述したごとく、罪の許しは「キリストを信じる信仰による」のであって、教会法や贖宥状しょくゆうじょうによるものではないというのである。

 

 

「補足」

 

「律法と福音の関係について」

 

旧約の律法に関しては、それは人に罪を自覚させ、その自覚によって人は悲しみ、苦悩し、絶望する。しかし、律法は人を助けることは出来ない。

したがって、救済手段が他に求められねばならない。それが、キリストの福音なのである。それゆえ、律法の役割は、福音の光を示すことにあったというのである。

この律法と福音の関係については、ローマ書で次のように述べられている。

 

「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。」(ローマ7・7)

 

つまり、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などの〝律法の戒め〟によって、罪の罪たることが現れるというのである。それによって、人に罪を自覚させる。しかし、悪いことだと分っていても〝貪欲〟と〝情欲〟に従い、人は律法を守れずに罪を犯すのである。戒めがある分だけ、それだけ人は罪や過ちを犯し、そして苦しみ、絶望する。そして、自分自身で自分を救うために何もできない人間であることを知るようになるのである。

 

聖書は、罪の値は死であると、次のように述べている。

 

「あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極しゅうきょくは、死である。」(ローマ6・20-21)

原理的に言えば、人間始祖の堕落による死とは〝肉体の死〟ではなく、真の神との関係(心情関係、父子関係)が断絶し、サタンの支配(罪と死の支配)の下につながれ、サタンに隷属する状態をいう。

ところで、先に述べたごとく、律法は人に罪を自覚させるだけで、人を助けることはできない。したがって、この罪と死の支配から人を救い解放してくれるのは誰か、われわれはどうすればよいのか、という問題が生ずる。その答えが、キリストであり、キリストの福音なのである。イエスをキリストと信じる信仰によって義とされ、罪と死から解放されるというのである。

 

聖書は、信仰によって「罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである」(ローマ6・22)と述べている。

愛は人(隣人)を害さない。したがって、愛は律法の完成であると言われている。ただし、「きよきに至る―その終極は」とあるごとく、ただ信ずれば救われるのではなく、信仰は永遠のいのちに至る旅路の〝出発〟であって、終極、すなわち、救いの〝完成〟ではない。救いの完成とは、時間の成熟、すなわち再臨の時なのである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(10)

(C)「ブルンナーとカルヴァン」に関するバルトの主張

 

次は、カルヴァンの〝自然神学〟についての、解釈の相違に関する問題である。

バルトは、まず例のごとく、バルト式にブルンナーのカルヴァンに対する理解をまとめ、それを批判するという形式をとる。

 

バルトは、「彼の自然神学は『すこぶる宗教改革的』であり(154頁)、『全くカルヴァンの思想に近い』(175頁)が、これとは逆にまたカルヴァンは少なくとも時折、神のかたちについての形式的側面に関するブルンナー自身の思想と『ほとんど全く』同じことを言っている(158頁)と、このように(彼自身は)考えている」(バルト著『ナイン!』213頁)と述べた後で、下記のごとく反論する。

 

(1)「天地万物からの神認識」 

 

カルヴァンの天地万物からの神認識について、バルトは次のような論陣を張る。

 

「カルヴァンが天地万物からする神認識とキリストの中での神認識との二つについて語ったということは真理である(例えば『綱要』1・2・1、ガリア信仰告白、1559年、第二項を比較せよ)。しかし彼は、彼が天地万物からする神認識について語った時、ブルンナーとは違って、ローマ書1・19以下、2・14以下、使徒行伝14・15以下、17・24以下においては、そのことについてそこで言われていることを、ただそれだけ語ったのである。カルヴァンは、天地万物からする神認識の中において、人間の中に残っていて、そして信仰の中で復興せしめられるような潜勢力を見出していない。すなわち、啓示に対する、またキリストの中での新生活に対する、結合点を見いだしていない。彼は、……聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め、そういうものに、少なくとも後から追加的に一つの独自の『何らかの仕方で』独立した法廷として発言せしめるという、そういうことであるが、カルヴァンはそういうことをしていない。」(『ナイン!』224-225頁)

 

上述のように、カルヴァンは天地万物からする〝神認識〟とキリストの中での〝神認識〟という二つの啓示を語ったことを、バルトは率直に認めた後で、それらの根拠としての聖書の聖句を上げて、ブルンナーとは違って「ただそれだけ語ったのである」と述べている。

 

これは、神学とは「自らにすでに与えられているもののあとを追う」追思考である(『バルト神学入門』エーバハルト・ブッシュ著、新教出版社、57頁)というバルト神学の追認である。

ちなみに、バルトが「そこで言われていることを、ただそれだけを語ったのである」と言って、取り挙げた「使徒行伝14・15以下」には、次のように記述されている。

 

「神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである。」(使徒行伝14・16-17)

 

バルトは、選民以外の諸宗教を偶像崇拝といって否定するが、神は「すべての国々の人」に「ご自分のことをあかし」し、「キリストの啓示」以外に、ブルンナーがいうように、「いろいろのめぐみ」をお与えになっているのである。バルトは、神学は追思考であるといい、「聖書」に聞くというが、上述の「使徒行伝14・16-17」を追思考すれば、バルトの誤りは一目瞭然である。

そして、バルトは「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め、そういうものに、……発言せしめるという……カルヴァンはそういうことをしていない」と主張する。これは、カルヴァンの神学をバルト自身の神学に一致させんとする強弁である。カルヴァンが、諸学問を賜物と認めていることで、バルトの主張は崩壊する。

 

同じことであるが、また次のように述べている。

 

「彼(カルヴァン)は異教徒にもキリスト者にも聖書のほかに第二の啓示の根源を与えなかったこと、さらにまた、彼の神学は根本においては聖書注釈であって、そのほかにまた人間学とか歴史学とか自然哲学のようなものでもあったのではないこと、そういうことに対しては、異論をはさむことはできないであろう。」(『ナイン!』225頁)

 

このようにバルトは、カルヴァンは「聖書のほかに第二の啓示の根源を与えなかった」といい、「人間学とか歴史学とか自然哲学のようなもの」の中に啓示を認めていないというのである。

 

しかし、カルヴァンは、彼の主著『キリスト教綱要』で、次のように述べている。

 

「主が人間本性の中に、最高の善が失われたあともいくつかの恵みを残しておいたことを学ぶのである。」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、45頁)

 

また、「『最高の善』すなわち神を知り、神との正しい関係に入る賜物は失われているが、この世の諸学に関する賜物は人間の中に残されている」(同、45頁)と。

 

このようにカルヴァンは、堕落後も、人間の中に「主は……いくつかの恵みを残しておいた」といい、諸学を賜物と考えている。

言い換えると、カルヴァンは諸学問、すなわち「人間学」や「歴史学」や「自然哲学」を賜物と言っているのである。

 

ちなみに、ティリッヒは「真の啓示の超自然主義的歪曲わいきょくに対する戦いにおいて、科学、心理学、歴史学は神学の味方である」(『組織神学』第1巻、147頁)と述べている。

 

カルヴァンは『キリスト教綱要』の中で〝自然神学〟を肯定して、次のように述べている。

 

「第一巻第五章 世界の構造と統治の中に明白な神の認識」の個所で、「人体がたくみに構成されているのであるから、それを造られた御方が当然、感嘆せられなければならないと判断することは、万人の告白である」。「人間のことを『ミクロコスモス』(小宇宙)と呼んだのは当を得たことである」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、224-225頁)と。

 

このように、カルヴァンは、人間を〝ミクロコスモス(小宇宙)〟と呼んだのは当を得たことだと述べている。彼は、神は自然を通して〝啓示する〟ことを肯定しているのであって、バルトの言うように否定してはいない。

 

原理的に見れば、世界の構造の中に神を認識し、人間を〝小宇宙〟と捉えている点は、統一原理の見解と一致している。

 

また、バルトは、理性や歴史や自然の中に聖書を補う啓示の存在を否定するが、統一原理は、旧約聖書と新約聖書を対照し、キリスト教史がイエス以後の復帰摂理歴史(再創造史、救済史)であることを、次のように述べている。

 

「旧約と新約の聖書を対照してみれば、旧約聖書の律法書(創世記から申命記までの5巻)、歴史書(ヨシュア記からエステル記までの12巻)、詩文書(ヨブ記から雅歌までの5巻)、預言書(イザヤ書からマラキ書までの17巻)は、各々新約聖書の福音書、使徒行伝、使徒書簡、ヨハネ黙示録に該当する。しかし、旧約聖書の歴史書には、第一イスラエルの2000年の歴史が全部記録されているが、新約聖書の使徒行伝には、イエス当時の第二イスラエル(キリスト教信徒)の歴史だけしか記録されていない。それゆえに、新約聖書の使徒行伝が、旧約聖書の歴史書に該当する内容となるためには、イエス以後2000年のキリスト教史が、そこに添加されなければならないのである。したがって、キリスト教史は、イエス以後の復帰摂理歴史をつくる史料となるのである。」(『原理講論』467頁 注:ゴシック太字は筆者による)

 

バルトの「聖書のみ」とは、イエス以後の「使徒行伝」は認めるが、そこから続く「歴史」(キリスト教史)の中に〝神の摂理(聖書以外の啓示)〟を見ようとしない見解である。それは、ブルンナーもティリッヒも言っているように、バルトの偏った啓示概念によるのである。

 

われわれは、バルトの福音主義神学に固執して、ブルンナーのいう正しい自然神学を頑迷がんめいに否定するのは、大きな損害であると考える。バルトの福音主義は、神による上からの一方的な「恵み」のみを強調し、人間側からの一切の「努力や行い」(5%の責任分担―人間の努力)を否定する。その結果、どのような影響を教会と社会に与えることになるかを次のように考察している。

 

それは、①倫理道徳を救いと無関係として退廃させ、②人間の一切の努力を無意味にし、③諸学問を人間的要素としてはずかしめ、④あらゆる修行(「行い」)を否定して人間の霊性を枯渇こかつさせ、⑤人間の世俗化に無関心となり、⑥啓示を歴史の一回きりの出来事(キリストの啓示のみ)とし、⑦自分以外の教義(存在論からの神認識や歴史における啓示)を否定し、他宗教を偶像崇拝と言って排除する。⑧すべてにおいて非寛容となり、無関心となり、孤立化させ、反社会的となる。⑨環境破壊や汚染水は人類の危機であるが、自然神学を否定するバルトのキリスト論的集中の神学では、一言も発言することができないのである。

 

