Archive for 4月 15th, 2014

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(29)

(三)「霊的共同体と三位一体論」

 

(1)「霊的共同体――教会と諸教会」

 

霊的共同体」とは、新約聖書で「キリストのからだ」(コリントⅠ12・27)と呼ばれる。霊的共同体は他のグループと並ぶ一つのグループではない。もし、それらがキリストとしてのイエスにおける新しき存在の顕現に意識的に基礎づけられているならば、それらのグループは教会と呼ばれる。

 

ティリッヒは、「もしそれらが他の基礎の上に立っているならば、それらはシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)、神殿の会衆、神秘集団、修道団、祭祀(さいし)集団、または運動と呼ばれる。それらの集団が究極的関心によって決定されている限り、霊的共同体は、すべてこれらの集団で、隠された力として、また構造として働いている」(『組織神学』第3巻、208頁。注:太字は筆者による)と述べている。

 

キリスト教会における霊的共同体の顕現について、次のように述べている。

 

「キリストの使者なる使徒たちによって、すべての民の中から呼び出され者たちの集まりであり、『天国』(Kingdom of the Heaven)の自由な市民となった者たち、すなわち、『自由人たち』(eleutheroi)の会衆である。」(同、209頁)

 

(2)「三一神問題の再開」

 

ティリッヒは、三一神(三位一体の神)の教義の根本的な改訂を主張し、聖霊の現臨に対する新しい理解を必要とするという。これらに関して、次のように述べている。

 

「『父と子と聖霊の御名によりて』(in the name of the father,the Son,and the Holy Spirit)……また『父なる神の愛、イエス・キリストの恵み、聖霊の交わり』(love of God,the father,and the grace of Jesus Christ and the fellowship of Holy Spirit)によって、その祈りを聞く人々の中に迷信的な心象(しんしょう)を呼び()ますことなしに、祝禱(しゅくとう)をすることができるであろうか」(『組織神学』第3巻、368頁)と。

ティリッヒは、「私はそれが可能だと信じる。しかし、それは三一神の教義の根本的な改訂と、神的生命と霊的現臨の新しい理解を必要とする」(同)というのである。

 

このように、聖霊に対する解釈をめぐって「三一神の教義の根本的な改訂」と、「神的生命と霊的現臨の新しい理解を必要とする」というのである。

この新しい理解とは、統一原理の三位一体論ですでに解明されているイエスと聖霊の原理的な関係のことであるに相違ない。

 

ティリッヒは、三位一体論の「三つという数字」について次のように述べている。

 

「まず第一には、『三一神』(trinity)という言葉の中に含蓄(がんちく)されている三つという数字に関する問いである。この数字を保っている根拠は何か。なぜ神とキリストについての初期の二神論的思惟(しい)傾向が三一神の信条に克服されたのか。その後なぜ三一神論が、四一神論、ないしそれ以上に拡大されなかったのであるか。これらの問いには歴史的根拠と組織的根拠とがある。最初はロゴスと霊の区別は曖昧(あいまい)であるか、もしくは存在しなかった。キリスト論の問題は霊の概念とは独立に発展した。霊の概念は個人やグループを脱自(だつじ)敬虔(けいけん)へと()り立てる神的能力のために保留された。神学思想における四一神論的方向への傾向もあった。この傾向への理由の一つは、三つの位格(いかく)に共通の神性を三つの位格そのものから区別する可能性であり、それは神性を三つの位格の上に置くか、父を三つの位格の一つであると同時に神性の共通の源泉と考えることによって可能にされた。三一神の拡大のもう一つの動機は聖処女を或る位置に高めることであって、そこにおいて彼女はますます神の尊厳(そんげん)性に近づいて行った。大部分のローマ・カトリック信者の信仰生活においては、彼女は聖霊を(はる)かに凌駕(りょうが)し、近代のカトリック教においては、三一神の三つの位格のすべてを凌駕するに至った。もしすでにカトリック教徒の間で議論されてきたように、マリアはキリストと共に共働(きょうどう)の救い主(co-savior)と考えられるべきだという教えがドグマとなるならば、かの処女は究極的関心の問題となり、したがって、神的生命の内部における一位格となるであろう。そうなれば、いかなるスコラ神学的分別も三一神が四一神となることを妨げることはできないであろう。

