バルト11 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(11)
「神認識の可能性とその根拠」
それでは如何にして神認識は可能なのであろうか。
先に論述したごとく、バルトの神認識の問題は、歴史的政治的状況下で、他の神学理論の批判から形成されていったのである。それも個々の宗教に対する批判ではなく、宗教そのものの批判である。その批判はまずもって、まさにキリスト者たちに対して遂行されていった。
バルトによると、宗教とは「いたるところ全面的に、神ご自身とかかわらない一つの虚構であり、真理が(われわれのところに)来ることによってだけそのようなものとして、虚構として認識されることのできる似而非なる神である」(『バルト神学入門』63頁)というのである。つまり宗教は不完全なものであり、完全な真理(キリスト)が来ることによって既存のものが虚構であり、一部分であることが暴露されるというのである。
また宗教に対して、宗教は「ご自身を啓示においてわれわれに差し出し現示する神の現実の代わりに、人間が自ら勝手に独断で描き出した神の像」(同上)であると厳しく批判する。
神はただ神によってしか人間のもとに来ることはありえない。人間がもし自分から神を捉えようとして手を伸ばすなら、本当のところ彼がつかむのはただ「独断で描き出した神の像」でしかないというのである。
このように、キリスト中心主義から見れば、宗教は独断論であり、虚構であり、神でないものを神であると言って礼拝する。そしてバルトは「宗教はそれ自身によるならば不信仰以外の何ものでもない」(『バルト神学入門』E. ブッシュ、64頁)というのである。
それでは真の神認識の可能性は一体どこにあると言うのであろうか。またその認識が真理であるという判断基準はどこにあると言うのであろうか。
大木英夫氏はそのことに関して次のように述べている
「宗教的願望や宗教的想像力は、啓示に反するものとして、徹底的に否定された。人間の宗教的主観の投影にすぎない虚像が神認識の対象ではない。しかしこうして人間の可能性が完膚なきまでに破壊されたあと、一体人間の神認識とはいかにして成り立つのだろうか。もしそれが成立するとすれば、それは人間の内在的能力によってではあり得ない。それは、無から有をつくり出すような、いわば奇蹟的な出来事として成立する」(『バルト』大木英夫著、講談社、227頁)。
右の文言にあるように神認識の可能性―、それは「奇跡的な出来事」によるのである。言うまでもなく、曇らされた理性の新生は、「キリストの出来事」(和解)による以外にない。それゆえ、バルトはキリストの啓示の出来事が神認識の根拠であるというのである。
バルトは教会教義学で次のように述べている。
「神認識の可能性は神からしては、次のこと―神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うという―から成り立っている」(「教会教義学」―『神論』Ⅰ/1、新教出版社、115頁)。
「神は自分自身からして、自分自身を通して、認識される」(神論Ⅰ/1,119頁)
このようにバルトは、神がいまし給うことや、認識が幻想でないことを証明できるのは、ただ神ご自身でしかないというのである。言い換えると、神認識は神からであって、人間の側からではないというのである。
以上のように、神と人との真の対応や真の神認識は、人間に生得的な本質や存在に基づくのではなく、「キリストの出来事」によって神と人との間に新しく確立された関係に基づくというのである。すなわち、キリストによる和解が一切の尺度であるということである。注⑥
ブッシュ教授はバルトの尺度、すなわち真理(キリスト)について次のように述べている。
「尺度とは、私たちが神をキリストの和解以外のところで見てとろうとするとき、本当に神と関わっているのか、それとも一つの幻想とか悪霊とかに関わっているのではないのか、それを決める尺度である。それゆえキリストこそそのための尺度である。なぜなら、神は、ヨハネによる福音書1・14に語られているようにキリストにおいてご自身を啓示したもうたのだから」(『バルト神学入門』、エーバハルト・ブッシュ、新教出版社、44頁)と。
*「罪人を救うキリストの行為が神の呼びかけに応答する人間を創り出す根源的出来事であると理解し、このキリストの出来事の中にだけ神の臨在を見るのである。」(『カール=バルト』大島末男、94頁)
キリストの出来事とは、降誕、復活、臨在、再臨であり、キリストの出来事が原歴史である。この原歴史の中に世界史の全過程を包摂する。しかし、統一原理のごとく歴史の同時性をバルトは解明していない。
「信仰が認識に先行する」
バルトは「神論においても、また神認識についての教説においても(ほかのところからではなく)イエス・キリストからして、神の言葉からして、語り、論じられなければならないということが大切である」(『神論』Ⅰ/1、448頁)というのである。
ブッシュはバルト神学の神認識ついて次のように解説している。
「神学とは根本的に自己自身からはじめることのできない思考である。この思考は自らに先行し自らにすでに与えられているもののあとを追う。キリスト教神学はこの先行する所与のものに完全に依存する。それを基礎づけることも、証明することも、生み出すことも、神学にはできない。神学はただそこから出発し、そこから由来し、そのあとを追うことができるだけなのである。そしてわれわれは、ただちにここで、バルトの認識理論の根本命題を理解することになる」(『バルト神学入門』、E.ブッシュ、57頁)。
以上のように、神の言葉において神認識は実現されるが、「神の言葉による拘束が生起しなければならない」(『神論』Ⅰ/1)ということを強調する。そして拘束を振り切ると逸脱するというのである。キリスト抜きで真の神の認識はありえないということである。
このようにバルト神学とは、「信仰が認識に先行」し、信じている所与のことを追思考すること、すなわち「思考とは追思考である」ということである。先に論述したが、アンセルムスの定式で言えば、「神学とは、信仰が信じていることを理解しようとする企てである」(同上、『バルト神学入門』70頁)ということである。
*バルト神学は、ティリッヒから認識の基礎に信仰をおく不合理な信仰主義(fideism)と批判されている。カトリックからは「存在の比論」があって「信仰の比論」「関係の比論」が成立すると反論された。父と子と聖霊の存在があってバルトのいう「三位一体の神」があり、その存在が前提となって「信仰の比論」が生じるというのである。それでカトリック神学に相似するバルトのアナロギアは「隠れたカトリック主義」(『神の言葉』Ⅰ/1)として嫌疑をかけられたのである。
注⑥ キリストの出来事は包括的な概念で、まずイエス=キリストの具体的な歴史的事実を指示し、次にこの事実の中に巻き込まれて生き方を変えられた人間が神の呼びかけに応答することによって展開する根源的歴史(関係)を指す」(『カール・バルト』大島末男著、清水書院、49頁)。
再臨は初臨の勝利を継承し、残された神様の「み旨」(創造目的=家庭的四位基台の完成)を実現し天国を創建する。