バルトらの福音主義には、以上のような問題点があるのである。

 

(2)バルトの「聖書の啓示のみ」について

 

バルトは、次のように聖書のみを強調する。

 

「人間の存在と全世界の存在とを神の知恵と天父の摂理が支配するということ、さらにまたこの世には神の諸秩序があること、そしてその諸秩序の中で人間が神の意志をあがめねばならないというような秩序はいかなるものであるかということ、そういうことをカルヴァンは聖書から聞く。カルヴァンが人間には本当に全く天地万物の中ではかくされているところの神を讃美することに心を奪われ酔わしめられるのは聖書を通してである。キリストの中で罪をあがなわれた人間に、能力が与えられ、義務が課せられるということは、そういうことであって、聖書と並んで、そしてまた聖書なくしてもなされるというか、あるいは聖書を度外視して、人間自身の独力でなされるような思弁――こういうようなことについての思弁――をすることではない。」(『ナイン!』226頁)

 

ブルンナーは、聖書と天地万物との「二種類の啓示」と言っているのであって、「聖書なくしても」などとは言っていない。バルトは、「聖書を度外視して、人間自身の独力でなされるような思弁」というが、聖書を度外視した自然科学は思弁ではない。バルトこそ思弁が多い。

バルトは「聖書のみ」と言って自然神学を否定し、自然神学に対して無関心であるように説くが、このような彼の神学思想では、自然をもっぱら無神論と唯物論の独壇場にしてしまうのである。また、バルトの主張は、正しい自然神学を探究し、完全な真理を求めようとする人の道を遮断しゃだんしているのである。

 

(3)「自然神学は偶像崇拝と迷信の根源」(?)

 

バルトは、「人間が事実上持っている可能性は、カルヴァンに従えば、人間自身が造り出すところの神々を認識し崇拝する可能性である。すなわち人間に今残っている神認識は、あらゆる偶像崇拝と迷信とが出て来る恐ろしき根源にほかならない」(『ナイン!』226頁)という。

 

確かに、ブルンナーも言っている正しくない自然神学(自然哲学)は偶像崇拝の根源であろう。バルトも彼の著『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』の中で、無神論を生み出した既存宗教の神観はすべて虚構であり、偶像崇拝であると言っている。またマルクス主義の唯物弁証法は「唯物論」であるが、「勝共理論」が暴露しているように、「唯物弁証法は存在と一致しない虚構の論理」である。したがって、唯物論を信奉することも偶像崇拝であるといえよう。

この自然と社会が闘争(憎悪)によって発展するという「虚構の理論」(偶像崇拝)に対して、神学者は無関心であることは許されない。「勝共理論」のように共産主義を批判・克服する思想(正しい自然哲学)を正しく評価しなければならない、というのである。

 

自然や歴史は、マルクス主義のいう対立物の闘争(憎悪)によって発展するのではなく、「宇宙の根本は愛」であり、自然は愛を動機とした相対物(ペア・システム)の授受作用によって存在し、発展するのである。

また、歴史は、歴史の担い手である歴史的グループの「召命意識」(ティリッヒ)や、国と国との授受作用によって発展するのである。相手を排斥する闘争(憎悪)は戦争思想であり、破壊をもたらすだけである。相手との授受作用による共存・共栄は、対話(愛)による平和思想である。

 

ところで、バルトは、「結合点」とカルヴァンとは何の関係もないと、次のように述べている。

 

「どうしてこの可能性がカルヴァンの神学の中で『結合点』の意味を持ちうるかは、全く察知できない。こういう可能性と神の啓示の可能性との間には、何の関係も何の一致も、したがってまた何の内的関連もない。『彼らの理性によって導かれることによって彼らは神に来ない、いな、彼らは一度も神に近づくことすらない』(ヨハネ福音書注釈、1・5、C、R、47、51)。『本当に神を崇拝する光がわれわれを照らすために、天からの啓示から(acoelestiaoctrina)事が始められねばならないのであって、聖書を学ばない人は誰も正しい、そして救う力ある啓示を少しでも味うことすらできない。神の意志がわれわれに聖書の中で神自身の方から証しをすることを、われわれが恐れおののきつつ捉える所、そこに本当の認識の起源がある。詳しく言うと、単に完全な、またあらゆる部分において正しい信仰のみでなく、あらゆる正しい神認識は、服従から生まれる』(『綱要』1・6・2)。……ただちょっとだけでも『結合点』と理解されるような取り扱い方は、全体にわたって全然見出されない。」(『ナイン!』226-227頁)

 

確かに、正しい神認識は、文鮮明師の御言みことばにあるごとく「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」からである。

ところで、バルトは、一方において、「聖書の中で神自身の方から証しをする」と上よりの恵みを強調しておきながら、他方においては人間の努力や行いを強調して、「聖書を学ばない人は誰も正しい、そして救う力ある啓示を少しでも味うことすらできない」と矛盾したことをいうのである。一体、救いは、上よりの一方的な恩寵なのか、5%の人間の決断や聖書を学ぶ努力によるのか、どちらであると言うのであろうか。

 

上述のバルトの主張には、その論理に一貫性がないと言われても仕方がない。恵みの光の中にあっても人間の努力は努力であって、それは神の責任分担ではなく、人間の5%の責任分担である。

 

(4)「神学は聖書の言葉の追思考」(実はバルトの主観的解釈)

 

バルトによると、「カルヴァンは、『自然的な』神認識についての、前述の原則的な(すべての神の業の中に客観的に基礎づけられた)可能性を暗示するもののあることを、常にローマ書1・20の言葉の意味において、あるいはむしろローマ書1・18-3・20の文脈全体の意味において解釈した」(『ナイン!』227頁)という。

 

これは、すでに指摘したように、神学は追思考(実は主観的解釈)であると言うバルトの見解を、カルヴァンの聖書解釈に対して意図的に適用した強弁である。ローマ書1・20は「自然を通しての啓示」(『原理講論』42頁)である。

ブルンナーも、「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべて名人の真価は作品に現われる」(『自然と恩寵』145頁)と述べている。

 

しかし、バルトはローマ書1・18-3・20の文脈全体の意味において、聖書の中の否定側面(不信心と不義)のみを探し出し、「自然の啓示」(ローマ1・20)を否定しているのである。

 

さらに、バルトのカルヴァンについての解説は、下記のごとく続く。

 

「カルヴァンは、むしろ道徳的善の認識は人間の能力を基礎としてなされるということを全く否定した。彼はこの認識を、生まれ変わった者の上においても、日々新しく起こってくる恩寵であると述べている(『綱要』2・2・25)。われわれは『綱要』2・18-25の文脈の中で、ブルンナーのイマゴー論におけるのとは全く別な世界に置かれているということを見出すためには、何の特別な解釈法をも全然必要としない。」(『ナイン!』227-228頁)

 

上述のバルトの主張は、「二つの啓示」の一つである「キリストの啓示」のみを『綱要』の中に見出して「恩寵」を強調するが、もう一つの「自然を通しての啓示」を見ようとしない見解である。

カルヴァンが『綱要』で、「ミクロコスモス」(小宇宙)と言った人間論は、ブルンナーの「二つの啓示」の一つである「自然を通しての啓示」である。

したがって、カルヴァンの自然を通しての「イマゴー論」(人間論)はブルンナーの見解と一致している。

 

周知のように、ブルンナーは、人間は「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損きそんされていない。――人間は罪深くあろうとなかろうと、主体であり、責任を持つものである」(『自然と恩寵』144頁)と言い、「言語受容能力と責任応答性」があると述べている。

このように、人間には神から「話しかけられることができる」という「結合点」(言語受容能力と応答責任性)、すなわち「人間性」があるというのである。

したがって、「キリストの啓示」に応答することができ、また「自然を通しての啓示」からも神を認識するというのである。

 

(5)「天地万物の中における真の神認識」

 

バルトは、「キリストの中における神認識は、カルヴァンに従えば、天地万物の中における真の神の認識を本当に自分の中に含んでいるということは正しい。キリストの中における神認識そのものの中に、天地万物の中における神認識が含まれている!ということは、大切なことである」(『ナイン!』228頁)という。

 

これは、キリストは天地万物の中に、すなわち完成した人間(キリスト)は小宇宙であるとする見解であって、このバルトの主張は、天地万物の中における神認識、すなわち自然神学を「キリストの啓示」の中に包含していることを認めるかのような発言である。

 

しかし、他方においては、バルトは聖霊を受けて「理性が一度、もうひらかれる」人に対しても、自分の力で見ることを否定し、次のように述べている。

 

「われわれの理性が一度、蒙を啓かれると、今度はどうしてもまた自分の力で見ることができるようになるかのようになるのではない(『綱要』2・2・25)! あるいはまたこんなふうになるのでもない。すなわち後から、どうしてもキリスト教自然哲学や歴史哲学、あるいはまたキリスト教人間学やキリスト教心理学、さらにはまたキリスト教に熱心な時代解釈などが活動する余地を得て来る、というふうになるのでない! カルヴァンは言う、『キリストは、神がわれわれに単にその心のみでなく、またその手と足とを見うるようにするための像である』。しかし、カルヴァンにおいては、このキリストという主体が抽象し去られることはない――『われわれがキリストから離れるや否や、われわれは事の大小の区別なく、すべてのことの中で必然的に空想の中に落ち入らねばならなくなるであろう』。」(『ナイン!』228頁)

 

上述のように、聖霊を受けて蒙を啓かれた人でも、「キリストから離れるや否や……空想の中に落ち入らねばならなくなるであろう」という。それは、その通りである。しかし、キリスト教の自然哲学や歴史哲学、あるいはまたキリスト教人間学やキリスト教心理学などの諸学問は「キリストの啓示」の光の中で一層輝くと、なぜバルトは言えないのであろうか。

「キリストの啓示」によって、人間の主体性や理性が再創造されて本然性を復帰する。したがって、5%の人間の主体性と責任を認めるべきであるというのである。ブルンナーの「二種類の啓示」論は、そのことをわれわれに教えているのである。

 

上述の文言を見る限り、確かに、バルト神学は「聖書の啓示」以外の人間の理性による諸学問を神学の味方として見ずに排除している。

その結果、先に指摘したごとく、自然をもっぱら無神論と唯物論の独壇場にしていると言えるのである。ただし、救いにしろ、人間の問題の是正にしろ、キリストを抜きにして、人間の努力だけで成されるのではない、ということをわれわれに教えているという点だけは、傾聴に値する。

 

 

「補足」

 

「啓示と自然」

 

