ルターと福音主義(5)

(六)「カトリックの反論」

 

ここで、プロテスタントに対するカトリック側からの反論について述べておかねばならない。

 

(1)「福音主義は粗野な主観主義にすぎない」

 

カトリック側は、ルターが「伝承(聖伝せいでん)」を否定し「聖書のみ」(聖書主義)を主張する〝福音主義〟は、「仮面をげば結局主観主義の粗野そやな哲学にすぎない」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、645頁)と批判する。

 

つまり、宗教改革の当初からこの主観主義の混乱があり、自己の聖書解釈をもってカトリックの伝統に代え、己の個人的権威を法王とカトリックの教権とに替えたと批判するのである。

 

また、岩下壮一氏は「ローマ法王の権威にかえうるに幾多の小法王の権威をもってし、世界的大教会の教権のかわりに群小教会の教権を樹立する滑稽こっけいな立場に陥る事になる」(同、394頁)と批判する。そして、個人主義の行きつくところは、独裁専制であるというのである。

 

これに対して、カトリックは聖伝と教会法によって限定された言わば立憲的なものであると次のように述べている。

 

「プロテスタント教会の実状は……信者はやはり牧師のおしえる所に従い、長老は事実教会を統率とうそつしているのではあるまいか。しこうしてローマ法王の権威や世界的教会の教権は、外部より規定し得ざる個人の体験のごとき独断的なものではなく、聖伝と教会法によって明らかに限定された言わば立憲的なものであるに反し、小法王等の権威と群小教会の教権に至っては、全然暴君の独裁専制にまで堕落し得るものである。」(同、394-395頁)

 

「伝承(聖伝)」に関しては、原始教会内で最初の福音書の著述に先立って、既に使徒たちによって説かれていたものであると、次のごとく述べている。

「聖書だけを採用して、聖書の基礎となった聖伝を捨つるに至っては、最も滑稽こっけいである。

キリスト教の信仰が原始教会内における最初の著述に先立って既に説かれたのは、疑う余地もなき明白な事実で、新約聖書自身がそれを証している。福音書は使徒等のキリストの生涯と奇蹟きせきと教訓とについての説教の一部を書いたものに過ぎず、かつ、これ等の事蹟は、文字に書き表さるる以前に一定の解釈を附されていた。そうしてその解釈は使徒の権威によって真なるものとして教えられ、かつ、受容うけいれられていたことは、彼等の書簡がまた明らかに示している」(同、395頁)と。

 

例えば、「テサロニケ後書中にも『我等の福音』と言い、「兄弟等よ、毅然きぜんとして我等のあるいは談話、あるいは書簡によりて習いしつたえを守れ」(第2章14)と戒めているが、その福音と伝の内容に至っては、もちろん世の終りに関する僅少きんしょうの事のほか、この短き書簡には何事も物語られていない。聖伝を認めずして、いかにしてこれ等の態度や事実が説明し得られようか。」(同、396頁)と述べている。

 

「使徒伝承」は「聖書」として文章化される以前に、生きた活動の形態で伝えられていたというのである。

 

以上が、カトリック側から見た「伝承(聖伝)」と「聖書」あるいは「教権」批判に対する反論である。

 

(2)「十二使徒団と教権」(ペテロに鍵を渡す)

 

キリストがその生存中、弟子の中から使徒となるべき人物を選び、育て、ご自分の使命が何なのか、ご自分の真意がどこにあるのかを言葉で、あるいは親しく交わり、あるいは行動の模範をもって教えられたのは事実である。

 

また、ペテロを中心とする12使徒団は、イエスの教えを他の人びとに伝える使命を受け、「彼らは宣教活動をもって、また殉教において頂点に達する生活態度と、礼拝などの共同で行う宗教生活上の諸制度をもって、またその啓示を文書化することによって、その使命を果たした。この十二使徒たちの指導下にある共同体の生命が『使徒伝承』である」(『私たちにとって聖書とは何なのか』、和田幹男著、女子パウロ会、78頁)ということである。

 

この使徒たちの後継者が司教と言われ、ペテロを中心とした全世界の司教団が受け継いでいると言うのである。これが、ペテロから継承した法王の特権と言われるものであり、「教会の教権」(教会伝承による)と「位階制」の出発点であるということになる。

 

だが、この「伝承」と「聖書」は、「教会が顔と顔をあわせてあるがままの神に相まみえるに至るまで」(同、76頁)、すなわち〝終末〟まで地上を旅するものなのであるというのである。

そして、メシヤに再会すれば、そこで一切が終焉しゅうえんするということ、そして再臨主との出会いから、主にならい、新しい生活が始まるということを意味する。つまり、救いのための「宗教生活上の諸制度」(礼拝、断食、巡礼、贖宥しょくゆうなど)が、全面的に見なおされ、新しく変わるというのである。

 

(3)「信仰のみと教義の矛盾」

 

ところで、誰しも〝信仰義認論〟に対して素朴に疑問をいだくことではあるが、信仰が全く真理の承認と無関係な事柄であるならば、教義的問題などはどうでもよいはずである。

しかし、はたしてそうであろうか。この問題に関するカトリック側の次の批判は傾聴に値する。

 