これらのことは三一神的思惟において決定的なのは『三』という数ではなくて、神的自己顕示の多様性における一致であるということである。もしわれわれが、いろいろな数が可能であるにかかわらず、なぜ『三』という数が優勢であるのかと問うならば、最も蓋然(がいぜん)的な答えは、三は経験された生の本来的な弁証法に適応し、したがって、神的生命を象徴するのにもっとも適切であるということであろう。生は自己から出てゆき、自己へと帰ってくる過程として記述された。弁証法哲学者たちが知っているように、この記述の中には『三』という数字が隠約(いんやく)されている。『三』という数字の魔術的力を引合いに出すことは満足ではない。というのは、他の数、たとえば『四』は魔術的評価において三を凌駕するからである。いずれにしても、われわれが先に述べたこと、すなわち、三一神の信条は弁証法的であるということは、『三』という数が信仰的成文(せいぶん)や神学思想において存在するということによって確認される」(同、368-369頁。注:太字は筆者による)。

 

カール・バルトは、三つの存在の仕方において、父・子・聖霊としてのひとりの神は、それぞれに固有な機能を持っている。父は高みにいます神であり、子はへりくだりにおいています神であり、聖霊は父と子の結びつきの中にいます神でありたもう。「ひとりの神は三度別様に神である」(『神の言葉』Ⅰ/2、125頁)と述べている。

つまり、神は「三つの区別された存在の仕方において唯一の神であり給う」(『和解論』Ⅰ/2、88頁)というのである。

 

バルトの三位一体論の根底には、旧約聖書に頻繁(ひんぱん)に出てくる神の宣言、すなわち「神は主としてご自身を啓示したもう」(『神の言葉』Ⅰ/2、26頁)という神の言葉を根拠としているのである。

 

このように、神を父、イエスを神の子、聖霊を神の霊として啓示される存在であるからというのである。もし、この啓示がなければ三位一体論もないとバルトはいうのである。つまり、三位一体論の存在論的な根拠をあげているのである。

ティリッヒも、「三は経験された生の本来的な弁証法に適応し、したがって、神的生命を象徴する」、「生は自己から出てゆき、自己へと帰ってくる過程である」と存在論的根拠を上げている。すなわち、生の過程の弁証法的論理が存在と一致しているというのである。これは生の弁証法としての三位一体論である。

 

パネンベルクは、唯一の神と三位一体論に関して、次のような問題を提起している。

 

「聖霊論の最も困難な問題、つまり、三一論の中での聖霊の()(かく)的な独立性の問題………父との関わり、とりわけ、御子イエスとの関わりから問題にするのである。まさしく、イエスは父の本質、神の神性に御子として属している限り、父とは区別されているということは、すでにさきに示された通りである。しかし、聖霊については、この関係はどのようになるのであろうか。」(パネンベルク著『キリスト論要綱』、205-206頁)

 

また、彼は「父・子・聖霊が、このような区別にもかかわらず、いかにして唯一の神であるのであろうか。三一論の歴史は、三一性におけるこうした一致の問題との絶え間のない格闘を示している」(同、208頁)と述べている。

 

周知のように、文鮮明師の神学思想である「統一原理」の神概念やキリスト論、そして三位一体論は、歴史的に論争されてきた〝三位一体論〟に対して決着をつける解答を持っている。

 

ところで、神に関する女性的要素について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「………究極的関心の象徴的表現における女性的要素はおおむね排除された。排他的に男性的な象徴をもったユダヤ教の精神が宗教改革において勝利を占めた。疑いもなく、このことは、初期においては勝利を占めていた宗教改革に対して、反対改革(Counter Reformation)が大きな成功を収めた理由の一つである。それはプロテスタント・キリスト教そのものの内部にも、敬虔主義の中に、しばしばむしろ女性化されたキリスト像が現われるに至らしめた。ギリシア教会またはローマ教会への多くの回心者を起こさしめた原因もそれであり、多くのプロテスタント人文主義者たちに取って東洋の神秘主義が魅力あるものとなったのもそのためである。」(『組織神学』第3巻、369-370頁。注:太字は筆者による)