(1)「信仰と理性、人間の5%の努力や責任」について

 

バルトは、応答する能力は和解によるというが、ブルンナーは、人間の理性的本質(神の像)は罪によって実質的には歪められているとしても、神の啓示を受け容れる形式的な可能性をもつと、次のように述べている。

 

「人間はまた罪人としても、他人の語り相手となることができ、また神の語り相手となることもできる」(ブルンナー著『自然と恩寵』144頁)。

「形式的には神のかたち(imago Dei)は少しも毀損きそんされていない」(同)。

 

このように、人間は主体であり、理性的存在であり、言語受容能力と応答責任性があるというのである。

 

和解以前のアブラハムやモーセや預言者らは、神に応答していた。これに対して、バルトは神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得のものではなく、神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであるというのである。「聖霊のみによって――ただ恩寵のみによって」(『ナイン!』197頁)と。

 

バルト神学は、信仰には認識が対応している。そして、信仰が認識に先行する。これに対して、ブルンナーは次のように批判している。

 

「聖書が信仰を聖霊のわざ、聖霊の賜物と呼んでいることは確かであるが、しかし聖書は決して聖霊が私の中で信じるとは言っていない。聖霊が私のなかで信じるのではなく、私が聖霊を通して信じるのである」(『自然と恩寵』152頁)と。

 

上述の聖霊の賜物に関して、「統一原理」(『原理講論』)は次のように述べている。

 

「父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々が、コリントⅠ12章3節に記録されているみことばのように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生じゅうせい(新生)されるのである。これを霊的重生という。」(『原理講論』重生論と三位一体論、266頁)

 

このように、イエスと聖霊によって「新しい霊的自我」に重生(新生)されるとある。古い人間から「原理的な自我意識」(私が聖霊を通して信じる自我)を持つ、新しい人間に再創造されたのである。ただし、これは霊的重生であって、原罪清算による肉的重生(からだがあがなわれること)ではない。

 

(2)「正しい自然神学」

 

バルトは自然神学を否定するが、文鮮明師は「自然は愛の理想を教えてくれる教材だ」といわれ、「自然は第一の聖書……第二ではない」(八大教材・教本『天聖経』分冊「真の神様」より―(自然は愛の理想を教えてくれる教材)―、148頁)と力説しておられる。

 

マタイによる福音書には、イエス・キリストも自然を観察し、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6・29)と記述されている。なんと豊かな感性で自然を見、そこから学んだ事柄を述べておられることか。

 

神の永遠の力と神性とは、パウロが「ローマ」1・20で記述しているように、統一原理は「被造世界を観察することによって、知ることができる」(『原理講論』42頁)と論述している。ただし、人間は神の形象的実体対象であるが、万物は象徴的実体対象である。

同様に、カルヴァンも「神の栄光のしるしは世界の構造自体の中に」と言っている。彼は〝自然神学〟を肯定している。

 

また、ブルンナーは「神の像」の残存と倫理の関係について次のように述べている。

 

「カルヴァンが、この神の像の残存ということと同一視したものは、人間性全体(das ganze humanum)、理性的性質、不死の魂、文化能力、良心、応答の責任性――それは、たとえ決して救いをもたらすものではないとしても、罪の中でもなお存在している――、神との関係、言語、文化生活全体であるからである。そしてこの神の像の残存ということの上に、カルヴァンは彼の倫理の本質的な部分を打ち立てている。」(『自然と恩寵』159頁)

 

このように、ブルンナーは「カルヴァンもルターも実は自然神学をめざしていた」(『自然と恩寵』159頁参照)というのである。そして、ブルンナーは、宗教改革者たちは、バルトのごとく自然神学の是非についてそんなにこだわってはいなかったと述べている。

 

しかし、バルトは激昂げっこうして次のように反論する。

 

「(改革者たちが重きをおいた)聖書の証人たちは自然と恩寵との間の弁証法的遊戯ゆうぎをすべて排除して、神が語るところでは、人は(ひたすら)聞かねばならない。」(『ナイン!』223頁)

しかるにブルンナーは、「カルヴァンが自然的な神認識について語った時の重大な括弧(前提)を……驚くべき自明性と徹底さをもって、捨ててしまった……(すなわち)アダムが完全になったならば、ということ」(同、228-229頁)を捨ててしまい、自分の都合のいいようにカルヴァンを用いているというのである。

 

また、バルトは、「もしわれわれが真の神を天地万物からして事実上キリストなくしても、そしてまた聖霊なくしても、認識しうるならば、神の像は内容的には『全くなくなっており』、教会の宣教の際には聖書のみが裁き主であり、そして人間は自分を救うためには何もなしえないと、どうして言いうるだろうか」(『ナイン!』199頁)と述べている。

 

以上のごとく、問題は先鋭せんえい化し複雑にみえるが、ブルンナーもバルトも神認識に関して問題の核心をついている。バルトの「キリストなくても」、「聖書のみ」という指摘は、カトリックを批判する宗教改革者の立場である。

しかし、「聖霊なくしても」とカトリック側は言っていないし、ブルンナーも言ってはいない。

 

ところで、カルヴァンがどのように言ったのか、その断片なりともここで取り上げておくことは、要を得ていることであろう。カルヴァンは、次のように述べている。

 

「神の栄光のしるしは世界の構造自体の中に、あまりに明らかに刻みつけられていて、どんな粗野そやな鈍い者であっても、それを知らなかったとはいえないほどだ」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、24頁)

 

バルトは、ブルンナーに対して「アダムが完全になったならば」という「前提」を捨てていると言うが、上述のごとく、カルヴァンは完全でない人たち、すなわち「どんな粗野な鈍い者」にも、「世界の結構は……鏡の役」をしていると言い、完全であるなしにかかわらず、自然神学を肯定しているのであって、バルトのカルヴァン理解は、彼自身の神学に一致する点のみを強調する主観的解釈なのである。

 

人間性と神の像の残存について、カルヴァンは次のように述べている。

 

「主が人間本性の中に、最高の善が失われたあともいくつかの恵みを残しておいたことを学ぶのである」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、45頁)と。

 

このように、神の像の残存が人間にあると言っている。

また、この世の諸学問について、次のように述べている。

 

「『最高の善』すなわち神を知り、神との正しい関係に入る賜物は失われているが、この世の諸学に関する賜物は人間の中に残されている」(同、45頁)と。

 

すなわち、カルヴァンは、諸学を「賜物」と言い、救いにとって、人間側の学問を無意味として辱めず、いずれ、その学問はキリストの啓示に出会い、「最高の善」に至る不可欠なものと見ているのである。

 

これらの恵みや賜物と神の像の関係について、カルヴァンは次のように述べている。

 

「神の像はアダムの罪によってわたしたちの内にいわば拭い去られている。しかし……主イエス・キリストにおいて私たちを子として受け入れ、神の像を私たちの内に再び刻みつける」(同、20-21頁)と。

 

「全き真理」はキリストの再臨による以外に、いかに人間がキリストの出来事を啓示として受容したとしても、明らかにされないのである。

その意味では、バルトが言うごとく〝キリスト抜き〟ではあり得ないのであるが、再臨が抜けてはならないことを、われわれは強調するのである。

換言すると、再臨のメシヤを抜きにして、十字架と復活も正しく理解できないであろうし、新約聖書と旧約聖書の中にある〝救援摂理〟に関する天の秘密も理解できないというのである。

 

文鮮明師は、次のように語っておられる。

 

「聖書を中心とする各教団の主要な経書は、人間始祖の堕落によって無知に陥った人間たちを、再び神様の前に帰す道が暗示されている秘密の啓示書です。

したがって、重大な内容が比喩と象徴で描写されているのです。比喩と象徴は、天から来るメシヤによってのみはっきりと明らかにされます。したがって……レバレント・ムーンの教えを通して、新旧約の聖書全体に貫き流れる神様の救援摂理に関する天の秘密が、明確に現されているのです。」(『平和神經』282-283頁)

 

ところで、バルトの神学は〝キリスト中心主義〟といわれるが、天地万物の中における神認識について、次のように述べている。

 

「キリストの中における神認識は、カルヴァンに従えば、天地万物の中における真の神の認識を本当に自分の中に含んでいるということは正しい。キリストの中における神認識そのものの中に、天地万物の中における神認識が含まれている!」(『ナイン!』228頁)。

 

このように、ブルンナーの「二種類の啓示」を認めるかのような発言をした後に、結論として次のごとく述べている。

 

「われわれがキリストから離れるや否や、われわれは事の大小の区別なく、すべてのことの中で必然的に空想の中に落ち入らねばならなくなるであろう」(同、228頁)と。

 

これが、バルトの神学が〝キリスト中心主義〟であるといわれる所以である。

 

ところで、ブルンナーは〝自然神学〟をただ単に肯定しているのではなく、「二つの啓示」を認めることによって肯定しているのである。

その点を理解せずに、バルトは一切の一般啓示を否定し、ただ一つの啓示、すなわち、イエス・キリストの啓示(特殊啓示)のみを説くのである。ただし、ブルンナーは、正しい自然神学は肯定しているが、偽りの自然神学は否定している。

 

バルトの反論(『ナイン!』)に対して、ブルンナーは直ちに『自然と恩寵』の第二版を発表した。しかしながら、バルトはこれ以上、このような議論をすることは無意味であるとして、無視したのである。

ところが、その後、『補足』で述べたように、次第にバルトはブルンナー的な方向に軌道を修正していくのである。

―了―

 

「主要参考資料」

 

『二十世紀神学の形成者たち』、笠井恵二著、新教出版社

『カール・バルト著作集2』新教出版社、ブルンナー著『自然と恩寵』

『カール・バルト著作集2』新教出版社、バルト著『ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え』

世界の名著、『ルター』、中央公論社

『キリスト論論争』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局

『カルヴァン』、久米あつみ著、講談社

『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、

ティリッヒ『組織神学』第1巻、新教出版社

『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、内藤道雄訳、新教出版社

 

ブルンナー「出会いの神学」(9)

(B)「ブルンナーの『六つの命題』に対するバルトの反論」

 

バルトはブルンナーの「私の反対命題とその基礎づけ」(六つの命題)に対して下記のごとく反論している。

 

(1)ブルンナーの「神の像」の理解に対するバルトの批判について

 

バルトは、ブルンナーの「神のかたち」の解釈について、次のようにバルト式にまとめている。

 

