バルト12 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(12)
「三位一体論」
周知のように、三位一体論は聖書の中にはない。それは四世紀に教会でつくられたものであり、キリストにおける神の啓示の正しい解釈として教会によって承認されたものである。
バルトは「教会教義学」のはじめに三位一体論を叙述している。バルトの三位一体論は、「キリスト教の神論をキリスト教の神論として・・・すべてのほかの神論および啓示概念から、根本的に区別し、抜きん出させる」(『神の言葉』Ⅰ/2、15頁)と言う。
このように三位一体論はバルトにとって「抜きん出させる」というほど特別な教説なのである。すなわち、教会教義学のはじめに説かれ、高みにいます方、絶対者というような形而上学的な空虚な神と区別するためである。
このバルトの三位一体論の根底には旧約聖書に頻繁に出てくる神の宣言、すなわち「神は主としてご自身を啓示したもう」(『神の言葉』Ⅰ/2、26頁)という神の言葉を根拠としている。
その意味は、「神はご自身を霊として啓示したもう……父と子の霊として、したがって同じひとりの神として、しかしまたいまや同じひとりの神としてもそのように啓示したもう」(「バルト神学入門」E.ブッシュ、78頁)ということである。この啓示が三位一体論の根あるいは根拠なのである。もし、「歴史における神の自己啓示がなければもともと三位一体論もない」(同上、78頁)ということである。
以上のように、バルトは啓示が三位一体の根拠であると言っているのである。ここまでは理解することは容易である。
「三位一体について」
*「神は三位一体の交わりの中で、互いに愛し合っているので、自己充足している神であり、さらに人間との交わりや人間の愛を求める必要のない自由の神である」(『カール=バルト』大島末男、148頁)
「神は三位一体の交わりの中で愛の生を完結しており、われわれを愛する必要はない。したがって神がわれあれと交わりを求めるのは、ただ神の自由の恵みに基づく。」(同上、151頁)
われわれを愛する必要はなく、自己充足している神がなぜ人間を創造したのであろうか。このことに関して大島末男氏は次のように述べている。
「真の愛とは、満ち足りた自己の生活の殻を破って、他者のために存在することである。したがって神は、自己固有の本質的な交わりの豊かさを自分だけで享受するのに満足せず、われわれと交わりをもつことを欲する。」(同上、149頁)
答えは、真の愛なる神は「われわれと交わりをもつことを欲する」ということである。
*「バルトは三位一体の神の交わりを創造の存在根拠と理解するが、この存在根拠が創造の歴史の中に出来事として生起したのが、創造の冠であるアダムとイブの創造である。夫と妻の交わりは、神と人間の契約と和解の予型であり、神は、アダムとイブの創造において、キリストの受肉におけると同様に、神自身の完全な本質を歴史の中に繰り返したのである。
したがってアダムとイブの創造は、創造の歴史の最後の行為であると同時に、契約の歴史の最初の行為であり、創造と契約を統合する神の根源的出来事である。創造と和解の本質は交わりであり、創造の歴史は契約の歴史の根を隠し、時間的には創造は契約に先行するが、本質的には契約と和解が創造に先行する。」(同上、174頁)
「時間的には創造は契約に先行するが、本質的には契約と和解が創造に先行する」と論述され、十字架が予定であり、アダムとエバの堕落も必然であるとされる。
罪の中で苦しむ人間やイエスの十字架上の苦しみが、真の愛である神の予定なのであろうか。神のみ旨成就における人間側の責任分担が説かれていないのではないか。われわれはバルト神学に多くの疑問をもつのである。
マルティン・ルター(AD1483~1546)は、「どうして神は、アダムが堕落するのを許したもうたのか。また、神は彼を堕落せぬように保つか、あるいは私たちをほかの裔からか、または清められた第一の裔から造ることができたもうたであろうに、どうして私たちすべてを同一の罪に汚されたものとして造りたもうたのであるか」(『ルター』松田智雄、中央公論社 223頁)と述べている。
フランシスコ・ザビエル(AD1506~1552)に対し、鹿児島の住人が次のような疑問を提起したという話がある。
「確かに悪魔が存在し、それが悪の原理であり人類の敵であることはわかるが、それなら創造主を認めることができなくなる。何故なら、万物を造ったと言ふなら、自分が造った人間が悪魔に誘惑される時、何故人間を保護せず誘惑されるのを黙認したか」(小堀桂一郎著『国民精神の復権』65頁)
これらの論難は文鮮明師の統一原理の堕落論を知っている人なら、難なく答えることができる。
「三位一体論の神の自由」
1、「神の自由な主権」
「神の主権は自由な主権である」(『神論』Ⅰ/2、「神の現実」上、88頁)。自由とは他者からの自由であるが、バルトは「自由とは積極的、本来的には自分自身を通し、自分自身の中に基づいており、自分自身によって規定され、動かされている」(『神論』Ⅰ/2、88頁)という。神はこの意味において自由なのである。他者との関係による自由ではない。
そして神の自己開示は主権的な神的な自由の行為であり、「神はご自身を人間に対して神として現臨させ、知らせ、意味深いものとならしめる」(『バルト神学入門』E.ブッシュ、76頁)。「神は人間にご自身を人間が神を親称であなたと呼びかけることができるほどに理解させたもう」(同上)というのである。
この告知は、聖金曜日にあの隠蔽が、復活日にあの開示が現われたように、聖霊降臨日にあらわれるのである。
以上のように、愛する方としての神の存在は、自由の中での神の存在である。言い換えると、神の主権は自由な主権である。いかなる場合においても、神は自由に生き、愛し給うことができる主権である。そのことにおいて神はご自身を他の生ける者、愛する者から区別されるというのである。
*自由に関して、
統一原理は「自由行動は、自由意志によって現われるものであり、自由意志はあくまでも心の発露である。しかし、創造本然の人間においては、神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことができないので、・・・原理を離れた自由なるものはあり得ない」(『原理講論』、125頁)と述べている。
これは神が「自分自身の中に基づいており、自分自身によって規制され、動かされている」というバルトの主張と一致する。なぜなら神と完成した「本然の人間」は一体となるからである。人間の自由は神が自由であるごとく自由なのである。しかしバルトは「原理」という言葉を拒否する。バルトが膨大な神学書を書くのは概念的に書かないからであるといわれている。
誤解されないように言うが、「本然の人間」(真の人間)とは、神と一体であるイエス様のことで、堕落人間ではない。神は堕落行為に干渉されない。「神の自由な主権」の個所で、神と一体となった天地自由人とはどういう悟りの境地なのか、われわれは考えさせられる。