「直接的救済は、必ず彼等の有する恩寵おんちょうや神の前における義、又は予定説プレデスチネーションの観念によって説明される。これは体験的プロテスタンチズムに内在する矛盾に基づくのであって、いくら信仰は真理の承認ではなく神への人格的信頼だとか、愛の関係(智的要素を除外せる人格的関係もあり得ると見える)であると定義しても、少なくともその体験する神とは何ぞや、キリストはいかなる方か、神の前における我は何者か等の教義的背景なしに、上述の関係が成立するはずはない」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、642頁)と。

 

常々、われわれが信仰義認論に対して抱く一つの疑問(信仰と教義の関係)について、明確な見解が上述の文章の中にある。

 

 

(七)「信仰義認論の限界と再臨」

 

信仰義認は、霊的救いであって完全に救われた状態ではないのである。霊的救いの状態(信仰義認)で完全に救われているというのは主観的な思い込みであって、完全な救いへの途上なのである。霊肉の完全な救いは、再臨による。

 

(1)「最後の審判」(行いの審判)

 

イエスの「十字架の死」を贖罪と信じる信仰によって義とされ、救われているということと、再臨による「完全な救い」(小羊の婚姻)との間には、いかなる関係があるのであろうか。

十字架によってすでに救われているにもかかわらず、なお救い主(再臨)を待たねばならないなら、それでは〝信仰義認〟とは如何なる救いなのか。それ自体で完全な救いではないのであろうか。われわれはこれらの問題を徹底的に究明せざるを得ないのである。

 

聖書には、ルターが強調するごとく、「信仰によって義とされる」(ローマ10・4、ガラテヤ3・24)という聖句があるが、他方で、それと全く対立する「人が義とされるのは、行ないによるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブの手紙、2・24)という聖句もある。

 

〝聖書のみ〟と主張する人が、これら二つの一方のみを取り上げて、他方を否定するのは如何なものか、と考えざるを得ない。

 

エラスムスは、「聖書」が「聖霊に鼓吹こすいされて書かれている以上、自己矛盾をおかすはずもないのだから、その両者を慎重に読み合わせなくてはなるまい」(『エラスムス』、斎藤美洲著、清水書院、142頁)と言っていたが、そこに真理に至る着眼点があるのではなかろうか。

 

世の終わりには、「行い」に応じて審判されると、聖書は次のごとく述べている。

「わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙、5・10)。

 

また、「ルカ福音書」には、「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」(ルカ、6・46)と記述されている。

 

このように、ルターのいうごとく、信じるだけで十分であるとは断言できない。「信じて行え」ということであろうか。

ただし、その際、福音では内的動機が問題とされる。「行い」の根柢こんていにキリストと一体となった真の愛が動機としてなければならない。そうでなければ、「行い」は形式的な律法主義となってしまうのである。

 

このように、二つの対立する聖句の一方を肯定し、他方を否定することではなく、双方の肯定であり、その両者の統一が「両者の慎重な読み合わせ」に他ならない。そこに真理があるといえよう。

 

バルトも、ルターと同様に、神や人間や罪について、キリストを抜きにして、神が人となったイエス・キリスト以外のところで何も語れないと言い、救いにおいて、「人間が自分自身からしては自分の救いのためには何もなしえない」(『カール・バルト著作集2』「ナイン!」195頁)といって人間的な努力や行いを否定する。

しかし、先に述べたごとく、信仰と行いは対立するのではなく、聖書は聖霊に鼓吹されて書かれているので、愛によって統一するように、整合性があるように解釈することが求められるのである。

 

ルターの説くキリストの十字架による贖罪は、「霊的救い」なのである。

したがって、信仰義認は「罪人にして義人」と認められること、つまり十字架による贖罪は神の義との和解であって、それは肢体にある「罪の法則」(ローマ、7・23)から解放されたのではない。罪のあるまま〝義〟と認められる「恵み」なのである。しかし、未だ完全な人となっていない。「完全な救い」は再臨を待たねばならないのである。

 

十字架による救いについて、パウロは次のように述べている。

御霊みたまの最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。」(ローマ、8・23-24)

 

このように十字架による贖罪によって救われた「御霊(聖霊)の最初の実」であるパウロですら、「からだのあがなわれること」を待ち望んでいるのである。

そして、彼は「この望みによって救われているのである」と述べている。「この望み」とは、すなわち、「霊的救い」だけでなく、「肉的救い」(からだのあがなわれること)をもたらす再臨のメシヤを待つ望みのことである。

 

原理的に言い換えると、長成期完成級でメシヤに出会い、再臨のメシヤによる〝祝福〟によって原罪清算する望みのことである。パウロはこの望みによって救われていると述べているのである。

 

ちなみにパネンベルクは「死人の復活」について次のように述べている。

 

「パウロにとって、復活とは新しいからだの新しい生命を意味したのであって、まだ腐敗していない死体が生き返ることではない。パウロは手紙の中で、死人から復活させられた者の〈からだ〉がどういう性質のものであるかという問題を印象的に取り上げている(Ⅰコリント15・35-56)。パウロにとって、将来の〈からだ〉は現在の〈からだ〉と異質のものであり、肉のからだではなく、彼のいうように『霊のからだ』であるということは自明のことなのである。」(W・パネンベルク著『キリスト論要綱』、新教出版社、78頁)

 

このように、イエスの復活後、『原理講論』(266頁)で述べているごとく、「霊的イエスと聖霊」(霊的な真の父母)によって信徒を霊的に新生(重生じゅうせい)するのである。

この『原理講論』の「霊的救い」とパネンベルクの主張とは一致している。

 



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