「上述の人間の『啓示能力』という言葉は、ブルンナーに従えば(143頁以下 注:ブルンナー著『自然と恩寵』のページ数)、人間の持っている『神の像』を意味する。『人間の持っている神の像はその形式的側面からすると全然こわれていないということが、神の啓示に対する客観的可能性である』(172頁)。ブルンナーは力を入れてこう言う――被造物の中で人間を特に顕著なものとして区別するものは、人間における純粋に形式的なもの、すなわち『人間性』、主体性、理性的なもの、応答責任性のことであって、それが人間の信仰の可能性の前提であると共にまた罪を犯す可能性の前提でもある。こういう前提、すなわち人格的存在であるということは、罪によってなくならされてはいない。したがって、こういう形式的意味において人間の中にある本来の神の像はこわれていない。――事実上、こわれていないではないか。人間は罪人であっても、やはり人間であって、材木や丸太にはならない。しかし、それだからと言って人間の理性は神の本質を規定するのには、この世の中の何か外のものよりも、より適したものであるだろうか(170頁)。」(バルト著『ナイン!』196頁)

 

人間の理性に関して、バルトは上述のごとく、理性は「人間の信仰の可能性の前提である」と述べたブルンナーの見解を取り上げて批判している。しかしブルンナーは、そのようなバルトが批判する自然的理性だけでなく、啓示の光の中にある理性に関しても述べている。言い換えると、第一に、人間の理性に関して、神から離反している理性(人間の信仰の可能性の前提である)と、第二に、恩寵を受容した理性の二つを述べている。しかし、バルトは、前者のみを主張し、後者を否定する。

 

ところで、バルトは、ブルンナーの「神の像」の理解を「啓示能力」と言い換えている。それで、読者はバルトのいう「啓示能力」では、ブルンナーのいう「神の像」の意味がわからなくなる。したがって、バルトが「啓示能力」といって批判する時、ブルンナーのいう「神の像」、すなわち、人間は主体であり理性的存在であるということ、罪人であるとしても〝言語受容能力〟と〝応答責任性〟があり、人間は〝特殊な地位〟にあるということを想起しなければならない。

 

はじめに、恩寵について、バルトは「泳ぐ運動」の譬えをもって、次のようにブルンナーを批判する。

 

「水泳の達人によって瀕死ひんしから救われた人間が、自分は依然として人間であって鉛の塊でないという明白なことを、彼の『救われる能力』だと主張するなら、それはおかしくはないか、――と、全く偶然にもある人がブルンナーの書物のこの個所から受けた印象をはっきりと述べた。一人の人が自分も泳ぐ運動とでも言うようなことをすることによって、自分を救ってくれる人を助けたと言いうるのなら、それは救われうる能力だということができるだろうが、そう言えないなら、それはおかしい言葉である。ブルンナーはそういうことを考えることができるのだろうか。否、決してそうでないはずである。われわれは『自分自身で自分を救うために何もできない人間』ということを彼が語るのを聞いた。」(『ナイン!』196頁)

 

このように、バルトは、ブルンナーの「啓示能力」、すなわちブルンナーのいう「神の像」(人間は主体であり、理性的存在である。言語受容能力と応答責任性がある)を、自分も泳ぐ運動で、自分を救ってくれる人を助ける能力であると解釈する。それは、救われうる能力であるという譬えでもって表現し、「自分自身で自分を救うために何もできない人間である」という主張と矛盾するではないか、と批判するのである。

 

そして、バルトは、ブルンナーの「啓示能力」(応答責任性)を、さらに次のように批判する。

 

「あの『啓示能力』と言われているものは、啓示の中で人間に与えられる神の恩寵の働きに対して、人間がその仕事仲間として協力することであるかのように見えるような、そういう見方のことである。……ブルンナーは、宗教改革者たちの『聖霊のみによって――ただ恩寵のみによって』という主張を無条件的に認めることと少しも矛盾することなしに、しかもなおああいう自明なことについて一言だけでも言えるだろうか」(『ナイン!』197頁)と。

 

これは、従来からあるカトリックの協働きょうどう説に対する批判を、ブルンナーに適用したものである。すなわち、バルトの「恩寵のみ」という主張は、恩寵を受容する前提条件である「人間の決断や努力」(5%の責任分担)を否定する宗教改革者ルターの見解と同様のものである。

 

上述のバルトの「泳ぐ運動」の譬えに対抗して、ここで、カトリック側からの「嵐の中の船と船乗り」や「収穫の労働」の譬えを紹介しておこう。

 

「それでも、幇助ほうじょの恩恵によるのでなければ、得ようと努力している目的物を獲得することはできないのであるが、私たちの意志は何もなしていないのではない。……たとえば、激しい嵐の中から船を無傷で港へ導き入れた船乗りが、『私が船を救った』と言わず、『神が救いたもうた』と言うようなものだ。だが、彼の技術と努力が何ら働きをしなかったわけではない。同様に、豊かな収穫を畑から納屋へ運び入れている農夫は、『私がこんなに多量な年収穫高をあげた』と言わないで、『神がお与えになった』と語る。しかし、そうだからといって、農夫が穀物の収穫のために何の働きもしなかったと言う者があろうか。……しかし神の好意が近づかなければ、人間のわざは何の成果もあげえないから、全体が神の恵みに帰せられているのである。」(『世界の名著18・ルター』、中央公論社、229頁)

 

「嵐の中の船と船乗り」や「収穫の労働」の譬は、〝恩寵のみ〟を強調して「人間の努力」を否定するルターの見解を批判したもので、カトリックの「恩恵と自由意志の関係」についての「協働説」を説いたものである。

この譬えは、統一原理の説く「神の95%の責任分担」と「人間の5%の責任分担」の関係を表現している。

 

以上にように、「嵐の中の舟と船乗り」や「収穫の労働」の譬えと、バルトの「泳ぐ運動」の譬えとを対比すると、カトリックとプロテスタントの主張の相違点がよく分かる。

そして、バルトが、「聖霊のみによって――ただ恩寵のみによって」と述べる〝恩寵のみ〟の主張と、カトリックの「協働説」の対立を、統一原理によって矛盾することなく整理することができる。

 

協働説を原理的に解説すると、み旨の100%の成就において、「神の95%の責任分担」(恩寵)と「人間の5%の責任分担」(船乗りの努力)があるという意味である。その上で、み旨が成就すれば全体(100%)が神の恵みであると言って神に感謝するのである。そして、救われたのは〝自分の努力〟によるのではなく、〝神による〟と言って、神に感謝するのである。

 

ただし、統一原理は5%の「人間の努力」について、次のように述べている。

 

「人間の責任分担5%というのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。しかし、これが人間自身においては、100%に該当するということを知らなければならない」(『原理講論』243-244頁)と。

 

(2)「二種類の啓示」(「自然を通しての啓示」と「キリストの啓示」)について

 

バルトは、ブルンナーの「二つの啓示」について、次のようにまとめている。

 

「神は人間にとっては、神の創造した世界を通して『何らかの仕方で認識されうる』ということ(145頁)、『人間は何らかの仕方で神の意志を知る』(145頁)ということについて述べている。『神がこの世を創造することは、同時にまた神が啓示することであり、神が自己を伝達することである』(145頁)。そして、その神の啓示、自己伝達が認識されうるという可能性そのものは、罪によってももちろんゆがめられてはいるが、破壊されていない。この世を通しての神の啓示認識だけでは、救いをもたらす神の認識とはならない。天地万物の中での啓示も『それの完全な姿の中で』認識しうるのは、『キリストによってもうひらかれた人』のみである。しかし、天地万物の中での啓示は、キリストによって蒙を啓かれたとは言えない人にとっても、歪み、ぼかされてはいるが、とにかく何らかの仕方で認識されうる。」(バルト著『ナイン!』197頁)

 

上述のように述べた後に、次のように批判する。

 

「『自分自身によって自分を救うために何もなしえない』ならば、われわれが天地万物から事実上見出す神認識の対象として考察しうるものは、何としてもそういうものにほかならない。しかし、ブルンナーはそうは考えないし、またそうは言わない。」(同、『ナイン!』198頁)

 

ブルンナーは、「キリストの啓示」を受けていない人であっても、不完全であるが、自然を通して神を認識すると言っているのである。救われるか、救われないかという問題ではなく、真の神を認識できるか否かという認識論の問題なのである。しかし、バルトは、この〝認識論〟の問題を〝救済論〟の問題へと論点をずらして批判をしているのである。

 

このようにバルトは、救済論の観点から神認識の問題を取り上げ、キリストを抜きにして天地万物から神をいくら認識しても、その人は、キリストを知らないので不完全な神認識であって救われていないといい、そのような神認識ではないかと批判しているのである。

しかし、「バルトの神認識も不完全で真理の一部分であるに過ぎないのであって、完全な救いではない。そのような神認識である(コリントⅠ、13・9-10)」と、バルトの批判をバルトにも投げ返しておきたい。

 

ところで、話をもとに戻すが、ブルンナーは「二種類の啓示」と言っているのであって、キリストの啓示を抜きにしているのではない。そして、自然神学は余計なものではないと言っているのである。しかし、バルトは余計なものとして、自然神学を徹底的に排斥するのである。ここが、神認識における両者の相違点なのである。

 

バルトは、ブルンナーの「自然を通しての啓示」(自然神学)について、次のように批判している。

 

天地万物の中で啓示される神は、人間には全然認識されえないで、完全にかくされているということである。そうであるなら、自然神学はどうなるか。そうであるなら、神学であると主張したり、神学的に価値があるというようなことは少しも言わないで、宗教史や文化史の上に立ってなされる理論であることしか自然神学のすることとしては残るものはない。否、残念ながらブルンナーは、天地万物から『何らかの仕方で』認識されうるしまた認識された神は、天地の創造者である唯一の神、三位一体の神であって、この神はキリストの中でわれわれを義としまた彼の聖霊によってきよめると考えている。この神は、たとえ罪によって歪められ、曇らされ、くらまされており、神々の姿に偽装されているとはいえ(146頁)、事実上すべての人間によって、キリストなくしても、また聖霊なくしても認識されうる神である。実際には『二種類の啓示』が『ある』――」(『ナイン!』198-199頁。注:太字ゴシックは筆者による)と。

 

上述のように、バルトは、キリストと聖霊なくしても天地の創造者である「唯一の神」、「三位一体の神」を認識することができるのか、と問うのである。

 

われわれは、次のようにバルトに反論することができるのである。キリスト以前の、神から召命された旧約時代の人たちは、キリストなくしても、また聖霊なくしても、アブラハムやモーセや預言者らは、創造神(唯一の神)を認識し、応答していたというのである。

 

