Archive for 4月 9th, 2013

バルト10 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(10)

「教会教義学」

 

「神認識」(キリスト諭的集中)

「キリスト論的集中」とは「神の名」(イエス・キリスト)の啓示から発想する思惟様式であり、それ以外のところから出発することを拒否する神学(キリスト中心主義)である。注④

従って、その思惟様式以外のところから神と被造物〔人間〕の類比を説く自然神学や哲学などの一切の人間学的要素が排除される。

 

バルトは、彼の主著『教会教義学』(「神の言葉」、「神論」、「創造論」、「和解論」)の最初の巻(『神の言葉』Ⅰ/1)の序説で、キリスト中心主義を「存在ノ類比」(analogia  entis=アナロギア・エンティス)の否定として、すなわち、トマス・アクィナスの神学的方法論の否定として言い表す。

バルトはローマ・カトリック教会のこの「存在ノ類比」(「存在のアナロギア」)は「反キリストの発明」(『神の言葉』Ⅰ/1、序説)であると糾弾した。注⑤

なぜなら、「存在のアナロギア」は、神の啓示、すなわち、キリストを抜きにして、人間の生得的な自然理性で神を認識することができると主張するからである。一応、存在による神と人間の間に、その類比は成立するが、人間は罪によってその本質構造(神の像)は歪められており、人間の理性は曇らされているので、神を正しく知り得ないと言うのである。

 

*カトリック神学の「神と被造物の類比」について

「被造物はその『存在からして』、本性上、神へ向けて秩序づけられており、神と類縁の存在であるがゆえに、われわれは被造物から創造者を推論することができるということである」(『バルト神学入門』エーバハルト・ブッシュ、新教出版、111頁)

*「バルトは『教会教義学』を『存在の類比』による人間や世界から神へと上昇する方法ではなく、それと完全に対極的な、神から、上から考える方法によって、つまり哲学的なものをきっぱりと除去した純粋神学として構築する。」(『バルト』大木英夫、212頁、講談社)

バルトは上述のような「存在ノ類比」を否定する。プロテスタント神学は統一原理を同類の神学であるとして否定する。しかし無原罪のメシヤが説いた神認識(「神と被造物の類比」)であることを知らないのである。

また、統一原理は人間や世界から神へと上昇する方法だけでなく、それと完全に対極的な、神から、上から考える方法の双方で、論述している。言い換えると、帰納法と演繹法の双方で論述しているのである。

注④  神の名」について、――「神の名」とは神の人格的主体の独自性を示すもので、主体、しかも固有名詞的独自性における主体であって、概念のもつ客観的普遍性に解消することはできない。「神は決して〈何〉ではない……神は〈誰〉である」(『バルト』大木英夫著、講談社、202頁)。

上述のごとく、バルトは「神の名」を強調するが、われわれはこれをどのように理解すればよいのであろうか。

聖書には「神のかたち」のごとく人(男と女)を造ったと啓示されている。また、固有名詞として「アダム」と「エバ」と、その名が記されている。言い換えると、神はご自身の似姿として、一方においては、人間として男と女、すなわち神様の息子と娘としてご自身の似姿を啓示され、他方においては「アダム」と「エバ」という固有名詞として啓示されているのである。従って、普遍的概念的に捉える側面と、主体として固有名詞として捉える側面の両側面がある。それゆえに、一方のみの強調、他方の否定は正しい神認識に至らないと言えるのではないか。バルトがいう「神の名」とは、言うまでもなく「イエス」をいう。そして、バルトはその名以外に神を認識し得ないというのであるが、その神は独身男性の神である。その他に聖書は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、「わたしは、有って有る者」(出エジプト、3・14)とモーセに言われた神の名の啓示がある。しかし旧約聖書はキリスト論的に与型論的に解釈されイエス・キリストの名以外は次のように拒絶される。「神の名の告知の本質は名の拒絶にある・・・・その場合―私たちが神をそれにおいて知りそれにおいて語りかけることの許される名において、その名が拒絶されるのである」(『バルト神学入門』、エーバハルト・ブッシュ、新教出版社、24頁)。

注⑤  アナロギア」(analogia)について――アナロギアとは数学における「比例」を意味する。比例は有限なる数と有限なる数との間に成立するものである。神と被造物の間に成り立つアナロギアは、このような有限なる関係ではない。神の存在は被造物との比例によって測られる有限る存在でないからである。言うまでもなく、トマスのいう「存在のアナロギア」は有限なる存在者と有限なる存在者との間に成り立つ「アナロギア」ではない。それは「存在のアナロギア」ではなく、「存在者(被造物)のアナロギア」である。神(「無限なる存在」)と被造物(「有限なる存在」)との間には数学的な意味での比例は成立しない。従って、トマスのいう「アナロギア」は数学的意味での「比例」ではなく、「関係」を意味するものなのである。つまり、無限なる存在と有限なる存在の「アナロギア」は「在らしめる存在」と「在らしめられる存在」との間に成り立つ「存在の関係」であり、最も根源的な意味での存在の因果の関係である。ただし、神は諸々の存在者と同一平面において諸々の存在者の原因になるのではない。それは、垂直的に個々の存在者の存在原因としてかかわるのである(『トマス・アクィナス』山田晶著、中央公論社、49~51頁 参照)。

科学的世界観を持つ現代人に、トマスの言う「存在のアナロギア」を説明できるのは「統一原理」(第二節、「万有原力と授受作用および四位基台」)以外にないであろう。縦的関係(垂直的関係)と横的関係(平面的関係)の授受作用と万有原力との関係、すなわち、生命、作用、存在、などにおける授受作用の原理のことである。

「存在のアナロギア」は自然神学の原理であり、啓示神学は神の恩恵授与の決断と人間の恩恵受容の決断との間に成り立つ「信仰のアナロギア」を根本原理とする。バルトはキリスト者は啓示神学であって、自然神学を反キリストとして排斥する。しかし、トマスは、公然とアリストテレスの存在論を神学に導入し、そこで哲学と神学、あるいは自然と恩恵の総合を企てるのである。すなわち、理性によって知られる「神の知」と、啓示によって知られる「神の知」との間に、この両者の何らかの共通性があるとみる。それはこのいずれの知も根源的には、神から人間に与えられた恩恵によると見るからである。理性も神から与えられたものと見る。従って、これら二つの「神の知」がバルト神学のように敵対的に対立することなどあり得ないとトマスの思想からは見るのである(同上、53頁、参照)。

バルトの観点から見れば、トマスは理性による神の知と啓示による神の知の総合というが、理性は神から与えられたとはいえ、理性は罪に歪められているので、その神の知も歪められている。従って、キリストと聖霊によって新生した理性と捉えなければならない。また啓示はたんに神の啓示ではなくキリストの出来事としての啓示と捉えないと、いくら恩寵を授与された者と言っても、キリスト抜きでの総合は不可能であると指摘できる。原理的観点はキリストの出来事による啓示と神による啓示という二つの啓示を再臨のメシヤの理性によって統一されるのであって、それ以外の人によるのではないと見るのである。

バルト神学は他の神学理論を破壊するが、同時に統一原理の創造原理(神の定義)は自然神学であると見て敵対者となり得る。