 

このように、神(天の父)は男性であって、女性的要素がないということから、いろいろな問題が生じたのである。

 

フェミニスト神学は、『聖霊は女性ではないのか』(E・モルトマン=ヴェンデル編、新教出版社)と言っている。男性中心主義的なキリスト論や、家父長的な聖書解釈に対して批判し、男性中心の社会システムにおける女性の権利を主張し、さらに、現代社会を支えている価値観や世界観の批判へと進み、文化や意識のレベルでの変革を追及するに至っている。

この女性解放の主張の根本には、「神の父性に対し、神の母性を同権的に併置(へいち)」(同、224頁)しようとする神概念の変革がある。これに答えているのが統一原理の神概念である。

 

ちなみに、カーリ・エリーサベト・ビョレセン(1932年- )は、次のように述べている。

 

「カール・エルンスト・リター・フォン・ベーアによる哺乳類の卵子の発見〔1827年〕により、男性中心主義的に女性を理解しようとするキリスト論の前提は崩れる。ここで父と母との機能が同等のものであるとしてみよう。マーテル・デイの概念、『神的』母性の概念は、マリアの役割の強化を意味することになるだろうと思う。」(『マリアとは誰だったのか』E・モルトマン=ヴェンデル、H・キュングJ・モルトマン編、新教出版社、122-123頁)

 

このように、「卵子の発見」は、女性の復権にも神学界にも大きな影響を与えたのである。

 

「(ギリシャ語の)テオトーコスの概念は……生母であって、母性一般を意味していたのではない。」(同、120頁)、しかし「ラテン語に移された方は、デイ・ゲニトリクス〔神の生母〕からマーテル・デイ〔神の母性〕へと表現内容が変わって行った。」(同、121頁)

 

ティリッヒは、マリアは聖霊を遥かに凌駕し、神的生命の内部における一位格となり、三一神が四一神となることを妨げることはできないであろうと述べている。

 

ところで、統一原理の「神は二性性相の中和的統一体である」という神概念の「二性性相」とは、神の〝神的な男性的要素〟と〝神的な女性的要素〟をいうのであり、同様に「天の父母」とは、神の〝神的父性〟と〝神的母性〟をそのようにいうのである。この統一原理の神概念から「男女両性の本質的平等」という神学思想が生まれてくるのである。

 

統一原理は、無形なる神の二性性相が有形なる分立実体対象として顕現したのがアダムとエバであり、イエスと聖霊であると説いている。

「神―イエス―聖霊」の三位一体と「神―アダム―エバ」の三位一体は類比(るいひ)関係にある。イエスの相対である聖霊は、アダムの相対であるエバに対応しているので、「聖霊は女性である」と言えるのである。伝統的神学は、聖霊を女性として見ていなかった。神は男性であって、女性的要素が排除されていた。そこからいろいろな問題が出てくるのである。

 

統一原理は、聖霊は女性神であると、次のように述べている。

 

「イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を(のち)のアダムといい(コリントⅠ15・45)、永遠(とこしえ)の父といったのである(イザヤ9・6)。………(まこと)の父と共に、(まこと)の母がいなければならない。罪悪の子女達を新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ3・5)と言われたのである。このように、聖霊は真の母として、また(のち)のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。」(『原理講論』キリスト論、264-265頁。注:太字は筆者による)

 

このように、統一原理はパネンベルクの「聖霊については、この関係はどのようになるのであろうか」という問いに対して、明確に答えているのである。

 

結論として、ティリッヒは三位一体論の教義は閉鎖されていないと次のように述べている。

 

「三一神の教義は閉鎖されてはいない。それは放棄されることもできないし、それの伝統的な形で受容されることもできない。それの本来の機能を果たすためには、すなわち、人間に対する神的生命の自己顕示(けんじ)を、包括(ほうかつ)的なシンボルによって表現するためには、それは開かれたままにして置かれなければならない。」(『組織神学』第3巻、371頁)

 

このように、「それは開かれたままに」といい、「伝統的な形で受容されることもできない」という彼の公言は、統一原理の三位一体論を受容することを可能にする〝洗礼ヨハネ的使命〟を持った神学であるといえよう。