ブルンナーは、神認識において、「事実上すべての人間」と言ってはいない。神が自然を通して啓示されても、無神論者や唯物論者は「自然は運動する物質のみである」と見て、神を認識しない。彼らは、彼らの哲学や思想によって事物の性相的側面(精神的要素)を見ることができず、形状的側面(物質的要素)のみを見るからである。また、このような無神論者や唯物論者を生み出したのは、今までの有神論的な神学や不完全な自然神学(自然哲学)によるのである。

 

次の問題は、バルトが「天地万物の中で啓示される神は、人間には全然認識されえないで、完全にかくされている……そうであるなら、自然神学はどうなるか。」という問題である。「神学であると主張したり、神学的に価値がある」とは言えないではないか、という問題である。

 

ブルンナーは、不完全な、一部分の神認識と言っているのであって、バルト式のブルンナー解説のように、「全然認識されない」とは言っていない。

 

ところで、バルトは〝偶像崇拝〟を取り上げて、次のようにブルンナーの主張を批判する。

 

「『何らかの仕方で』ゆがめられ、曇らされ、またくらまされて神を認識するのとは、もっと違った仕方で神を認識すると言っていると考えることができるようになるだろうか。一体、偶像崇拝はブルンナーに従えば、真の神の礼拝の言わば不完全な前段階にすぎないのだろうか。一体、キリストの中での神の啓示の機能は、神の啓示の広い働きの範囲内で、あの第一の段階から第二の段階にわれわれを導くことだけなのだろうか。」(『ナイン!』199頁)

 

周知のように、真の神の礼拝と偶像崇拝は同一方向ではない。全く反対方向である。それゆえ偶像礼拝は、バルトがいうように、真の神の礼拝の不完全な前段階ではない。

 

ちなみに、ティリッヒも「神の似像である人間のみが自己を神から離間りかんする力を持つ」(『組織神学』第2巻、41頁)と述べている。神は、そのような自由な人間を創造したからこそ、人間はロボットではなく「神の像」であると言えるのである。

 

(3)「保持の恩寵」に対する批判

 

バルトは、「保持の恩寵」に対して、次のように批判する。

 

「天地万物はそれが活動している姿においても、またそれが現在置かれてある姿においても、ひとりの真の神の本当に自由な、本当に値なくして与えられるところの恩寵のわざである。その通り!とわれわれはそれに対して言わねばならない。しかし、どういう意味で、またどういう権利をもって、ここでブルンナーは、イエス・キリストの恩寵に言わば先行する別な、特殊な(あるいはむしろ『一般的な』)恩寵について語るのであろうか。」(『ナイン!』200頁)

 

バルトは、「イエス・キリストの恩寵に言わば先行する別な、特殊な(あるいはむしろ『一般的な』)恩寵について語るのであろうか」という。この問いは、神とは三位一体の神であり、キリスト以外の啓示はないという意味である。これが、バルト神学が「キリスト中心主義」(キリスト一元論)、あるいは「キリスト論的集中」と言われるゆえんである。

 

そして、バルトは〝恩寵のみ〟を、次のように説明している。

 

「『だから、それと共に人間の行為そのものは、神の恩寵――救う恩寵ではなくて維持する恩寵――の見地の下に置かれる。創造者自身が自分の創造したものを、罪の堕落の中で保持するために用いる人間のそういう行動のすべては、保持の恩寵の中でなされる行動である』(148頁)。一体、創造者自身が自分の恩寵を与えるために用いる人間の行為というようなものがあるのだろうか。こういう考え方は、人間の行動と神の行動とが間接的に同一であるというアウグスティヌスの図式を前提とするか、あるいはまた神の質料因と人間の道具因とが協力するというトマスの図式を前提とすると、よく分かる。もしブルンナーが、人間の行動も確実にまた『神の恩寵の見地の下に』置かれるという仕方でイエス・キリストの義認と聖化の恩寵について語るであろうならば、こういう考え方は確かに好意をもって理解されうるであろう。しかし、ブルンナーはそういうことをしようとしない。――彼はどこまでも一つの特別な『保持の恩寵』があると言おうとする。」(『ナイン!』202-203頁)

 

統一原理は、「聖書には、神の救いの摂理に関する数多くの秘密が隠されている」(『原理講論』341頁)と述べ、ヤコブの家庭的路程やモーセの民族的路程は「将来、イエスが来られて、人類救済のために歩まねばならない摂理」(同、341頁)を表示していると述べている。

 

また、「一人の預言者の生涯に関する記録を取ってみても、その内実は、単純にその人の歴史というだけにとどまるものではなく、その預言者の生涯を通して、堕落人間が歩まなければならない道を表示して下さっているのである。」(同)と述べている。

ヨハネ福音書5章19-20節で、イエスは、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。……父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである」と語っている。

 

一人の預言者の生涯が示しているように、バルトの批判に反して、このことは、人間の行動と神の行動とが間接的に同一であるということを示している。統一原理は、恩寵(キリストの啓示)以外に、旧約聖書の歴史の中に〝特別な啓示〟を見るのである。

 

しかし、現在まで、旧約聖書の中にあるモーセの生涯に関する物語などは、彼の歴史に関する単なる記録であると考えてきた。バルトのキリスト中心主義から見れば、恩寵以外の別な「先行する」「特別な」啓示は存在しないということになる。しかし、統一原理は、モーセの生涯を通して、イエスに先行する「復帰摂理に関するある秘密を教えて(いる)」(『原理講論』400頁)と説いている。単なる歴史の記録ではないというのである。

 

ところで、ブルンナーのいう「保持の恵み」とは、「創造の恵み」のことであって、太陽は善人にも悪人にも照り輝かせ、生命、健康、力等を与えている。このように、自然的な生活に必要なすべてのもの、そういうものすべては、「保持の恵み」の概念の下に置かれる。また、歴史の遺産も「保持の恵み」の概念の中に入れている。

 

このように、ブルンナーは、「救う恵みを学び知る前にすでに神の恵みによって生きていたということを、たとえその恵みが何であるかを正しく認識しなくても、認識する」(『自然と恩寵』148頁)と述べているのである。

 

そして、ブルンナーは、「保持の恵みに関して正しく語ることは、キリストの啓示の光の中で初めて可能である」(『自然と恩寵』148頁)と指摘することも忘れてはいない。それにもかかわらず、バルトは、ブルンナーのいう恵みとは、すべてイエス・キリストの恩寵の下にあり、その恩寵に先行する別な、特殊な恩寵など存在しないと断言する。

 

バルトは言う、「天地万物とそれの保持とを和解からより以外の仕方で理解しうるか。どうしてそういうことについては旧約聖書と新約聖書とにおけるキリストの啓示からしてより以外の仕方で語りうるか」(『ナイン!』201頁)と。

 

安酸やすかた敏眞氏は、バルトの神概念について、次のように述べている。

 

「バルトにおいてはキリスト論は三一論と完全に統合されて理解されており、キリスト論は全面的に三一論的文脈の内部で論じられるということである。したがって、バルトの教義学体系においては、『神についての教説』だけが三一論的視点から論述されるのではなく、『神の言葉についての教説』も、『創造論』も『和解論』もすべてが三一論的視点のもとで考察され、かつそれぞれがキリスト論的な含蓄を含んでいる。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、514頁)

 

以上のような、バルトの〝特殊な神概念〟(三位一体の神〈三一論〉)から、ブルンナーの主張する創造神の「保持の恵み」も、「創造の恵み」も、すべてそれらはイエスと聖霊の恵みとされてしまうのである。

 

太陽が輝くのもイエスによる(?) 雨が降る恵みもイエスによる(?) 豊かな農産物や海産物や地下資源が存在するのもイエスによる(?) このように、すべてがイエス・キリストの恵みであるというのであろうか。創造神の恵みと、イエス・キリストの恵みとの区別がない。

 

ちなみに、バルトのキリスト中心主義による聖書解釈は、旧約聖書の多様性をキリスト一元論に還元してしまうという批判がある。

 

(4)「結婚」について、

 

バルトは、「結婚が創造の秩序であるのか」といい、「神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と批判する。

そして、「結婚の原理的意義」も「家庭の原理」についても、聖書にそのような命令や原理などはない、として排除する。はたして、イエスは結婚について原理的に何も語っていないと断言できるのであろうか。

 

「補足」で、すでに論じているが、イエスは「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』彼らはもはや、ふたりではなく一体である」(マタイ19・4-6)と家庭の原理について語られている。

そして、イエスは、「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・6)と戒めに関しても述べられている。

文鮮明師は、この夫婦の戒めについて、絶対「性」を守るようにと言われている。

 

(5)「結合点」についての批判

 

次の文章は、バルト式にブルンナーの「結合点」をまとめたものである。

 

「救いの恩寵に対して『結合点』がある(150頁)ということである。そこで言おうとしていることは、明らかにブルンナーの主張する、啓示に先立つ『啓示能力』のことである。もっとも、それは、たとえ啓示の中で初めて甦えって来るところのものであるにしても、啓示能力であることには変りがない。そういう啓示能力があって、その啓示能力を基礎として神の言葉が人間に達するのであるという見地の下で、この啓示能力をさらにこまかく説明する時に、ブルンナーは先ず第一に『結合点』の根源的規定にさかのぼる――すなわち『結合点』とは、罪人からも、なくなってしまっていない形式的な神の像のことであって、人間をして人間たらしめるもの、言葉を換えれば、人間性(humanitas)のことである。人間が責任を感じ決断しうるためには、人間は『形式的な意味において呼びかけられうる』ものでなければならない。」(『ナイン!』206頁)

 

上述のごとく述べた後に、次のごとく「結合点」を批判する。

 

「理性や応答責任性や決断能力は、人間の尺度からすると、あるとは言えないような人々にとっては、すなわち、生まれたての子供や白痴にとっては、最も深刻な悩みである。」(『ナイン!』207頁)

 

確かに、バルトの言うごとく深刻である。しかし、生まれたての子供や白痴にも「結合点」(神の像)がないのではなく、あるのである。

 

次に、バルトは、天使を持ち出してきて、次のように批判する。

 

「ただ人間のみが神の言葉を受けることのできる存在であるというような命題を用いる時には、用心して用いる必要性があるであろう。なぜなら、それは明らかに天使が忘れられているし、最後にはまたわれわれには知られていない『存在』がありうるし、そしてまた……」(『ナイン!』206頁)と批判する。

 

神は、啓示を天使に与えるのではない。人間に啓示を与えるのである。言語受容能力と応答責任性があるというのは、それがあるからこそ人間は神の啓示を受容することができるのである。

天使にも言語受容能力があるから啓示を天使に与えるという意味ではない。神の使いとしての天使は、処女マリヤに〝受胎告知〟をするが、神は天使を通して人間に啓示を与えるのである。天使に啓示を与えたのではない。

 

(6)人間の自意識について

 

この個所も、ブルンナーの主張の個所で詳細に論じているので、割愛する。

 

以上が、ブルンナーの「六つの反対命題」に対するバルトの反論であるが、われわれから見れば、上述のごとく、多くの問題点を指摘することができるのである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(8)

補足

 

(1)「神のかたち

 

ブルンナーは、「神の像」という視点から、男と女の関係を次のように考察している。

 

「人間創造は、相手ができるまでは、完成されていない。……神は愛であり、神の本質自身に交わりが存在する故に、人間は愛することができる者として、一対の人間として、造られねばならない。彼は他者なしには自己の本質を実現することはできないのであり、その目ざす所は、愛における交わりである。」(『ブルンナー著作集』第3巻 教義学Ⅱ、教文館、1997年、79頁)

 

このように、ブルンナーは、「神は愛であり、神の本質自身に交わりが存在する」と述べ、「神の似姿」とは男と女に分かれていることではなく、「一対の人間」(二人は一体)であると原理的に捉えている。しかし、「一対の人間」から、愛なる神を二性性相の中和的主体と捉えるに至っていない。また、二人(アダムとエバ)の愛の成長過程についても述べていない。

 

これに対して、バルトは神を「三位一体の神」と捉え、その神(神論)から人間との縦的関係と、人間と人間との横的関係を基本形として捉え、男と女の区別と関係について述べている。

 

それで、ここから、バルトの「神の像」(男と女)の解釈を中心に論述していくことにする。

 

バルトは、人間の応答責任について次のように述べている。

 

「人間は、創造主なる神の前で応答の責任をとる・・・・・・・・間に、存在する・・・・。そのことは、あれらの線のうちの第一の線であり、それを念頭においてわれわれは神の誡めを前節で、この応答責任を遂行し、そのようにして神の前で、神のために、自由であるようにという誡めとして理解しようとこころみた。人間についてあの第一の命題から、今、次の第二の命題が区別されなければならない。それはすなわち、人間はその創造の中で、創造と共に、したがって彼が人間として存在することがゆるされる間に、神の契約相手・・・・・・であるよう定められており、この彼の定めが彼の存在をほかの・・・人間との出会い・・・の中での存在として特徴づけているという命題である。人間が、神との契約の中で存在するよう定められているということ、そのことはその対応を、彼の人間性(Menschlichkeit)、すなわち、彼の存在の特別な性質は、もともと、はじめからして、そのようなものとして〔隣人と〕共なる人間性・・・・・・(Mitmenschlichkeit)であるということの中に、その対応をもっている。」(カール・バルトの主著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳 新教出版社、1980年、3-4頁)

 

このように、バルトは「神の像」から、第一の命題として、人間は「神の契約相手」(縦的関係)であるように定められていると述べ、第二の命題として、「〔隣人と〕共なる人間性」(横的関係)として、他の人間との出会いの中での存在として定められているというのである。

 

同様のことであるが、またバルトは、「神は人間に対しその人間性に向かって語りかけ給う。そのことは具体的には、神は人間をその隣人に向かわせ給うということを意味している。……神は人間を、『交わりの中での自由』へと、すなわち、その隣人との交わりの中での自由へと、呼び入れることの中で、神との契約の中にあるべしという人間の定めにおいて、真剣に受けとり給うということを意味している」(同、4頁)と述べている。

 

このように、神と人間との縦的な関係は、孤立した関係ではなく、人間と人間との横的関係性として定められているというのである。これが人間の基本的形態で、それは男と女の関係で示されるというのである。

 

次に、バルトは「隣人と共なる人間性」を通じて「神を知る」と、下記のように述べている。

「神は人間を、彼がほかのもの・・・・・を肯定する間に、自分自身を・・・・・知り、ほかのものを・・・・・・慰め励ます間に、自ら・・を喜び、ほかのものを・・・・・・尊重する間に、自分自身が自分であることを実証するよう呼び出し給う。この自由・・への呼び声として――(われわれはまたこのように言うことができる)人間性・・・(Humanität)への呼び出しとして――われわれは今、神の誡めを理解しなければならない。人間性、人間的存在の特別な、自然的な性質は、その根において、まさに隣人と共なる人間性である。隣人と共なる人間性でない・・ような人間性は非人間性(Unmenschlichkeit、Inhumanität)であるであろう。そのような〔隣人と共なる人間性でないような〕人間性は、また神の契約相手であるべき人間の定めに対応することができず、ただ矛盾することができるだけである。その間の事情は、ちょうど孤独ナ神ではなく、三位一体ノ神、関係の中での神、であり給う神が、孤独ナ人間の中に、ご自身を再認識し給うことができないのと同じようである。神が人間に対して人間性を、したがって交わりの中での自由を、命じ給う間に、神は、人間に対して、自分自身を神の似像として――なぜならばそのようなものとして神は彼を創造されたのであるから――確証し、実証するよう呼び出し給う。そのことが、われわれが今考察しなければならない神の誡めの形態の最も深い、最後的な基礎づけである。」(カール・バルト著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳 新教出版社、1980年、4-5頁、注:太字ゴシックは筆者による)

 

そして、バルトは、「隣人と共なる人間性の最初の、同時にまた範例的な領域、人間と人間の間の最初の、同時にまた範例的な区別と関係が、男と女の・・・・間の区別と関係である」(同、5頁)と述べている。

 

このように、バルトは、「神の像」を「隣人と共なる人間性」(共同人間性)として理解するのである。つまり、バルトは「神の像」(男と女)を「三位一体の神」の似像として類比的に理解しているのである。

言い換えると、「神が、孤独ナ人間の中に、ご自身を再認識し給うことができない」といい、神は、「隣人と共なる人間性」(男と女)を通じて「確証し、実証するよう呼び出し給う」と述べ、神と人間との「類比の関係」から、神を知ることができるというのである。

 

このように、バルトは、神と人間との関係を類比的に捉えているが、この類比については、ブルンナーはバルトに対して次のように述べていた。

 

「バルトの教義学も、そのほかのすべての教義学と同じようにアナロギア(Analogie)の思想の上に基礎を持っている。ただ、バルトはそのことを認めようとしないだけである。」(『自然と恩寵』170頁)。

 

しかし、バルトは、反論文『ナイン!』では沈黙していたが、『教会教義学』においてブルンナーとの論争を省察し、上述のように〝神の像〟の解釈を展開しているのである。

ただし、バルトは、神と人との関係をトマス・アクィナスのように「存在の類比」と捉えるのではなく、信仰の義認によって新しく形成される神と人間との関係、すなわち「関係の類比」(信仰の類比)として捉えるのである。つまり、自然神学の立場から、人間は「神の像」であると「存在の類比」として捉えることを否定しているのである。

しかし、カトリック側から、バルトの「関係の類比」(信仰の類比)は「存在の類比」が前提でそのように言えるのではないかと反論されている。

 

ところで、文鮮明師は、神と人間(アダムとエバ)との縦的な「真の愛」の関係と「男と女」(アダムとエバ)の横的な「真の愛」の関係において、二人の「真の愛」の成長過程を捉え、「四大心情圏」と「三大王権」として解明されている(図解がある)。

バルトの「神の像」の解釈は、この真理をキリスト教会が受容することを可能にする前提条件となるであろう。

 

以上のように、バルトは「三位一体の神」の内在的関係(父、子、聖霊がどのような相互関係にあるかということ)から出発して、共同人間性を理解し、共同人間性を前提として男と女の関係を理解し、隣人と共なる人間性の最初の範例的な区別と関係は、男と女の間の区別と関係であると述べているのである。

 

ただし、最初の範例的な区別と関係の成長過程に関しては、ブルンナーと同様に論じていない。バルトは「三位一体の神」というが、イエスに幼年―少年―成人という成長過程があったように、神に〝成長〟という概念があることを知らないのである。したがって、バルトは「成長過程」において、「真の家庭」の中で、神の愛を確証し、「四大心情圏」と「三大王権」として原理的に解明していない。バルトやブルンナーは再臨のメシヤでないので、それは致し方がないことである。

 

(2)「人間論の問題解決は神論にある」

 

人間論(男と女の関係)は、神論の捉え方によって決定する。男と女の関係は主体と対象の「相対的関係」であって、支配と被支配の「対立関係」(支配と隷属関係)ではない。

今日、フェミニズム神学が主張するように、「神の像」の解釈において、伝統的神学は堕落人間に対しても、「男は、神のかたち」(コリントⅠ、11・7)であると解釈し、反対に女性は「神の像」というより、アダムを誘惑して堕落させたエバの似姿であると解釈されてきたというのである。

 

このように、フェミニズム神学は、伝統的神学は聖書を男性中心主義的に解釈してきたと批判し、男性優位の家父長的体制の下で女性は虐げられ隷属させられてきたというのである。男はこうで、女はこうあるべきだという「男らしさ」、「女らしさ」という性差による社会的役割の差別は、生物学的な区別ではなく、文化的社会的な産物であると批判している。

 

このような人間論の解決は神論にある。「神の像」から、既存の神学のように人間論(男と女の関係)をあれこれと論じても、決して解決しない。「神の像」から神論を究明するところに、問題を解決する鍵があるのである。

 

ところで、バルトは、人と人との関係(男と女の関係)が基本形であるというが、われわれは〝家庭〟が基本形であると捉え、真の家庭が、神との類比の関係にあると見る。また「家庭が天国の基盤」(『真の神様』126頁)であるというのである。

 

「創造論」において、バルトは「神の像」を三位一体的に理解し、神論(三位一体論)から「人間論」(男と女の関係)を論述するが、その点は評価されるが、完全な神を完全には認識できていない(コリントⅠ、13・12a)。

 

「聖書の啓示」である「神の像」(男と女)と「自然の啓示」から、神概念を「真の愛を中心とした二性性相の中和的主体」と存在論的に捉え、文鮮明師は、神の「心情」(真の愛)を「真の家庭」の枠の中で「生活」(参照:ヨハネの黙示録21章3節)を通して「四大心情圏」と「三大王権」として誰もが経験し得ると説かれるのである。これは驚くべき御言みことばである。

 

バルトの神は、「神―イエス―聖霊」の「三位一体の神」である。しかし、彼の「天の父」の概念に女性性相がない。「神―アダム―エバ」と「神―イエス―聖霊」は類比関係である。したがって、イエスに対する聖霊はアダムに対する堕落前のエバに対応するので、聖霊は女性ではないかというのである。旧約聖書の「ルァハは女性形である」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、内藤道雄訳、新教出版社、44頁)。

 

ちなみに、今日までの歴史において、神は三人のアダムを送って来られた。しかし、三人の個体は相違する。イエスは洗礼ヨハネを指してエリヤである(マルコ9・13以下)と言われた。洗礼ヨハネとエリヤは、個体は異なるが〝天的使命〟が同じなので、そのように言われたのである。洗礼ヨハネは、エリヤの霊の「再臨者」なのである(『原理講論』復活論、231-232頁)。「最後のアダムは命を与える霊となった」(コリントⅠ、15・45)、その霊(イエス)の「再臨者」が文鮮明師なのである。

 

再臨主の御言に、「アダムは神様の男性的性稟を展開させたものであり、エバは神様の女性的性稟を展開させたものなのです」(八大教材・教本『天聖経』「成約人への道」1421頁)とある。

 

神(天の父)の概念の中に、男性性相と女性性相があるのである。すなわち、神は無形であり、その無形なる神の二性性相が有形の分立体として顕現したのが、「アダムとエバ」であり、「イエスと聖霊」である。言うまでもなく、神を無形なる存在と捉える神観は偶像ではない。

 

「神の像」である人間は、心と体の統一体である。神と人間の類比の関係から、統一原理は、神は男(陽性)と女(陰性)の二性性相であるが、心(性相)と体(形状)の二性性相の存在でもあると捉えている(『原理講論』47頁)。

現代神学の動向に、「神の像」の解釈で、男と女の関係から形状的な社会学的人間関係を見る見解が評価されるが、統一原理の神論から見て、彼らは、神の性相的な「真の愛の秩序」の原理が実体の人間関係の中で顕現することを見落としているのではないか、と指摘し得る。

 

堕落によって、自己中心的になった人間は、神との縦的な心情関係が断絶し、神の心情(愛)から疎外された存在となっている。その結果、横的な人間と人間の間の心情関係も断絶するようになった。言い換えると、人間関係の疎外の根本原因は、神と人間との縦的な心情(愛)の断絶にあるというのである。それゆえ、救いとは、メシヤによって人間が再創造され、断絶した神と人間の縦的関係と、人間と人間との横的関係を連結することにある。

 

ところで、なぜ神と人間との縦的な心情関係が断絶したのであろうか。

文鮮明師は、「これからこの世界問題を解決して、人類の道徳問題をすべて解消させるためには、堕落論がなくてはならないのです。堕落論なくしては、人間の問題が是正されないのです」(八大教材・教本『天聖経』「成約人への道」1480頁)と語っておられるのである。

 

(3)「男と女の区別」と「結婚」(一対の人間)について

 

バルトは男と女の関係について、次のように述べている。

 

「人間が神の似像をもっているということで、創世一・二七以下によれば、神は彼らを『男と女』とに創造されたこと、この関係の中で、まさに神ご自身こそが関係の中にあり、ご自身の中で孤独ではあり給わないということに対応しつつ〔神が彼らを男と女とに創造されたこと〕が理解されているのである。」(カール・バルト著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳、新教出版社、1980年、5-6頁)

 

神は「人間を男と女とに創造された」といい、バルトは「まさに神ご自身こそが関係の中にあり、ご自身の中で孤独ではあり給わない」と述べているが、堕落の出来事によって一瞬のうちにして息子(アダム)と娘(エバ)を失った親(神)が、お一人でいて寂しくないはずがない。ところで、神は孤独でないと感ずる人格があるのであろうか。

 

文鮮明師は、神と人間との「類比」から「人格神」について次のように述べておられる。

 

「神様がいらっしゃるのならば、神様も人格的神でなければなりません。人と同じでなければなりません。人格的神だということは、知情意を備え、感情とか、またはみ旨を中心として目標とか、そのようなすべてのものが具体的でなければならないのです。」(『真の神様』35頁)

「絶対的神様は、悲しむことができるでしょうか、できないでしょうか。……悲しみとかかわることができるでしょうか、できないでしょうか。これは深刻な問題です。わたしたちのような人間は、それをそのまま通り過ぎることはできません。絶対的である神様は絶対的に悲しみがあってはならないと言うならば、その神様は知情意をもった、喜怒哀楽の感情をもった人間の父となることはできないのです。論理的に矛盾します。ですから神様は、私たち人間よりももっと喜怒哀楽を感じることができる主体とならなければなりません。」(『真の神様』37頁)

 

このように、伝統的神学の悲しみも、苦しみもない、不変不動の超越的な神観は虚構であると批判し、神の像(創世記1・27)から〝人格的神〟を論じておられるのである。

 

人間は男と女に分立しているが、その区別に関して、バルトは次のように述べている。

 

「人間と人間の間のほかのどんな区別とも比較され得ないほどの徹底性全体――の中で、関係を指し示す唯一の指示であるからである。人は、両方のことを語らなければならない。

すなわち、人間は必然的に、完全に、男女かである。それと共に、それ故にこそ男女とである、と。人はこの区別・・から自分を解放することはできず、男か女かの規定の彼岸で『単なる人間』であろうとすることはできない。すなわち、人間は、人間としてのあらゆる共通のものを持ってはいるが、それでもなお事実、常に、どこででも、男の人間あるいは女の人間である。……そのようにして彼ら両方が彼らの出会いに、また彼らの共存に、指し向けられ、合わせて整えられているのである。これ以外のいかなる人間の間の区別・・も、人間である男と人間である女が全く別なものであるという区別ほどに深くはない。……女は男にとって、男は女にとって、他なる・・・人間である。しかしまさにそのようにしてこそ共に生くべき・・・・・・人間〔隣人〕(Mitmensch)である。」(カール・バルト著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳、新教出版社、1980年、6-7頁)

 

このように、バルトは「神の像」の理解において男と女の区別を強調し、「人はこの区別・・から自分を解放することはできず、男か女かの規定の彼岸で『単なる人間』であろうとすることはできない」と述べている。

 

「神の像」の解釈で、ブルンナーは「一対の人間」を強調していたが、バルトは男と女の区別を強調する。この両者の主張の統一は、イエスが「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』彼らはもはや、ふたりではなく一体である」(マタイ19・4-6)と言われた御言の中にある。

 

原理的に解説するなら、「父母=神」((1))→「男と女」((2))→「二人は一体」((1))と発展運動をして四位基台を完成する。「正」とは「神の似姿」である父母(「一対の人間」)であって、そこから「分」として「男と女」に区別されて顕現する。そして、「分」は結婚して再び「神の似姿」の「合」(一体)となるのである。

バルトは「三位一体の神」から人間論を説いたが、統一原理は「夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない」(『原理講論』446頁)と述べている。

 

文鮮明師は、「結婚」について次のように述べておられる。

 

「神様自身が男性格と女性格をもっていらっしゃるお方なので、そこから分立された実体対象として創造された人間も、男性と女性として創造されたのであり、彼らが結婚すれば、実体として神様に代わる陽性と陰性になるのです。」(『宇宙の根本』17頁)

 

また、次のように「神の似姿」(中和体)について語られている。

 

「一男一女は無形であられる神様の実体対象として表れた息子、娘です。……一人の男性と一人の女性は、それぞれ神様の一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は神のプラス(+)性稟とマイナス(-)性稟が一つとなることです。すなわち神様に似た中和体となるのです。それゆえ人間二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体なのです。」(『真の神様』125頁)

 

さらに、「人間の完成」について、次のように語られている。

 

「人間の完成はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だからです。したがって、男性と女性が完全に一つになった愛を中心としてのみ完成するというのです。アダムが完成するには誰が絶対に必要でしょうか。神様が絶対に必要なのですが、神様は縦的に絶対必要です。アダムが完成しようとするなら、縦横の因縁をもたなければなりません。縦横の愛の因縁をもたなければ回転運動、球形運動が不可能です。それゆえに、横的にアダムに絶対必要とするのはエバです。同じように、エバにも絶対必要なのがアダムです。」(『宇宙の根本』96頁)

 

上述の御言の中に、「神の像」の解釈における、ブルンナーとバルトの対立を〝克服〟する内容があるのである。

 

ところで、先に取り上げた「共同人間性」と性差による「男と女の区別」に関するバルトの「神の像」の解釈は、フェミニズム神学や社会学的視点を持つ神学者にいろいろと影響を与えている。

しかし、バルトの男と女の性差の区別は、同性愛や生の多様性を主張する見解を克服し得えない。統一原理の神論は、彼らの主張に対する批判と克服の根拠となる。

神はホモなのであろうか。同性愛こそ、偽りの「神の像」であって、それは偶像崇拝である。「神の像」である男と女の成長過程を分析し、「結婚」の意義と「家庭の愛の秩序」を解明し、二人は絶対「性」を守ることによって神人合一して「真の父母」として完成するのであると言われている。しかし、彼らはこの原理を知らないのである。

 

自然もペア・システムである。(+)と(+)は反発して作用しない。(+)と(-)が作用するのである。また、男と男、女と女から子供は生まれない。それは血統の断絶である。同性愛の形態は、自己欺瞞であって、「存在の原理」に反している。言うまでもなく、同性愛やフリーセックスは、神の真の愛の形態(神の像)に敵対し、神を冒涜している。彼らは、創造本然の男と女の関係と真の愛の喜びを知らず、自己破壊の道を歩んでいる。彼らに真の愛の完成はない。

 

「男と女の区別」と神の戒めが、隣人と共なる人間性の中で、何を語ろうとしているかをわれわれは問わねばならない。「取って食べるな」、「取って食べると死ぬ」といわれた「園の中央」にある「木の実」とは、一体何であるのか(創世記2・17、同3・5)を、伝統的神学の文字通りの〝神話的解釈〟を克服して、真理を明らかにしなければならない。

 

夫婦の愛の関係において、夫にとって妻は唯一・絶対であり、妻にとって夫は唯一・絶対である。イエスは、「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・6)と言われた。このことを、文鮮明師は神の誡めとして、絶対「性」を守るようにと言われている。

 

文鮮明師は、性殖器は愛と生命と血統の「本宮」であると、次のように述べておられる。

 

「女も男も愛の本宮をもっているのです。……夫婦が一体になるところの本宮です。男女の生命が一体になる本宮です。そこ(本宮)において血統がつながるのです。それ以外は血統がつながりません。……その本場(本宮)が、堕落のために悪魔の本場となり、本宮が地獄の悪魔の本宮になってしまいました。天国と神様の本宮になるべきものが、神様の愛の本宮、神様の生命の本宮、神様の血統の本宮になるべきものが、悪魔の三大基地になってしまったのです。」(『続・誤りを正す』68頁、世界基督教統一神霊協会編)

 

これは、人間始祖アダムとエバの関係において、真の愛ではなく、自己中心的な愛を動機とする堕落の出来事とその結果に対する分析である。

 

文鮮明師は、真の家庭での愛の経験内容を分析して、愛を概念的に「四大心情圏」として説かれたが、その「四大心情圏」の視点から見て、「神ご自身こそが関係の中にある」というバルトの主張に、われわれは注目せざるを得ない。

しかし、上述のごとく、バルトは形状的な男と女の区別のみを強調して、二人の性相的関係(愛の成長過程)を捉えることができず、「共に生くべき人間〔隣人〕である」と言うに止まっている。

 

(4)「バルト神学の限界」

 

男と女として存在する人間と同様に、自然はペア・システムとして存在する。それは、愛のためであり、自然は愛の博物館である。神の本質は心情(愛)であるから、正分合と発展運動が展開するのである(『宇宙の根本』63-81頁、参照)。

しかし、自然神学を排斥するバルト神学では、今日の自然環境の破壊による危機的状況に対して、何も発言できないのである。

また、神に成長(発展)という概念があることを知らない。発展運動は、ヘーゲルのいう「正―反―合」ではなく、「正―分―合」である。

 

言うまでもないことであるが、「神の像」である男と女の関係は「相対的関係」であって、弁証法的唯物論のいう「対立的関係」(支配と被支配の関係)ではない。全ての存在は、ペア・システムとして存在し、二つは闘争のためではなく、愛のために動き、存在するのである。

 

ブルンナーは、「結婚の意義はキリストによって説かれる」と洗礼ヨハネ的発言をしているが、バルトは、パウロ(コリント人への第一の手紙7章)を根拠として結婚、離婚、独身について述べている。「男は女に触れない方がよい」というパウロの言説は、再臨が迫っているという終末論的動機から出たものであるが、永遠に独身でいることではない。キリスト者にとって〝小羊の婚姻〟が最大の願いであるからである。

 

四大心情圏と三大王権の観点から見れば、パウロを根拠とするバルトの隣人(「共なる人間性」=友情)は、再臨を待望する兄弟姉妹の心情(愛)の次元である。さらに一段高い「結婚」の意義と「夫婦の愛」と「父母の愛」に関しては、原理的に解明し得ず、再臨の御言によらねばならないのである。

人間(罪人)は誰も、神の「真の愛」と一つとなった本然の「夫婦の愛」、本然の「父母の愛」を知らないのである。さらに、心情(愛)は発展し、孫が生まれ、その孫が結婚した時に、「祖父母(王と女王)の愛」(三大王権)が完成することを知らないのである。

 

(5)「バルトに対する原理的克服論」

 

バルトの「神の像」の解釈について、原理的視点から見て、次の諸点が指摘される。

 

第一に、神論について、神はご自身を啓示し、「神の像」(男と女)と定義している。

統一原理は、神は「二性性相の中和的主体である」(『原理講論』47頁)と述べ、「同時に愛の根本であるお方が神様」(『宇宙の根本』44頁)であると述べている。「真の愛の起源が神様だ」(同)というのである。

これに対して、バルトは「三位一体の神」であるという。神概念に関して、前者は女性性相があるが、後者は女性性相がない。この両者の神論の相違を明らかにし、バルトの神観は、無形(父)と有形(イエスと聖霊)の混在した神であると指摘しなければならない。また、哲学的な神概念を否定するバルトは、神の愛を概念的に述べていない。二性性相という概念は、神を哲学的に論ずることを可能にした。この功績は偉大である。

 

統一原理は、創世記1章27節の「神の像」から神を究明し、神の陽性と陰性の側面を次のように定義している。

 

「創世記1章27節に『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』と記録されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かるのである。」(『原理講論』創造原理46頁)

 

このように、「神の像」から、人間論ではなく、まず神論を究明しているのである。

「天の父」という概念の中に、男性性相(陽性)と女性性相(陰性)の二性性相があるのである。

 

また、文鮮明師は二性性相に関して次のように述べておられる。

 

「男性には女性の性相があります。女性も男性の二性性相の要素をもっているために、男性が暮らすことのできる場所があるのです。神様は二性性相なので、女性とも男性とも暮らすことができます。それと同じように、一つの相をもった夫も、女性が二性性相の要素をもっているために夫人の胸の中にとどまることができます。女性も男性の心の中にとどまることができます。一つです。離れることができないのです。」(『宇宙の根本』48-49頁)

 

神は無形である。人間は神の体であり、神が臨在する神の宮(コリントⅠ、3・16)である。「アダムとエバを創造したのは、無形の神が実体の神様として登場するためなのです」(『真の神様』119頁)と述べられている。

2000年前、イスラエルに、イエスは〝実体の神〟として登場したのである。

 

第二に、人間論について、神が人間(男と女)を創造された目的は何か。

神の創造理想(創造目的)は、アダムとエバが家庭を完成して人類の「真の父母」となり、天国を創建することであった。有形なる世界は体がなければ主管できない。それで無形なる神が実体の「真の父母」として顕現してこの世界を直接主管されるのである。

「神の創造理想(創造目的)とは、理想家庭を形成して、この地上に天国をつくることにあった」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』402-408頁)のである

人間と自然の関係において、「神の像」は人間の優位性の根拠となり、自己中心的な人間が自然を支配することを正当化してきたが、愛なる神が人間となって自然を直接主管することによって、人間と自然の関係の諸問題は解決する。

 

神のみ旨(創造理想)は、アダムとエバの堕落によってなされなかったが、イエス・キリストと再臨主によって必ず成就される。

 

第三に、神は無形であり、目に見えない。それでは如何にして神を認識するのであろうか。

文鮮明師は、「神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であるので、霊界に行っても見ることができません」(『真の神様』13頁)と述べておられる。

この目に見えない無形なる神を、バルトが言うごとく、「他者との関係で知る」とは、一体どのようにして知るのであろうか。

われわれは、文鮮明師の御言(『宇宙の根本』と『真の家庭と家庭盟誓』)によって、神の真の愛を「四大心情圏」と「三大王権」として認識している。

 

神を知るとは、我々人間が再創造されてキリストのごとく〝神人一体〟となり、「完全な者」(マタイ5・48)となることである。そもそも神が「神の似姿」として男と女を創造したのはなぜかというのである。

バルトは、男と女の差異は「構造的、機能的な区別に基づいている」(同、『教会教義学』6頁)といい、「抽象的な人間」に解消することはできないという。そして、具体的な人間として、「むしろ常に、いたるところで人間的なとして、あるいは人間的なとして、存在する」(同、6頁)というのである。

しかし、この主張は、事実関係を述べたに過ぎない。なぜ人間はそのような男として、あるいは女として創造されたのかという問いに対する答えを究明しなければならない。

 

文鮮明師は「二性」(ペアとして男と女)として存在するのは愛のためであると、次のように述べておられる。

 

「この世の中のすべての存在がペア・システムになっているのです。それは愛のためであり、何の愛かというと、神様が喜ぶことのできる本然の愛、真の愛のゆえなのです。」(『ファミリー』1993年12月号、21頁)

「男と女を総合して、中心に立って動かすものが愛です。それでは、男性と女性が和合して愛を中心として動くことがどこから始まったのかといえば、神様の二性性相からなのです。男性性稟と女性性稟が和合したものを相対的に展開させたのです。」(『宇宙の根本』41頁)

 

このように、神は二性性相、自然も二性(ペア・システム)である(『宇宙の根本』135頁)。男一人、女一人では神を完全に認識することはできない。神は愛であるというが、愛は一人では知り得ない。それでは神の愛を如何にして知り得るのであろうか。「愛は、必ず相対を通して現れて成される」(『宇宙の根本』94頁)と述べられている。男にとって愛の相対は女であり、女にとって愛の相対は男である。神にとって、愛の相対は人間であって動物ではない。

 

このように、「真の愛」は神から、そして、男と女を創造されたのは「真の愛」のためであると述べておられるのである。

 

第四に、神と被造物の関係について、文鮮明師(真のお父様)は、原理的に次のように語っておられる。

 

「だから男女関係、オス・メスの観念というのは、宇宙の本源である。神様が存在して創造の前にちゃんとその観念があったので、その観念に合うように成し得たものが、プラス性格とマイナス性格、オスとメス、男女関係の世界だというのです。」(『ファミリー』1992年7月号、66頁)

 

それゆえに、「宇宙の根本は愛である」(『宇宙の根本』82頁)と言われ、「人間は万宇宙の愛の中心」(同、92頁)であり、「天地をペア・システムで造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です」(同、113頁)と語られている。

 

真の愛を動機として、この天地万物が生成しているというのである。

以上のように、「神と人間と万物の創造本然の関係」に関する諸見解は、自然神学を拒否するバルト神学にはない見解(克服論)である。

 

(注:「像と似姿の区別」について)

一方で「神の像」と「神の似姿」とは、ヘブライ語旧約聖書では同義語であって、両者は厳密に区別されていない。そして、教父たちが両者を区別するようになったのは、七十人訳がeikon とhomoiosis とに訳し分けたことに起因すると考えられている。

 

他方でヘブライ語聖書では、創世記1章26 節の「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」における「かたどり」と「似せて」はそれぞれzelem とdemut という別の単語が用いられている。つまり「神の像」と「神の似姿」はヘブライ語において最初から区別されているという。

 

「像と似姿の区別」について

人間が「神の像」にしたがって造られたとしても、必ずしもそれが現実態として実現されているわけではない。それはいわば萌芽として、あるいは可能的な傾向性として与えられているにすぎない。これに対して「神の似姿」とは、可能態としての「神の像」がまさに実現されるべき現実態を指している。したがって、それはすべての人間の向かうべき究極的な最高目的を意味することになる。この「神の似姿」はキリストにおいては完全に実現されているが、一般的には神との交わりを通して漸次実現されていくものと考えられる。

 

この「注:『像と似姿の区別』について」は、濱崎雅孝(京都大学非常勤講師)著『キリスト教思想研究の現在発表レジュメ(2004/05/10)― 神の像として造られ、神の似姿へと向かう人間(仮題)』からの抜粋である。